第6章 崩壊に向かう刻


店主が自室にと宛てがわれた部屋でじっと窓の外を眺めていた。

開け放たれた窓から入る風が気持ち良い。


(あの日も……)


店主はあの日のことを、変わらぬ空の上に描いた。


(こんな日だった)

梅雨の終わりの晴れた雨上がりの


(なんと遠い日なのか)


優しく撫で、慈しむ瞳で見、そして常に傍に置いてくれた。

(彼の方)


常に共に手を携えて進んできた。

(私の全てだった我が主人)


フッと風に吹かれて、あの香炉が紡ぐ香りが漂ってきた。


(あれを嗅いでいると頭が痛くなって……)

こめかみをまた撫でた。


まるで巻かれた頃のよう


コツン


店主は指で目の前の窓の縁を叩いた。

先程の言い争いを思い出すと腹立たしくてイライラと、そのまま叩き続けてしまう。

こめかみの痛みがひどくなってきた。


癇癪を起こしたせいか、こめかみの痛みがまたひどくなった……


「癇癪を起こすなど」


もう何百年も……


(……)


コンコン

突如ノックの音がした。


「やぁ、散歩に行かないか」

男はニコニコと機嫌良さそうに、扉から顔を出して店主を誘った。

「難しい顔をしている。大丈夫か」




「屋敷も貴方のおかげで賑やかになった」


姿を見られた上に自己紹介をさせられ、

「遠慮なくここに住みなさい」

宣告された付喪神たちは、今更姿を隠せず奇妙な同居生活を続けている。


「どうしたわけか、ここ暫く体調が良くなってね」


 外に出ると、ちょうど隣から出て来たお手伝いのような女に話しかけられた。

「最近よくお見かけしますけど、こちらに?」


「おっと」

男は店主の陰に隠れるそぶりをした。

「ちょっと詮索好きの女でね。苦手なんだよ」

店主はそんな男の様子に微笑むと、女の方を向いて礼儀正しく挨拶をした。


「はい、暫くでございますが、身を寄せさせて頂いております」

「あらまぁ、そうなんですか。ここのご主人はお一人でお住まいでしたから、家の方の面倒見てもらえれば、心強いでしょうね。

ご主人のお体の調子はいかがかしら」


男は素知らぬふりをして店主に応対を任せている。


「おかげさまで、最近は体調も良くなったと」

店主がチラリと男を見ると、男はウンウンと真面目そうに頷いている。


女は店主の視線を追って、そちらを見てふっと微笑んだ。

「それは良かったですわ。ご苦労されましたものね。

今日はそれでお出かけですの?」

「え、ええ、はい」

店主が応えると女は満足そうに頷いた。

「それではお待ちかねね。お気をつけて」

「はい、ありがとございます。失礼いたします」


軽く頭を下げると女はテクテクと歩き出した。


「感じの良い方ではありませんか」


店主が咎めるように男に言うと

「そりゃあ、知らない君だからだよ」

男は笑って、先ほどの女とは反対方向へさっさと歩き始めた。


「そういえば、和笛やまとぶえをお持ちだと以前言われておられましたが」

店主は探るように男の横顔に視線を走らせた。

「ああ、あの笛ね、一節切というんだ。よく知っているね」

男は店主を振り返った。


「あれは夜に良い音で、私を寝かしつけてくれるよ」


ふふふふと意味深に笑う。


一体、どれだけわかって言っているのか。


「あれは良い笛だ」

「左様にございますか」


店主の口調に何か感じたのか、男は振り返った。

「君もあの笛を君も気に入っているの?」


「はい。和笛は好きでして……

特に良い一節切の音色は好きにございます。

一度拝見させて頂けませんか」


「へぇ」

男は面白そうに店主の顔を眺めた。


「君はあの笛が欲しいのかい」

男は、立ち止まるとジロジロと上から下まで店主を眺めた。


顔を覗き込んでくる。

「あの笛を手放すつもりはないが……」


目が悪戯ぽく輝く。


その目が誰かに似ている。

「これはなかなか美しいが、売り物ではないのか」

延ばされた手を、スルリとかわす。

「左様でございます。私は売り物ではございません」

店主は動じることなく微笑んだ。

「そのような価値のあるものではありませんから」


店主は微笑んだまま冷たく流し目で睨んで男に返した。


「そんなことはない。とても魅力的だ」

男は微笑んでじっと店主を見つめた。

「本当にそう思っている。

君はとても美しい。なんであれ、そこに宿る魂が。

君はそんな風に言ってはいけない」


店主は困惑して、真摯な男の瞳を見返した。





もくもくと三足蛙の香炉が吐く香りがゆっくりと屋敷の中を覆っていく。



店主は眉を顰めてじっとテーブルを見つめた。


(おかしい)


どこかで小さな歯車が抜け落ちて、間違いが起こっている。

イライライラとテーブルを細い指で叩いた。


どんなに願っても過去の「史実」を変えることはできない。

変えることが許されているのは「歴史」に残っていない、「裏」の部分だけである。


しかし、全てにはこの世を貫く「代償の法則」「波長同通の法則」「因果の法則」などがかかってくる。


過去と現在を付喪神が波長同通で通路を作る。




店主は自分の役目をはっきりと理解をしている。

最初の一太刀であり、最後の一太刀が自分の役目である。


あの男があの約束の男だ。

あの男は自分に興味を持っている。

いくら何度も行き来させ、時空を緩くさせていると言っても

その両方を担えるとは思えない。


このままでは、ただ崩壊しかない。


誰が通路を作るのだろう。


涕が先に連れて帰られた。

しかし、涕は御物おものではない。


(やはり、野風。しかし野風があの男にそこまでの思い入れを持つのか)


店主は立ち上がると、香炉の置かれている部屋の前に立った。


少しためらった後

隙間にスルリと身を潜らせた。



しんと静かだ。

幸い部屋の主人は眠りについているらしい。




「青蛙神様」


店主は空気を震わせて呼んだ。



「なんじゃ」


しばらくの沈黙の後に、暗闇からひしゃげた低い声がした。


「まだその時ではなかろう。何の用じゃ」

「お聞きしたいことがございまして」

店主は白い顔をさらに白くして問いただした。


「あの約束のことにございます。大丈夫なのでございましょうか」


「なにを案じておるのか知らぬが、ワシは約を果たすだけじゃ」

そういうとその声は嗤った。


「わしは神ではない。

ただ年老いた付喪神でしかない。


しかも、一度失敗した」


の方の死を警告した香炉が言った。


「野風は耐えられるのでしょうか。

そもそも野風は本当にここにおられるのですか!

おられて出てこれぬと申されましたが、まことのことですか?」

「シッ!」


隣の寝室から低く一節切の音が流れ始めた。


「野風……」


「ほら、おるであろう。

主が騒ぐから、野風が応えてくれておる。

騒ぐな」


「ここで、お迎えするのなら、側にいる野風が通路を作るのでしょうか」

ふいっと消えた野風の音色に、店主は唇を噛んだ。

そして小声で香炉の付喪神に問いただした。


「野風が望むのならな。


ただここの男は行く意思を全く持っておらん。

強い力がいろうな。


 野風は天下の大名物、しかも代々天下人になった男たちに愛されて、その強い熾を受けて生まれた類稀な付喪神じゃ。


野風の力無くば、この企ては不可能であっただろう。


しかし、主らを生かし留める場を維持し、時の川から縁あるものを掬い上げ、蓄えておく黄金の野を作り、縁ある付喪神の宿る品を探し出すためにうつつを流離い続けるのは相当なものじゃたはずじゃ。」


「はい」

店主はおとなしく頷いた。


こめかみから流れてきていた野風の思いは、圧倒的な、まるで人の子のような熱く力強いものだ。

しかし、それ以上に優しく穏やかで、常に一体、一体の付喪神を案じ、繊細に生かしめようとする包容力に満ちていた。


(いつしか、いて当たり前と思っていた)


放り出されたような心許ない気分になる。


年老いた蛙の姿の香炉の付喪神の声は続く。


「野風といえども全力で掛からねばなるまい。

そう考えると、野風が敢えて部屋から出てこない理由もわかる。

力を溜めておるのだろう。」


「全く外に出て参られないのでございますか」


「そうじゃのう。野風の人の姿は見なかったの」

「左様でございますか」

店主はため息をつくと男の寝室の扉のところに近寄った。

そっと扉に手を沿わせて、中の様子を伺う。



野風は


誰よりも強く

誰よりも優しく

誰よりも忍耐強い


「野風」

店主はそっと呼びかけた。


(あなたは散るのか




私のために)


店主は額を冷たい扉に付けて目を閉じた。

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