第54話 グッド・トライ

 8回の表、1点差、無死満塁。右打席には4番太田。

 絵にかいたような「絶体絶命」の場面で、古巣タイタンズを相手に神田了吾はマウンドに上がった。


◆試合経過(8月15日火曜日・東京-湘南19回戦・後楽園ドーム)

湘南 000 000 03=3

東京 100 010 0 =2


 突然神田とセットで交代した捕手の戸高が、サインを出す。


(インハイに、真っ直ぐでストライクを)


 神田の持ち球は、ツーシーム、スライダー、カーブ、フォーク。

 ひじの手術以降、球速も落ちて制球も乱れがちという触れ込みだったが、今日の神田のストレートは走っている。

 ブルペンで受けていた戸高はそれを誰より感じていた。


「ったく、若いのにしっかりしてるねえ。野球エリートくんは。」


 神田はセットポジションの体勢を取ると、口元をグラブで隠しながらひとり皮肉めいた言葉をつぶやく。

 だが、それは六大学三冠王の新人に対するリスペクトと、球界の盟主タイタンズの中でも泥臭く戦ってきた神田の矜持を含んでいた。

 球界の盟主タイタンズで泥臭く生きてきた一般庶民と、最下位球団ドルフィンズに入団した大学野球界のエリート。なんとも皮肉なコンビだが、意思疎通はバッチリだった。


「ストライク!」


 戸高がミットを動かさずに捕球すると、打席の太田が目を見開いてミットと神田を交互に見た。

 主審の右手が上がり、スコアボードには147km/hの文字が煌々と光る。

 これまで逆の球団の4番と先発投手としてきた太田にとって、神田が全盛期の球速を取り戻している――そう感じさせるボールだった。


「ナイスボールです! 神田さん!」


 そういって返球する戸高のメッセージには、言葉の字義以外の意味も含んでいた。


(この感じで押していけば、たぶんしばらくバレません。)


 そのメッセージを神田も受け取ったのか、力強く頷いてボールを受け取る。

 バッテリーの間で次のサインは決まっていた。


(アウトローに、ストライクになる真っ直ぐを)


 今度は太田が打ちに行くが、バットは空を切った。球速は148km/h。

 これでカウントは0-2。


 戸高が2球続けてストレートを要求したのには訳がある。

 神田の球速が戻ったのは、決して手術したひじが完治したからではない。

 当時の神田と、明らかに違うところがある。

 右打席に立つ太田も、それには気づいていた。


(タイタンズ時代の神田って、こんなに球筋だったっけ……)


 ひじを痛める前、神田はオーバースローで投げていた。

 190センチ近い長身から投げ込むストレートと、フォークの変化で三振を取るタイプのいわゆるパワーピッチャー。長い回を投げても打者が対応しにくい右の本格派として、タイタンズのローテを守ってきたのだった。


(アウトローにボールになる真っ直ぐ)


 戸高は3球連続でストレートのサインを出す。

 これは勝負球ではなく、次の球の布石となるいわば「遊び球」だ。

 太田は余裕をもってこれを見送ると、さらに思考を巡らせる。


(タイタンズ時代の神田なら、ここでフォークを投げて空振りを取りにくる。引っかからないようにしないと......。)


 戸高はそれも重々分かったうえで、セオリーに忠実な球種のサインを出した。


(インコースに、ストライクになるフォーク)


 ただし、コースはストライクゾーン。


 1点差で無死満塁で、カウント0-2。

 バッテリーとしては、どうしても三振が欲しいところだ。

 そしてこれまでの神田が空振りを取れるボールは、もちろんフォーク。

 打席の太田も、そしてスタンドのファンたちさえも、次がフォークと読むのは定石だった。


 神田がセットポジションからボールを投じる。


 打席の太田の脳裏には、これまでの神田との対戦の情景がよぎる。


(インローいっぱいにまっすぐ向かってくる真っ直ぐ。これまでならここで回転数がさらに落ちて……)


 一瞬とりかけた打撃体勢を解除して、バットを戻しにかかる。


(下に外れるはず!)


 戸高のミットにボールが収まる。


「ストラック! アウト!!」


「ウソだろ?!」


 大げさなアクションとともに発された主審のコールに、慌てて太田はグラブの位置を確認する。

 ボールが落ちるはずと読んだところより、ボール1.5個分上にミットがあった。


(神田さん、あなたの進化の瞬間、しかと拝見しましたよ。)


 戸高は少しうつむくと、マスクの奥で無言のまま不敵に笑った。


「見たか。これがドルフィンズ版・神田了吾のピッチングだよ。」


 1塁側のタイタンズベンチを見つめながら、神田は独り言をつぶやく。


 タイタンズナインがこれまで長年見てきた神田の癖やフォーム、球筋とはまったく異なる理由。

 それは、腕を出す位置にあった。


 なんと、神田はシーズン途中にもかかわらず、スリークオーターにフォームを変えていたのだ。


◆◇◆◇◆


「ちょっと、試したいフォームがあるんだけど。」


 神田が試合中のブルペンで突然声をかけた相手は、戸高だった。


「でも神田さん、投球練習指示は監督から出てないですよ。」


「だから、投球練習じゃなくて、フォームを試すだけだよ。ちょっとでいいからさ、付き合ってよ。」


 半ば強引に戸高を座らせて神田が投じたのは、スリークオーターからのストレート。


 スリークオーターとは、真上から投げるオーバースローと、真横から投げるサイドスローの間の高さから投げるフォームだ。

 このフォームは、オーバースローよりも球速や縦の変化を出しにくい代わりに、コントロールを保ちやすく、またひじへの負担も比較的少ないと言われている。


 実際、神田自身もひじの負担を感じず、全力投球することの恐怖心からも解き放たれていた。


 神田の球速が落ちたのは、ケガの影響だけではなく、恐怖心もあった。

 恐怖心から解放された全力投球の球速は、全盛期ほどではないものの、明らかにこれまでよりは上がっていた。

 縦の変化球も変化量が落ちるが、それを逆手に取ればいい。空振りを取るためだけがフォークの役割ではない。


 神田が自ら悩みぬいて編み出した生存戦略だった。


「ナイスボールです! じゃあ、もう1球!」


「ナイスボール! 次、カーブいってみましょう!」


 超短時間での進化を間に当たりにして、戸高もすっかり魅せられてしまっていた。

 素晴らしいボールを受けると、もっと受けてみたくなる。


 キャッチャーという生き物であれば、抗えない宿命だった。

 もう1球、あと1球の繰り返しで、気が付けばしっかりと神田の肩を作ってしまっていた。


 はじめは何かあればすぐ止めようと不審そうに見ていた河本投手コーチも、神田がもがきながらプロの世界で生き抜こうとする姿に、そして何より、試したフォームをすぐにものにしてしまう圧巻のセンスを目の当たりにして、声をかけずにいた。


「これが、タイタンズの元ローテ投手の実力……。」


 みるみる新しいフォームを自分のものにしていく神田の姿に、その場にいた楓たちリリーフ陣も見とれるだけだった。


 そして迎えた8回裏の大ピンチ。

 示し合わせたように肩が出来上がっていた神田は、自らベンチに電話してあの言葉を発するのだった。


「監督、タイタンズ打線を誰より知ってる俺ならここを押さえられる。頼む、俺を出してくれ!」


◆◇◆◇◆


 4番太田を三振に取ったが、場面はなお1死満塁。ピンチは相変わらずだ。

 右打席には5番山本。この5試合で4本塁打と絶好調の相手を打席に迎える。


(インローに、ストライクになる真っ直ぐ)


 初球のサインに神田は首を振った。


(アウトコースのスライダー)


 また首を振る。


(インローにフォーク)


 これにも首を振る。


(アウトローに、ストライクを取るツーシーム)


 このサインに、神田は満足そうに頷いた。


 神田がこのサインを待っていたのは、誰よりもタイタンズを、そして山本を知っていたからだ。

 山本はホームベースからかなり離れて立つ打者だ。

 その理由を、神田は熟知していた。


 もともとインコースが苦手だった山本は、それを克服するためにホームベースから離れた場所に立つ。

 通算データ上もインコースが苦手と出ていたため、初球はインコースから入るバッテリーが多い。

 しかも、山本は初球に懸ける集中力には目を見張るものがあった。


 だからこそ、初球のアウトコースに誘い球を投げれば、思わず手を出すことを神田は知っていた。


 神田が投じたボールは、一見打ち頃のストレートのような軌道を描いて打者へ向かう。


(俺の遅くなった真っすぐを見慣れている山本なら……)


 神田の予想は的中した。


(ほらな! やっぱり!)


 神田が内心でガッツポーズをとったのと同時に、山本がバットを振りに来る。

 ツーシームの握りで放たれたボールは、空気抵抗を受けてアウトロー気味にボール半個分変化する。

 山本が気付いたときには、もうボールはバットに触れていた。


 中途半端に止めようとしたバットに当たったボールは、力を失って神田の前へ。

 これを捕球した神田はすかさず2塁へ送球し、1-6-3のダブルプレーが完成した。


「あいつ! 本当にやりやがった!」

「さすが元タイタンズのローテピッチャー!」


 無死満塁のピンチを無失点で切り抜けたドルフィンズベンチ、そしてレフトスタンドは大いに沸いた。


 絶体絶命のピンチを潜り抜けたドルフィンズは、9回裏も山内がぴしゃりと3人で抑え、この日の試合をものにした。


◆試合結果(8月15日火曜日・東京-湘南19回戦・後楽園ドーム)

湘南 000 000 030=3

東京 100 010 000=2


 この日のヒーローに選ばれた神田がインタビューを終えると、ベンチでチームメイトに温かく迎えられた。


「Thanks! Good pitchin'!」


 ランナーをためてしまったバワードが合掌して礼を言う。


「いきなりスリークオーターとか、さすがです!」


 楓も神田をハイタッチで迎える。


「いきなり首振りまくるんですもん。ひやひやしますよ。」


 笑いながら戸高ともハイタッチ。

 そして、ベンチの奥の方を見ると、フェルナンデスも神田の帰りを待っていた。


「Hey! Good try!」


 どこかで聞いたことのあるフレーズに対して、フェルナンデスは親指を立てて答えた。

 再びがっしりと握手をする2人。


「「We are DNA mutations!(俺たちは、突然変異のDNAだ)」」


 何のことだと首をかしげるチームメイトをよそに、2人は肩をたたき合って互いの健闘を称えた。


 その日から、再び3位に返り咲いたドルフィンズ2つの変化がもたらされた。


 ひとつは、少しずつタイタンズへの苦手意識が緩和されてきたこと。

 そしてもうひとつは、セットアッパーがバワードと神田の2枚体制になったことだ。


 先発が早めに下りた日は、ロングリリーフが可能な中継ぎ・伊藤。

 7回までリードを保てれば、2枚のセットアッパー・バワードと神田。

 最大のピンチで左打者を迎えれば、秘密兵器のワンポイント・楓。

 そして9回はクローザーの山内。


 個々の実力は超一流というわけにはいかないが、総力戦に持ち込めばこっちのものだ。


 ドルフィンズナインには、すでに「弱者の勝ち方」が浸透つつあった。

 ついにシーズンは8月後半。


 CS争いはいよいよ佳境に入ろうとしていた。


◆オーシャンリーグ順位表(8月15日時点)

 ※括弧内は首位とのゲーム差

1 東京タイタンズ   66勝38敗4分

2 広島カブス     56勝47敗1分(9.5)

3 湘南ドルフィンズ  50勝50敗4分(14.0)

4 大阪ロイヤルズ   51勝53敗1分(15.0)

5 中京ドジャース   46勝56敗5分(19.0)

6 東京城南フェニックス38勝66敗2分(28.0)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る