第46話 最後のピース

「おめェがこうやって努力するのは、一軍にいるナントカって女ピッチャーとの『約束』だって、そういってたよな。俺にも、大事な約束があんだよ。」


 希がフォームを完成させた経緯を聞くと、藤堂は意味深な言葉を口にした。

 そして、ゆっくりと、なんとなく昔を懐かしむような、それでいて少し寂しそうな口調で、昔話を始める。


「俺がドラフトで入ったのは、もうかれこれ20年前以上の話だ。高校の地方大会でベスト4まで進んで、なんとかドルフィンズの6位でドラフトに引っかかった。でも、この体格だろ。全然通用なんかしねェ。」


 身長169cmと小柄な藤堂は、高卒でドルフィンズに入団してから、3年間にわたり一軍出場経験が1試合もなかったのだ。プロ野球の世界では、3年間出場経験のない選手を抱えた球団は、そのシーズンの終わりに戦力外通告をすることも珍しくない。


「もう今年までかなって思ってたときにな、あの人に……持田さんに出会ったんだよ。」

「持田さんって、あの……」


 持田さんとは、千葉マリナーズ、中京ドジャース、東京タイタンズ、そして湘南ドルフィンズを渡り歩いた伝説のスラッガー、持田昭光のことだ。通算成績で三冠王2回、本塁打王5回、首位打者と打点王をそれぞれ5回を取った、まさに「生ける伝説」だ。

 これまでのドルフィンズは元来のぬるま湯体質が転じて、往年の名選手が楽な現役最後を送るため、ピークが過ぎたころに引退直前の場所として選ばれることが多かった。ご多分に漏れず持田も最後の球団としてドルフィンズを選んだのだ。


 だが、これが藤堂の人生を変えた。


「そう、伝説のスラッガー・持田博光さん。あの人、一軍での試合に疲れると、調整とか言って二軍に落ちてくンだよ。そのときに、あのとんでもねェバッティングを見た。」

「じゃあ、藤堂さんのフォームって……」

「そうだよ。元々は持田さんのものだ。もう後がなかった俺は、必死に頼み込んだ。何度断られても、二軍の室内練習場出口で出待ちしてな。そりゃもう、必死だったよ。俺から野球を取ったら何も残らねェって、プロに入ってから気づいちまったかな。」


 そして、藤堂は少し微笑むと、顔を上げて希の方を見ながら語り掛ける。


「俺も同じだったんだよ。相手にされねェのに、ビデオで持田さんのフォーム研究して、毎日マネしてマシン打撃やって……そしたらある日、持田さんが『もう見てらんねーから教えてやる』っつってな。柄にもねェ話だが、あんときのおめェは、当時の自分にかぶって見えたんだよ。」

「それで、藤堂さんは、私に話しかけてくれたんですね。」

「ああ、それが『約束』だからな。」

「約束?」

「持田さん、言ってたんだよ。『あの日のお前みたいに、飢えたオオカミみてえな目をした子犬がいたら、牙の研ぎ方を教えてやれ』ってな。その約束を果たすまで、俺もやめるわけにはいかねェんだよ。」


 藤堂が現役にしがみついていた理由も、二軍にとどまり続けていた理由も、生活のためだけではなかった。酒を飲みながらグラウンドに現れるという言語道断な態度は、元来のだらしない性格からだったが、藤堂なりに後継者を探していたのだ。


「まさか、持田打法の後継者がこんな貧弱な女だとは、持田さんも思ってねェだろうけどな!」


 憮然とする表情の希をよそに、藤堂は自分のセリフにカラカラと笑う。

 だが、「持田打法の後継者」と自分を評したその言葉が、希は何よりもうれしかった。


「なんていうか、その……ありがとうございます。」

「けどな」


 藤堂は少し厳しい顔になると、自分の後継者の目を真っ直ぐ見て言う。


「俺のバッティングは、持田さんの劣化コピーだ。真似事はしょせん本物にはなれねェ。だからな、このままマネしてただけなら、おめェは劣化コピーの劣化コピー。いつか通用しなくなる。」

「自分ので考えて改良して、自分のものにしろってことですね。」

「そうだ。俺も、持田打法を自分のものにするために磨き続けた。だからおめェも、自分のものにするんだ。持田打法でも、藤堂打法でもなく……」


 そこまでいうと、藤堂はなぜか突然押し黙ってしまった。


「藤堂さん?」

「ええっと……おめェの名前、何だっけ?」

「ひっど! いままで名前も知らずに教えてたんですか?!」

「だってよォ、バッティング指導に名前なんて関係ねェだろうがよォ……」


 珍しくしおらしい態度を見せる藤堂に、希は気を取り直して藤堂に名乗る。


「江川希、背番号77。ドルフィンズ唯一の、女性野手。江川打法の使い手です!」


 その日、持田打法の3代目後継者が決まった。


◆◇◆◇◆


 それからも懸命に新フォームの習得を目指して練習を重ねる希の二軍成績は徐々に上がり始め、打率は3割に届こうとしていた。しかし、やはり長打が出ないという課題はクリアできずにいた。


 そんなおり、スポーツ新聞の片隅に小さな記事が載っているのを、希は見かける。


《ドルフィンズ藤堂、今シーズン限りでの引退を表明》


 藤堂さん、どうして?

 そんなの、聞いてない!


 希は慌てて藤堂の姿を探すが、その日はグラウンドに藤堂の姿はなく、試合のなかったこの日、ついに藤堂は現れなかった。もしかしてと思い、深夜まで居残り練習をしてみたが、やはり藤堂の姿を見ることはなかった。

 そして、次の日、また次の日も、藤堂は現れなかった。


 もう自分は必要ないと藤堂が言っているかのように、希のバットから生まれ続けるシングルヒットと、上がり続ける打率。

 しかし、希の心中は決して穏やかなものではなかった。


(まだ、私のバッティングは全然完成にはほど遠いのに……)


 藤堂さん、分かってますよ。

 プロである以上、引退は自分で決めるもの。

 でも、まだ私はこのフォームに満足していないし、それに……やり残したことがある。

 藤堂さんにお礼も挨拶もできてない。

 ワガママだって分かってるけど、でも、このままお別れなんて嫌だ!


 希は複雑な心境を抱えたまま、二軍での快進撃を続けていた。

 しかし、長打は依然として出ないままだった。


 そして、それから1週間が経過した。


 東京城南フェニックスの二軍との試合で、希はスタメン出場していた。

 スタメン出場もすっかり板についてきたが、今日は様子が違っていた。


 フェニックスの先発は、調整登板のため一軍からやってきたエース・大川。

 大川の重たい直球とキレのある変化球に、ドルフィンズ打線は凡打と三振の山を積み上げていく。希も例外ではなく、重たい直球に力負けしてここまで3打数0安打1三振。

 持ち前のコンパクトな打撃すら鳴りを潜めていた。


(やっぱり、一軍のボールは段違いだ……やっぱり通用しないのかな。)


 これまでの打席の敗因分析すらままならず、途方に暮れかける希。

 そこへ、背後からかかる声に思わず振り返る。


「ったくよお……見てられねえな、まったく。」


 あの日と同じ言葉に、思わず大声を出す希。


「藤堂さん!」


 周りもその声に気づき、久しぶりに見かけた藤堂の姿にざわつく。

 藤堂はいつものやる気のない練習着姿ではなく、試合用ユニフォームを着ていた。

 試合用ユニフォームをきちんと切ると、だらしなく出た腹がより際立っていたが、それでも希には、初めて見るユニフォーム姿の藤堂が輝いて見えた。


「おめェ、結局最後までバットコントロールだけは課題だったな。どこまでも昔の俺みてェで、いい加減見てらんねェよ。」


 そういうと、代田監督に歩み寄る。


「代田さん、俺を代打で使ってくれ!」

「なんだ、どういう風の吹き回しだ? 引退試合でもする気になったのか?」

「いいから、1打席だけ俺にくれ。いいだろ? もう点数も0対7。どうせ今日もボロ負けすんだからよ。」

「うるせえ。『今日も』は余計だ。」


 代田監督と藤堂は、かつてドルフィンズの4番と5番を打った名コンビだった。

 弱小時代を支えた絆と藤堂の本当は憎めない性格を、代田監督は誰より知っていた。その藤堂が、練習どころか試合にも出たがらないあの藤堂が、自分から代打を志願することの意味を、何となく代田監督は察していた。


 次の回の攻撃で、2アウトランナーなしの場面、代田監督は代打・藤堂をコールする。

 久しぶりに聞く名前に、まばらなスタジアムのファンたちも少しざわめいていた。


「おい、1回だけだからな。よく見とけよ。」


 そう希にいうと、ベンチから出る。

 数回素振りをして、悠々と右のバッターボックスに入り、バットを立てて構える藤堂。


 それは、いまや希のフォームとまったく同じものだった。


 大川が初球を投じる。

 すでに回は5回。さっさと抑えて今日の調整を終わらせたかったのか、初球からインコースの直球を投げてきた。が、この球をこれまで何人もの打者が内野ゴロにしてきた。


 しかし――


 乾いた軽い音ともに舞い上がった打球は強いスピンがかかり、風に乗ってピンポン玉のように舞い上がる。そして、そのまま落ちる気配なく、そこへ向けて投石機で投射したかのように、レフトスタンドのど真ん中にポトリと落ちた。


 二軍の試合らしく、まばらな歓声と拍手が上がり、藤堂はゆっくりとベースを回ってホームへ戻る。

 遠慮がちなハイタッチで迎える二軍の選手たち。

 藤堂も、彼らの「ナイスバッティングです」の声に簡単な返事で返すだけだった。


 すでに、希との無言の会話は終わっていたからだ。


 藤堂は希に歩み寄ると、


「見てたか? あの場所だ、当てんのは。」

「はい! ありがとうございました!」


と簡単な会話を交わす。周りの選手はよくわからぬやりとりにぽかんとしていた。


 代田監督だけが、何かを心得たように軽くうなずくと、希に歩み寄って声をかける。パズルのピースは揃っていた。


「次の打席、今日は代えないからそのままで。」


 その日、ドルフィンズ二軍は2対11とフェニックス二軍に惨敗した。

 希の打撃成績も、4打数1安打といつもよりは振るわないものだった。


《江川希・本日の打撃成績》

 三ゴロ、空三振、二飛、左二塁打(1打点)


 希がプロ野球人生で初めて打った、外野オーバー、フェンス直撃の長打だった。

 希は、2塁上でベンチに向かってVサインを出し、藤堂はこれに軽く手を挙げて答えた。


 そして、その日以降、再び藤堂はグラウンドに現れなくなった。

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