第63話 食い違う意地

 CS1回戦、0−1でビハインドで迎えた7回表。

 1死走者1塁で、マウンドにはタイタンズ先発の川中。打席には途中からマスクをかぶった戸高。


◆試合経過(東京ー湘南・CSファイナル1回戦)

湘南 000 000=0

東京 000 001=1

湘南の継投:斎藤武、立花−谷口、戸高


 このまま抑えられれば、もし川中を再び追い込んだとしても、タイタンズのセットアッパーからクローザーという必勝リレーが待っている。


 戸高の打撃成績はここまで打率.298、本塁打0本。途中出場ばかりだったため、規定打席には到達していないが、決して悪くない成績だ。

 だが、六大学三冠王の看板をひっさげて鳴り物入りで入団したルーキーにしては、今一歩ぱっとしない成績とも言える。


 バットを投手の方に向け、立てたままピタリと止めるルーティンの中で、戸高の脳裏には様々な考えが駆け巡っていた。


(これまではチームバッティングだけを考えてきた。でも……)


 大学野球の世界で本塁打王を獲得した戸高が、レギュラーシーズンの本塁打ゼロに終わったのは、プロのボールが厳しかったからだけではなかった。


(キャッチャーとして試合に出続けるには、何よりも「間違えない」ことを第一に考えてきた。)


 ドルフィンズには谷口という絶対的な正捕手がいる。

 だからといって、ドラ1ルーキーで入った戸高にとって、1年目だからといって2番手捕手に甘んじるつもりもなかった。


(いつまでも、「立花のボールを受けるために出てくるキャッチャー」で終わりたくない。)


 自分が3割近い打率を残せてきたのも、楓が登板する回以降の打席に立った結果だった。それが戸高には不満だった。


(ましてや、俺が立花の球を受けるのにふさわしくないだって? そんな侮辱は絶対に許さない!)


 そして、こと野球についてだけは冷静かつ正確な分析を得意とするのとは対照的に、盛大な勘違いを心に刻む。


 2人が誤解したまま進んでいる「楓を賭けた勝負」の中身を、希も少し勘違いしていた。戸高が「ドルフィンズで楓の球を受ける権利を賭けて対決し、負ければ双方トレード志願する」という賭けでもしたものだと勘違いしていたのだ。

 だが、戸高自身は、そんな非現実的な賭けに応じるような器でもなかった。


 ただ、川中に自分の捕手としての技量を疑われたと勘違いし、それに怒っていたのだ。

 その結果、戸高は、「自分が川中を打てず、さらに自分のリードで楓が打たれたら、楓のパートナー捕手を降りる」という賭けをしたものだと思い込んでいたのだった。


(だから、絶対に抑えられるわけにはいかない!)


 いつものようにバットを耳の後ろに辺りに構え、顎を引いてギロリとマウンドの川中を睨みつける。


 大学時代、ローボールを何度も本塁打にしてきた戸高の構えには、なんとも言えない威圧感があった。


 マウンド上の川中も、セットポジションに入ると、まず捕手のミットではなく戸高の目を睨んだ。


「そうかよ。ただのプロ野球同期じゃないって分かった以上、絶対にお前だけは抑えてやる……!」


 マウンドの上で小さく唇を動かしてブツブツとつぶやく。

 こうして闘志をむき出しに投げるのが川中の持ち味だったが、今日はひときわだった。


 戸高も強く睨み返してくる意味を、川中も盛大に勘違いしながら、2人は18.44mを隔てて4秒近く睨み合った。

 なお、川中の「賭け」の意味は、当然ながら楓をめぐる男性としての立場を賭けた対決である。


 走者がいる場合、投手はキャッチャーが返球してから12秒以内に投球しなければならない。

 その睨み合いに時間を使いすぎたのか、川中は規定時間の12秒ギリギリで第1球を投じた。


 初球はスライダーだった。


「ストライク!」


 大学野球のリーグも違った戸高のバットは、初めて見るスライダーに空を切る。

 カウントは0−1。


「っしゃあ!」


 まだストライクを1つ取っただけなのだが、川中は威圧するように戸高の方に向けて気合いを入れる。

 戸高は対照的に、片足だけ打席を外すと、何かを思案するようにゆっくりとヘルメットの一番上を掌で押さえながら、もう一度同じルーティンを経て構え直す。


(こいつの持ち球は、すげー早い真っ直ぐと、今のスライダー。あとはカットとスプリット、たまにしか落ちないチェンジアップ。)


 戸高は昨日の夜考えていたプランをもう一度おさらいする。

 予告先発の時点で、データとビデオはしっかりと見ていたつもりだった。


(でも、実際に打席に立つと、こいつの威圧感と上尾さんのリードで、ちょっと気を抜くと思考停止しそうだ。)


 シーズン途中から出てきたとはいえ、新人王候補の最有力と言われる川中のピッチングは、予想以上だった。

 冷静に考えてみると、その冷静さが少し滑稽に思えてくるほど追い込まれていることは、戸高自身が一番よく分かっていた。


(ワンナウトでランナーは1塁。次は今日打ててない8番の高橋だから、俺にはシングルヒットまではOKというリードをしてくるだろう。その後に回っても、もう代打の切り札は使ってしまってるし。)


 投球モーションに入る川中を目で追いながら、さらに考えを巡らせる。


(だとしたら、おそらく俺には「長打さえ打たれなければいい」ってリードをしてくるはず。でも、全然上尾さんのリードが分からない以上、もう一球捨ててみるしかない。)


 悠々とした仕草を装って第2球を見逃す。


「ボール!」


 インコースのきわどいところに落としてきていた。これでカウントは1−1。

 0−1からカウントを取りに来るインローのボールは、戸高が得意とするコースだった。それを逆手にとって、2回目の空振りを誘ってきていた。


 見逃したことが意外だったのか、川中の方を向く戸高は、しきりに後ろから上尾の視線がくるのを感じていた。


(別に、そんなに見なくても、打ちにいく余裕がなかっただけですって。)


 自嘲気味に内心でつぶやくと、


(でも、こっちも商売かかってるんでね。上尾さんのリード付きの川中を打たないと、正捕手どころか立花の球も受けられなくなっちまう。)


自分で勝手に決めたルールに縛られながら、戸高はさらに闘志を燃やす。


(それに……単にシングル打ったところで、そんなしょぼい勝ち方したって意味はない。)


 戸高は自らのバットで、少なくとも同点にすることを目論んでいた。


(悔しいけど、実力的に追い込まれたら終わりだ。次の配球を読んだ上で、長打にする方法……考えろ。考えろ。考えろ。)


 また一度片足だけ打席から外して、頭をフル回転させる。


(俺が上尾さんならどうする? ある程度攻略可能なペーペーが打席にいて、ランナー1塁。当然欲しがるのはゲッツーだ。そのためには、ファウルを打たせてでももう1つストライクが欲しい。だとすると……え?)


 ふと視線を上げると、左打席に立つ自分に対して、大きくライト方向に内外野を寄せている。さっきの球まではなかった守備シフトだ。


(ヒットまではOK。できればゲッツー。明らかなプルシフト。普通の打者なら流し打ちでヒットを打とうとする。)


 頭の中の選択肢を絞っていく。

 川中が一度首を振ってから頷くのが見えた。


(そして、立花いわく、川中は「詰めが甘い」ということは……!)


 川中がサインに頷き、3球目を投じる。


(やっぱり!)


 外角に投げられた球が、速球に似た速度で走ってくる。


(俺が上尾さんなら、ここでボール半個分内側に……)


 戸高の予想通り、外角のカットボールだ。

 流そうと遅れ気味にバットを出したボールが内角に意外の変化をすれば、2塁キャンバス付近にボールが転がるだろう、と考えてのリードだった。


 それを読んでいた戸高は、流し打ちではなく引っ張るタイミングでバットを出し、大きく前足を踏み込んで強引に打ちにいく。

 

 ボールを捉えた瞬間、乾いた音が後楽園ドームの屋根まで届くほど響き渡った。


 打球は金属がこすれるような高い風切り音を立てて、ラインドライブでセンター方向に伸びていく。

 ヒットになることを確信し、1塁走者のボルトンは死球を受けた足に鞭を打って走り出す。外野の頭を越えれば、ボルトンの長駆ホームインも可能だ。


「いけっ! 伸びてくれ!」


「いけ! 落ちろ! 落ちろ!」


 打者走者の戸高とベンチにいる希が同時に叫ぶ。

 タイタンズのセンターを守る山本が俊足を飛ばして、打球を追いかける。


 が、その足取りが途端に緩やかになる。


 戸高は2塁キャンバスにさしかかったところで、想定外の方向からの歓声に驚いて打球の方向を見た。

 センターのフェンス際に転がるボールを、山本が拾おうともせずに棒立ちになっている。


「入っ……た……?」


 振り返ってホームベース方向を見る。

 戸高の視線の先には、右手をぐるぐると回す主審と、何かを叫んでマウンドにグラブを叩きつける川中の姿。


 レフトスタンドの一角から、さらに大きな歓声が上がる。


「戸高くん! ベースラン!」


 呆然となる戸高に、3塁ベンチから声をかけたのは楓だった。

 はっとして無言のままベースを回る。


 ドルフィンズを逆転に導いたのは、ルーキー捕手・戸高のプロ入り初本塁打だった。


◆試合経過(東京ー湘南・CSファイナル1回戦)

湘南 000 000 2=2

東京 000 001  =1

湘南の継投:斎藤武、立花−谷口、戸高


「よおっしゃああああ! ナイバッチ!」


 ベンチに戻った戸高を、真っ先に希がハイタッチで迎える。


「よくやったぞ!」


「ついにやったな!」


 チームメイトたちもテンション高く戸高にハイタッチを求めていく。

 しかし、戸高はそれに対して、浮かない顔で、


「ども……うっす。」


と答えるだけだった。


「どうしたの? 記念すべき初ホームランじゃん。」


 思わず楓が尋ねる。

 戸高は楓の顔を一度見た後、自分の両手を広げて見つめて言う。


「芯で捉えたはずなのに……なんでちょっと差し込まれたんだろう。分からない……。」


 結果的に逆転本塁打を打てたのだから、普通はこれに喜んでいいはずだ。

 だが、戸高が見ていたのは、「川中と上尾のバッテリーを打ち砕く」ということだった。

 これでは、試合に勝って勝負に負けたということになってしまう。

 そんな思いが戸高の中にあった。


「あのさあ……何が不満なの?」


 呆れたような口調で楓がさらに話す。


「完璧に捉えようとしたんだけど、打ち損じのホームランになったんだよ……おかしい……おかしい……。」


「……はい?」


「再現性がないホームランには、意味がないんだ。まだ研究が足りないみたいだ……立花、ちょっと今日の試合後なんだけど……」


「絶対やだよ! この大事なときに、野球バカの戸高くんに付き合ってられるか!」


 2人のやりとりを見ていつもの戸高に戻ったことに気づき、安心したように希たちも笑う。

 しかし、こうなるといつもの戸高だ。簡単には諦められなかった。


「そうか……じゃあ、江川——」


「絶ッッッッッッッッッッ対にイヤ!!!!!!」


「うーん、じゃあ、谷口さん——」


「いやー、残念だけど今日は娘の誕生日でな。」


「たしか娘さんの誕生日は来週のはずじゃ……」


「そういうデータは押さえなくていいんだよ!」


 再びベンチに爆笑が起こり、タイタンズの横綱相撲に飲まれかけていたドルフィンズにいつものムードが戻ってきた。


 そのまま7回裏バワード、8回裏に神田、9回裏に山内の新・勝利の方程式で抑えたドルフィンズは、CSファイナル1回戦を制した。


◆試合結果(東京ー湘南・CSファイナル1回戦)

湘南 000 000 200=2

東京 000 001 000=1

湘南の継投:斎藤武、立花(勝利)、バワード、神田、山内(S)−谷口、戸高


 リーグ1位のタイタンズには1勝のアドバンテージがあるため、これで勝敗スコアは1勝1敗となった。


 試合後、ベンチ前でクールダウンをする戸高のもとに、アイシングをしたままの格好で川中が現れる。


「今日は……見事だった。戸高一平。」


「ん? 何がだ?」


「いちいち言わせるな! 今日は完敗だったが、まだ勝負は終わってないからな! 次こそ覚悟しておけよ! 戸高一平!」


 そう言うと、また背を向けて走り去ってしまった。


「どうしたの? またなんかあった?」


 向こうの方から声を聞きつけた楓が歩み寄る。


「さあ? 同級生なんだろ? こっちが聞きたいくらいだよ。」


「ふーん。川中って、熱いやつだったけど、あそこまでだったかなあ……。」


「さあな。」


 不思議そうな楓をよそに、戸高は少し満足そうに微笑んだ。

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