ワンポイント〜女子プロ野球選手・立花楓の記録〜

第52話 突然変異のDNA

　まだ3位とゲーム差なしの4位であるというのに、ドルフィンズには重苦しい雰囲気が流れていた。それはほとんど選手たちだけではなく、監督を除くコーチなどの首脳陣やスタッフなどにも。

　幸せだった夢から覚め、悪夢のような現実に引き戻されたような表情をしている。

　これまで最下位を指定席にしてきたドルフィンズには、「敗者のDNA」が流れていた。

　長年にわたって各球団に負け越し続け、毎年のようにシーズン100敗の大台に乗せないことがささやかな目標にすらなってきた弱小チーム。

　例年に見ない快進撃で3位争いをしている現状は、いわば彼らにとって「非日常」そのものだ。

　ちょっとしたほころびが、彼らに刻まれた敗者のDNAを蘇らせ、これ以上戦えるわけがないという弱者の本能を呼び起こす。

「――やっぱり、タイタンズの選手層は厚かったな。」

「このままずるずる負けていくのかも。いつもみたいに。」

　気が付けば、一部の選手たちは実際に言葉として発言するようになっていた。

　タイタンズにとって、これまでのドルフィンズはいいカモだった。

　元来の弱さもさることながら、チームに「自分たちは弱い」という意識が根を下ろし、常勝球団であるタイタンズに対する苦手意識を生んでいた。

　結局昨シーズンは、タイタンズの本拠地である後楽園ドームで一度も勝つことができなかった。

　今年は勢いに乗って5分の勝敗を展開しているが、一度弱気の虫が顔出すと、その戦績も選手たちの頭からは消え去っていた。

　開幕当初からの好調に陰りが見え始める打線。

　シーズン中盤を迎えて疲労が目に見えて明らかな先発投手陣。

　安定感を欠く場面が目についてきたセットアッパー。

　ついに疲労からリリーフに失敗した奥の手・立花楓。

　そして層の厚い相手チームに現れる「日替わりヒーロー」の存在。

　試合中盤までに優位に立つ展開が減り、せっかくリードしていてもリリーフ陣が捕まる。

　メンタル面以上に、彼らの目には客観的な戦力差が映っていた。

「まだまだ！　気を取り直して次のカードを取っていこう！」

　いつものようにロッカールームで鼓舞するホワイトラン監督の声がいつもより通るのは、声の大きさによるものだけではないはずだ。

　みな、顔から表情が失われかけていた。

　しかし、そんなチームの中で、1人だけ目を輝かせる男がいた。

　神田了吾。

　今シーズンからFAでタイタンズに移籍した太田の人的保障として、新たにドルフィンズに加入したベテラン投手だ。

　神田の最近の様子は明らかにおかしかった。

　チームの守備時にピンチになると、途端に目を輝かせてブルペンで投球練習を始める。

　特にタイタンズ戦でピンチになると、その投球には一層力が入っていた。

　タイタンズ戦での神田の姿は、普段より一層際立って見えた。

　なぜなら、最近タイタンズ戦でのドルフィンズは、特に弱気になっていたからだ。

「同じ人間相手になんだ！　別にバケモンと野球してるわけじゃないんだぞ！」

　突然、お通夜のような雰囲気のロッカールームに神田の声がこだまする。

　しかし、チームメイトたちは彼を一瞥すると、また下を向いてしまう。

　それもそうだ。神田の今シーズンの成績は、リリーフ6登板で2勝1敗。

　チームに対して影響力のない投手のコメントに無関心なのは、決して不自然なことではない。

「あんたに、何がわかるんすか……。」

　思わずぼそりと言葉を返したのは、レギュラー2塁手の内田俊介だ。

　内田もプロ入り以来ドルフィンズ一筋10年間。弱者のDNAにどっぷりつかっていたのかもしれない。

「俺たちの目標は日本一だって、監督も言ってただろ！　日本一になるチームだって、こういう雰囲気になるときだってあるし、それに――」

「だから、球界の盟主様にいたあんたには分からないっていってんだよ！」

　内田がついに食ってかかる。

「あんたから見たらクソ球団かもしれねーけどな、僕たちだってプロ野球選手なんだ！　全然勝てない中で、一生懸命やってきたんだよ！　わかったような口ききやがって！」

「なんだと！　もういっぺん言ってみろ！」

　4つも年下の内田に腐されて、神田もつい熱くなってしまう。

「おい！　何やってんだよこんなときに！」

　今にも神田につかみかかりそうな内田を、チームキャプテンの新川佐が羽交い絞めにして止める。

　気が付けば、神田も後ろにいたフェルナンデスに肩を強くつかまれて、それ以上前に出られないように制止されていた。

「……んだよ。まったく。腑抜けやがって。」

　神田は自分よりもひとまわり大柄なフェルナンデスの方を一瞥すると、小声でつぶやいて自分のロッカーの方へ戻っていった。

　そこへ、

「おーつかれさまでーす！　いやー、負けた負けた！　次は3タテでこの借りを返し……」

着替えが終わるのを見計らって、余ったケータリング狙いで元気よく飛び込んできた楓は、言葉の途中で口をつぐむ。

　隣同士に座っていた戸高と谷口が、猫でも追い払うかのように手のひらを縦にぶらぶらさせて、「いまは戻れ！　こっちくんな！」という仕草をする。

「どもー……またきまーす……」

　この最悪の雰囲気に混ぜてはいけないという2人なりの配慮を何となく受け取って、楓はそそくさとロッカールームの扉を閉めた。

◆◇◆◇◆

　誰もいなくなったロッカールームに、ゴミ箱を蹴とばす「ガコンッ！」という音が響く。

「なんなんだよ！　ちっと負けが込んできたくらいで……。」

「リョーゴ。calm down. This is temporary...surely. ハナセバ、ワカル。ネ？」

　フェルナンデスが日本語と英語を混ぜて神田をなだめる。

「ああ、そうだな、わりいホセ。そーりーそーりー。」

　ホセとは、フェルナンデスのファーストネームだ。

　フェルナンデスは来日7年目の助っ人外国人。2年前にタイタンズとの契約を打ち切られ、翌シーズンからドルフィンズと契約した。

　日本での生活も長いため、日本語のヒアリングはかなりできるが、スピーキングはなかなか上達しない。そのため2人の会話はいつも2言語を混ぜた奇妙なものになるが、神田もその内容をほとんど理解している。

　タイタンズ時代に交流はあまりなかったが、ドルフィンズに神田が移籍してからは、元タイタンズ同士ということもあって交流を深めてきた。神田がドルフィンズの設備などをフェルナンデスに聞いたのがきっかけで徐々に話すようになり、今は家族ぐるみの付き合いをしている。

　はじめはKanda-sanとよそよそしく呼ばれていたが、今ではリョーゴ、ホセの仲だ。

「慶子さんも言ってたけど、ホセってほんと温厚だよなあ。こういうの、過去にもなかったの？」

　ホセはメジャーリーグ時代に離婚しており、娘と2人で来日した。その際に娘の家庭教師をしていた慶子と恋に落ち、再婚した。

　家族ぐるみの付き合いをする中で、神田は慶子からもフェルナンデスの温厚さをよく聞いていた。

「Mmm...Dolphins、in last year、コンナニ、カタナイ。You know?」

　悪戯っぽく笑う。

　さっきまで頭に血が上っていた神田も、その様子を見てつい笑いだしてしまう。

　こうして人を和ませることができるのも、傭兵のようにいくつもの球団を渡り歩いてきたフェルナンデスだからこそできる振る舞いだ。プロ野球選手としての経験は15年超。アメリカ時代も弱小チーム所属経験のあるフェルナンデスは、多少のことでは動じないメンタルを築き上げていた。

　フェルナンデスがこういうのにも訳がある。今年から加入した神田には珍しい光景だが、去年から所属している彼にとっては、今の方が異常時代なのだ。

「Huh...We only do our best. That’s ”プロ・コンジョウ”, right?」

　フェルナンデスになだめられるうちに、神田の怒りもどこへやら、すっかり静まってしまっていた。

　その様子を見て、フェルナンデスはさらに言葉を続ける。

「デモ、リョーゴ。We need to avenge Titans. It won't change, is it?　タイタンズ、ミ・カ・エ・シ・テ・ヤ・ル。」

　くりくりと丸くつぶらな瞳を閉じて、神田にウインクして見せる。

　フェルナンデス自身も、タイタンズに対して並々ならぬ思いがあるのもまた真実だ。

　2人が仲を深めた理由は、たんにタイタンズ出身だったからというわけではない。自分たちをお払い箱にした球界の盟主に、一泡吹かせてやろうと共通敵を設定したからゆえの、結束の固さだ。

「よし、ホセ。次のオフはうちで作戦会議だ。とっておきのバーベキューセットを用意しとくから、奥さんと嬢ちゃんつれてきな！」

「OK！」

　2人の間に、特に何か仕掛けてやろうという作戦があったわけでも、チームを浮上させる秘策があるわけでもない。

　だが、こうしてリラックスできる時間を過ごしながら、じっくりこのチームにできることを考えてみようという思惑があった。

　拾ってくれたドルフィンズに対してできる恩返し、それは「常勝軍団のDNA」をこの弱小球団に取り込ませること。言葉にしなくても、いつしか2人の合言葉になっていた。

「「We are DNA mutations！（俺たちは、突然変異のDNAだ）」」

　ひじを曲げて胸の高さでがっしりと固い握手を交わす2人。

　負け癖のついたドルフィンズを戦う集団に変えるのは、ホワイトラン監督だけではない。

　自分たちがこのチームの中で突然変異のDNAのように、新しい風を吹き込むのだ。

　そう誓ってきたのだった。

　そこへ、

「あのーう……ケータリング……」

2人だけが残ったロッカールームのドアをそっと開けて入ってきた楓が見たのは、空になったケータリング容器の数々。

「あああああああああああああああああああああああ！　ない！　ない！　今日はバーベキューチキンだったのに……。」

　へなへなと床に座り込む楓。

「立花……」

「Tachibana-san...」

　子供のように落ち込む楓を見て、思わず声をかけずにいられなかった。

「次のオフ、バーベキューするけど、お前も来るか？　チキンじゃなくて、Tボーンステーキだけど……。」

「行きます！　謹んで行かせていただきます！」

　かくして、ドルフィンズ外様の会が開催される運びとなった。