第62話 絆
6回裏、タイタンズに虎の子の1点が入り、なお2死満塁。
楓は360度ぐるりと取り囲んだタイタンズファンが沸き立つ後楽園ドームの中心にいた。
◆試合経過(東京ー湘南・CSファイナル1回戦)
湘南 000 000=0
東京 000 001=1
湘南の継投:斎藤武、立花−谷口、戸高
「立花、さっきの話だけど……」
内野陣が守備位置に散るのを待って、戸高がマウンド上で話しかける。
「変なリード、でしょ。いつもじゃん。」
「いや、そうじゃなくて。」
「分かってるよ! うるさいなあ!」
いつもとは様子がおかしい戸高に、楓もついイライラしてしまう。
「いや、その……俺がおかしなサインを出しても……」
今日の戸高は何を言っても、珍しく歯切れが悪い。
その様子を見るや、楓は右手のグラブで戸高の顔をつかんだ。
遠目から突飛な行動を見ていた観客が一斉にざわめく。
「いい? 戸高くん。今更言いたくないけど、あなたは私の生命線なの。この期に及んでどんな変なリードをされても、私はその意図を読み取ろうとするし、絶対に首なんか振らない。言わなきゃわかんない?」
スタジアムのざわめきなどまったく気にしない様子で、楓は声をかけた。
「ふぉ、ふぉう……。」
楓の剣幕に圧倒され、グラブを捕まれたまま相づちを打つ。
「それから——」
そういうと、楓はぐっと顔を戸高に近づけた。
「戸高くんがどんな変なサインを出しても抑えるんだから! 私は今やドルフィンズ最強の左のリリーフだからね! どうだ! すげーだろ!」
強めの語気でそう言うと、少し恥ずかしそうにはにかんで見せる。
いつの日か身に覚えのある啖呵に、戸高の顔が少し緩んだ。
「あのさ、戸高くんに何があったか知らないけど、私はあなたを信じて投げるしかないの。しっかりしてよね。 はい、行った行った!」
楓はそう言って戸高の胸についたプロテクターを、グラブで2回ポンポンと叩いた。
「うん、わりい。」
それだけ言うと、戸高は自分の守備位置に戻っていった。
だが、最後の最後に違和感は払拭されていた。
戸高には、今になって自分が今日した行いに対する反省と、羞恥の念がこみ上げていた。
(いつの間にか、立花とセットじゃなきゃ試合に出られないって、不安になってたのかもな……。)
そう思いながら、自分の左手にはめられたミットをじっと見る。
(違う。俺は、ドルフィンズの正捕手になるんだ。)
もう一度心を決め直すと、楓に向けてグラブをいつものようにぽんと一度叩いて見せた。
7番打者の垂井が左打席に入るのを待ってから、楓も満足そうな顔をしてサインをのぞき込む。
しかし、なかなかサインが出ない。
戸高は何やらチラチラと打席の垂井の顔色をしきりにうかがっている。
(上尾さんの配球読みセオリーは、タイタンズ打線全員に浸透しているはずだ。どうすればいい? 考えろ、考えろ考えろ……)
垂井の様子を見ながら頭をフル回転させると、戸高の脳裏にふと1つの考えがよぎった。
(これまではいくつかのテーマを決めて、それをローテーションすることでバッターを欺いてきた。なんとなく立花にも分かるようなテーマだったはず。なら……)
戸高は決心したように唇を一度力強く結ぶと、
(立花にも、誰にも分からない自分だけのセオリーをひねり出すしかない。)
慣れた手つきを装って、素早くサインを出した。
(インハイに、ストライクになる真っ直ぐ。)
楓のストレートは130km/h前後。
高めに強い垂井にそのコースのストレートを要求するのは、自殺行為に等しいリードだ。
常識を持った投手であれば、疑念を抱かないわけはない。
しかし、このサインに楓は力強く頷く。
楓にも不安がないわけではなかった。戸高と同じように、心中に様々な考えが駆け巡る。
(変なリードいってたけど、ほんと頭おかしいレベルだよ。油断したらまた手が震え出しそう。でも……)
セットポジションに入り、ふっと軽く息を吐く。
(私もいつの間にか、戸高くんの変なリードにわくわくしてるんだよね!)
渾身の力を込めてストレートを投じた。
思わぬ棒球にとっさに垂井のバットが出る。
バットはボールを捉えかけるが、アンダースローから意外にふわりと浮き上がったボールを捉えきれない。
打球は天高く舞い上がり、そのままバックネットを越えて真後ろのスタンドに消えた。
ともあれ、これでカウントは0−1。ストライク先行だ。
楓はマウンド上でふうっと大きく息を吐くと、一度帽子を取って額の汗を拭った。
まだ1球しか投じていない楓にとって、その汗が運動量からではなく精神的な要因によるものであることは、自分でもよく分かっていた。
(まったく、ある程度の突飛なリードは覚悟してたけど、これほどとはね。)
帽子をかぶり直して、ホームベースの向こうを見つめる。
(でも、実際にファウルでカウントを稼いだ。それに……)
脳裏にある考えがよぎった。
(これは、見覚えがある……「大胆に交わす」がテーマの初球だ。)
過去に体験したかのようなドキドキ感だったのには、訳があった。
初球にこのコースの直球を要求したのは、これが2回目だった。
戸高には毎日のように楓に対して「別人のようなリード」をすることを課されていたが、楓はその毎日のリードを読み取り、そして記憶していたのだ。
楓はもともと記憶力がいい方ではないが、毎日テーマが変わる戸高のサインは、それだけ楓に鮮明な記憶を残し続けていた。
楓は2球目のサインを覗き込もうとするが、まだサインが出ない。
戸高はまたしきりに打席の垂井の様子をうかがっている。
(さっきから、何してるんだろ? さすがに気にしすぎじゃないかな……。)
戸高がこちらを向くと、ようやくサインが出た。
(インローに、ストライクになるスクリュー。)
意外なサインに、思わず楓がサインに頷くのが一瞬遅れた。
(今日のテーマは、「大胆に交わす」の日のやつと同じだったよね? でも……)
それならば、てっきり2球目はタイミングを外すために遅いボールなのだと思っていた。
(あれ? これ、もしかして……)
再び訪れた既視感に、楓は頭を巡らせる。
(今度は、「スタミナ切れでも超安全な、ザ・かもしれない運転」の日……?)
いつしか毎日の投球テーマがしっかりと楓の記憶にも残っていた。
実際に、そのテーマの日の2球目に、戸高は同じ球種とコースを要求していた。
(いや、まさかとは思うけど……)
頭の中が少し混乱しながら、楓は2球目を投じる。
今度は明らかに驚いた様子で垂井のバットが出遅れ、空を切った。
これでカウントは0−2だ。
(ということは……)
またしても垂井の顔色をうかがう戸高だが、その様子を見る楓の疑念は確信に変わりつつあった。
次のサインが出る。
(インコース低めに、ボールになる小さなシンカー)
今度は楓は口元を少し緩めて大きく頷き、
(やっぱり……!)
と確信してボールを投じる。垂井の体がピクリと動くがバットは途中で止まり、カウントは1−2。
(さては戸高くん、これまでの「日替わりリード」から、「球替わりリード」に変えてるでしょ。)
楓の確信通りだった。
上尾の配球読みのノウハウは、タイタンズの野手陣に浸透していた。
そのため、スコアリング・ポジションのような重要な場面では、ある程度カウントが進んで球種やコースが2択に絞られると、ほぼ100%の確率でこれを当てられてしまっていた。
だが、それは捕手のリード傾向を把握しているからこそできる離れ業だ。
戸高は自ら、「1球ごとに異なる日の人格を演じてリードする」という方法で、この配球読みを交わそうとしていたのだった。
(まったく、どこまでも野球バカだよ。君は。でも……)
今回も戸高はしきりに垂井の様子をうかがってからサインを出す。
これも、垂井の仕草から「絞っている選択肢」をあぶり出そうとしていたのだ。
(こんなに頭を捻ってくれてるんだから、私もピッチングで答えなくちゃ。)
その目にさらに強い魂を宿し、楓の視線は戸高の右手指に集中する。
(アウトコースにストライクを取る真っ直ぐ)
サインに、楓は思わず帽子を深くかぶり直した。
(戸高くん、本当に、あなたって人は……)
それは、楓が公式戦で初めて投じた球種とコースだった。
戸高は、自分のリードだけでなく、楓が谷口のリードで過去に抑えた配球もすべて頭に入れていたのだ。
自分の日替わりリードだけでなく、文字通りの別人格のリードも自分のものにしてしまう。
まさに多重人格リードだ。
これだけのデータ量を頭の中にたたき込むのは、並大抵のことではない。
(ここまでされたら、絶対に打たれるわけにはいかないじゃない!)
楓が狙うコースは決まっていた。
楓がプロに入ったときに最初に身につけた、原点。
ボールはホームベースの端をかすめていく。
カウントを追い込まれていた垂井はこれに手を出すが、バットの先に当たり、打球は三塁方向へ力なく転がる。
これをサードの田村が捕球し、自ら3塁キャンバスに入って、3アウトとした。
ドルフィンズは、6回裏をなんとか1点で抑え、最少失点差で試合終盤の7回表を迎える。
◆試合経過(東京ー湘南・CSファイナル1回戦)
湘南 000 000=0
東京 000 001=1
湘南の継投:斎藤武、立花−谷口、戸高
「よおぉし! よぉし! 楓ナイスピッチ! 戸高くんもナイスリード!」
素振りをしていたダグアウトで中継映像を見ていたのか、希もベンチに帰ってきて2人をハイタッチで迎える。
「なんか、口調まで藤堂さんに似てきたな、お前……。」
藤堂とともにプレーした経験もある宮川が、半ばあきれ顔でつぶやいていた。
「さあ! 逆転逆転! やるしかない!」
宮川の言葉も耳に入らない様子で、希は鼻息荒く気合いを入れる。
その様子を遠目に見ながら、ホワイトラン監督は珍しく独り言を言う。
「しかし、カワナカは続投か……」
このケースなら、層の厚いタイタンズは7回、8回とそれぞれリリーフ投手をつぎ込み、そのままクローザーへつなぐ展開だ。
だが、この試合は川中を続投させていた。
マウンドに大股で意気揚々と向かう川中は、このまま完封勝利を狙ってやろうという意気込みが見て取れる。
本人としての意思はともかく、そのまま続投させると言うことは、よほど調子がいいということなのだろう。
そして、実際7回表の攻撃が始まると、ドルフィンズナインはその事実を目の当たりにすることになる。
「ストラック! アウト!」
「なあ、川中の球速……上がってないか?」
5番のフェルナンデスが空振り三振に倒れると、田村は戸高にそう言ってスコアボートを見た。
「本当だ。上がってる。」
戸高の視線の先には「152km/h」の文字。
「さっき俺が三振したときも、手元ですげえ伸びる感じがしたんだよ。あ、これ、いいわけじゃねえからな。」
田村は若干引きつった表情を、わざとらしい冗談で自らほぐそうとする。
「分かってますよ、田村さん。」
戸高がそう言うのとほぼ同時だった。
「OH! MY——!」
6番のボルトンが太ももを押さえて打席でうずくまる。
川中が死球を与えたのだ。
すかさずコーチが飛び出ていってアイシングをするが、身体に異常はないようだった。
マウンド上の川中は、一度帽子を取ってボルトンに謝罪する仕草をすると、すぐに帽子をかぶり直してマウンドの土をならし始めた。
この隙に戸高は、ネクストバッターズサークルからベンチに歩み寄る。
「なあ、あいつ、どういう性格なんだ?」
何かが気になったらしく、楓に尋ねる。
「そうだなあ、調子に乗りやすくて、ああやって詰めが甘くて……でも、なんか憎めないいいやつなんだよねえ。でも、なんで?」
「ふーん、そうなんだ……わかった。」
「私の質問には答えないんかい!」
楓の疑問には答えることなく、意味深な言葉を残して戸高は打席に向かっていった。
1死走者1塁の場面で、戸高が打席に入ると、マウンド上の川中は再び戸高をにらみつけて、マウンドの土を一度乱暴に蹴り上げた。
戸高は気にしていないそぶりを見せながら、ヘルメットのつばを深めに直してバッターボックスの土を軽くならす。
対照的な様子の2人だが、これまでの誰より強い闘志がぶつかり合っているのは、誰の目から見ても明らかだった。
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