第51話 弱者の本能

 大阪ロイヤルズ3連戦の初戦に、金村と高橋の師弟(?)コンビの活躍で勝利したドルフィンズ。

 勢いそのままに、このカードを2勝1敗と勝ち越し、4月末以来の3位に浮上した。

 以降もチームの総力を駆使してなんとか3位をキープして、7月を終えたドルフィンズは、いよいよ順位変動が多い8月を迎える。


◆ナショナルリーグ順位表(7月31日時点)

 ※括弧内は首位とのゲーム差

1 東京タイタンズ    60勝33敗2分

2 広島カブス      49勝42敗0分(10.0)

3 湘南ドルフィンズ   47勝43敗3分(11.5)

4 大阪ロイヤルズ    46勝46敗1分(13.5)

5 中京ドジャース    38勝55敗3分(22.0)

6 東京城南フェニックス 33勝59敗2分(26.5)


 プロ野球において、8月は順位や選手の調子が大きく変動する月だ。

 これまで総力戦で好成績を遂げてきたチームも、これまでの疲労と夏の暑さでだんだんと消耗戦を強いられるようになる。まさにチームの「層の厚さ」が試される時期だ。

 そして、ホワイトラン監督を中心とする「弱者の戦術」で勝ち抜いてきたドルフィンズは、まさにその現実に直面することになる。

 それとは対照的に、ロイヤルズはベテランから若手まで層の厚いチームだった。大幅に成績や調子を落とすなく、一度は広げられたゲーム差をじりじりと狭めていく。

 追う者と追われる者。追われ慣れていないドルフィンズナインにとって、それは恐怖以外の何物でもなかった。


 8月4日金曜日、後楽園ドームでのタイタンズ3連戦でも、初戦からドルフィンズは抗うことのできない蓄積疲労と戦っていた。


《ついにタイタンズ、ドルフィンズのセットアッパー・バワードを捉えました! 4対3とわずか1点リードで8回裏、1アウト満塁のピンチを招いて、バッターは5番元橋!

 ここでホワイトラン監督たまらず動きます! 左の元橋に対して、おそらくここは立花楓のワンポイントでしょう!》


 実況中継のアナウンサーの声がいつもより興奮気味なのも、この日のチャンネルがタイタンズのケーブルテレビだからというだけではないだろう。未曾有の快進撃を続けてきたドルフィンズナインに、ついに訪れた危機。

 このシーズンのナショナルリーグが大きく動こうとしているのを、誰もが感じていた。


◆試合経過(8月4日・東京—湘南16回戦・後楽園ドーム)

湘南 010 012 00=4

東京 110 100 0 =3


《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。キャッチャー、谷口に代わりまして、戸高。背番号27。

 ピッチャーのバワーズに代わりまして、立花。背番号98。》


 この日も訪れた「一人一殺」の場面で楓と戸高がセットでマウンド上の円陣の中へ向かうと、レフトスタンドから大きな歓声が上がる。

 万年最下位だったドルフィンズの快進撃に刺激されて、ビジターゲームでも応援に多くのドルフィンズファンが詰めかけるようになっていた。現金なものだと揶揄する声もあったが、選手たちにとっては応援の声が高まるのはありがたいことだ。


「さ、今日も絶体絶命の場面からスタートですね、戸高選手。」


 楓は自嘲気味な口調で、しかし力強いまなざしを向けながら戸高に声をかける。


「スタンドも満員ですが、塁上も満員みたいですな。忙しいうちが華ですよ? 立花投手。」


 今日の2人の幕開けは、最近の仕事の大変さを愚痴るものらしい。

 どんな仕事でも、愚痴りながら仕事したくなるような時期はあるものだ。


 今日の場面は、満塁は満塁でも1アウト満塁。外野フライすら打たれてはならない。

 さすがに毎回こういった場面で登板するとはいえ、戸高は楓の蓄積疲労にいち早く気づいていた。

 戸高の心中からは、一抹の不安が消えない。


(さすがに外野フライもダメな場面だと、真っ直ぐ系の球種は使いづらいな……。)


 塁は埋まっているが、初球はさすがに慎重にならざるを得ない。


(アウトコースに、ボールになるカーブ)


 楓自身もまた、自分の疲労を肌で感じていた。

 セットアッパーを任されていた開幕当初はわずか1ヶ月で尽きてしまったスタミナも、ワンポイント起用に切り替えられてから、リーグトップクラスの登板数にも耐えられるようになっていた。しかし、今の感覚は、スタミナ切れで打ち込まれた5月の感覚に似ている。

 つい思い出してしまった楓の背筋に悪寒が走る。


(おっと、まずいまずい。嫌なこと思い出しちゃった。)


 楓は気を取り直して、戸高の意図を受け取ろうとする。


 今日のテーマは、「スタミナ切れでも超安全な、ザ・かもしれない運転」ってところかな?

 このコースにカーブを投げれば、バッターは一瞬カーブかスクリューか悩む。

 まさに、「スクリューかもしれないし、カーブかもしれない」ってやつ。

 要するに、高さはストライクゾーンだけど、コースはボールゾーン。スクリューだったら入ってきちゃうし、カーブだったら外れてしまう所に投げろってことね。


 戸高の思惑は的中した。

 外角に外れていく91km/hのカーブに思わず手を出した元橋は、慌ててバットを止めるが、戸高がすかさず3塁塁審を指さしてジャッジを求める。判定はスイング。

 いつもよりもさらにボールが遅すぎて、つい手が出てしまったというところだろう。球が走っていないのが幸いした。

 ともあれ、これでまずカウントは0−1だ。


(はい、次の「かもしれない」は?)


 楓がサインをのぞき込むと、すかさず次のサインが出る。


(インコースに、ストライクになるスクリュー)


 なーるほど。

 さっきので今日のボールが遅いことはバレちゃったから、「調子の悪い立花さんが投げ損じたカーブ」と見せかけてスクリューなわけね。さっきの空振りを利用しつつ、ひっかけるってことか。


 戸高の意図を読み取った楓が、スクリューを投じる。

 今度はいつもよりスクリューの変化量が大きくなってしまった。

 しかし、それがまた幸いして、フルスイングに来た元橋のバットに空を切らせる。

 ボールはストライクゾーンからやや下に外れてミットに収まった。


(あっぶな——! 普通にスクリュー読まれてたっぽくない?!)


 慌てて戸高の方を見ると、戸高は元橋の表情を座ったまま見上げた後、ぽんぽんと自分のヘルメット後頭部を2回叩く仕草をした。「危なかった」という意思表示だろうか。


 さらに1球外に外すスライダーを遊び球に挟んで、これでカウントは1−2。

 次で決めないと、選択肢がどんどん減っていく。

 楓も戸高も考えることは同じだった。


(インローに、ボールになる大きなシンカー)


 ここで2人の頭の中にあったのは、大きなシンカー・カエデボールのみ。

 おそらくバッターボックスの元橋の脳裏にもカエデボールはあるだろうが、「くさいところを打ち損じてもらう」がテーマの2人にとっては、それでも最も確実な選択肢だ。


 ここしかないというギリギリのコースを狙って、楓がボールを投じる。


(——えっ?)


 しかし、いつもと明らかに違う感覚が、最後までボールに触れていた楓の人差し指に残っていた。ボールが吸い付くように人差し指から離れず、明らかに縫い目にかかりすぎていたような感覚だ。


 リリースされたボールは、打者の手元で見たことがないほど大きな変化量で曲がり、戸高の手前でワンバウンドした。

 しかも運悪くボールはホームベース端の土がかぶった部分でバウンドし、予想外の方向へ大きく一塁ファウルグラウンド方向に跳ね上がる。

 戸高が必死にグラブを伸ばすが、ミットをかすめてボールは一塁寄りのバックネット方向へ転々とした。


《ここでまさかのワイルドピッチ! 思わぬ形でタイタンズ同点に追いつきます!》


 ショートの新川が駆け寄ってきて心配そうに声をかけた。


「立花、気にすんな。バッター勝負で元橋を打ち取ることだけ考えよう。」

「あ、はい……」


 しかし、楓は自分の左手を見つめたまま、生返事を返す。


「立花! バッター勝負!」


 タイムの回数を節約するため守備位置から動かない戸高からも大きな声をかけられて、ようやく我に返ったようだ。


 元橋との勝負は、戸高の「変化量が増えると暴投になる可能性のある球種は投げない」というリードでなんとかショートゴロに打ち取った。1塁でバッターランナーをアウトにして2死2・3塁となったところで、楓はマウンドを降りた。

 試合は延長10回、回またぎで投げたクローザーの山内も最後は攻略され、ドルフィンズは4対5で敗れた。


◆試合結果(8月4日・東京—湘南16回戦・後楽園ドーム)

湘南 010 012 000 0 =4

東京 110 100 010 1X=5

敗戦投手 山内(2勝2敗18S)


 セットアッパーのバワード、クローザーの山内、そしてワンポイントの楓の不調が重なったドルフィンズは、そのままこのタイタンズ3連戦をすべて落とし、再び4位ロイヤルズにゲーム差で追いつかれてしまう。


 たしかに、初戦の敗戦要因は投手リレーの崩壊だった。

 しかし、タイタンズに3連敗を喫した原因は、投手陣の不調だけではなかった。


 「やはり、『球界の盟主』に弱小球団は勝てないんじゃないか——?」


 長年の最下位生活で深く刻まれた「弱者の本能」が、半年ぶりの眠りから目を覚まそうとしていた。

 3連敗後のロッカールームには、多くの選手たちにどんよりと暗い雰囲気が漂っていた。


 楓や戸高のような新人や、大久保のようなFA移籍組、そして、人一倍強く闘志の炎を燃やす2人を除いては。

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