第7章 終焉に向かう夢
笛の音はテンポをどんどんと早めていき、今や広い野原を吹き抜けていく風のようだ。
そうだ。
まるで馬に乗って、全力で駆けて行くように、ビュービューと耳元で風の音がする。
吹き荒ぶ風の音にまじって声が聞こえる。
掠れて、風の一部のような声だ。
「約束を果たしてもらう」
その声が言った。
「なんの約束だ」
男は問うた。
「古い昔の約束だ」
「あれは夢の話ではなかったのか」
「ふふふふふ」
その声は笑った。
「そんな体に留まっていても良いことはなかろう」
「そうだな」
しかし……
こんな暗闇の中、たった一人で逝くのはいやだ。
「そうか」
その声は言った。
「それなら、今のように共におればいい」
「君と一緒に?」
「左様じゃ。もっとこちらに思いを向けよ。
さすれば、ずっと一緒におれよう
もそっと、端に入れてくれ」
「いてくれるのか」
「ああ、ずっと一緒だ」
そうか……
もう一人ではないのか。
ふっと安堵感が湧く。
「さあ」
声がいう。
「ああ」
意識を包み込んでいた何かが、
端からゆっくりと入り込んでくる。
フワリと慣れた浮遊感が生まれる。
しかし、いつもの孤独がない。
男のそばに立つ人は濡れた頬に触れた。
「あら、泣いているの?」
(なぜ、私は泣いているんだろう。)
この両目から流れる涙はなんだろう。
これは誰の想いなのか……
(ひどく切ない)
でももう一人ではない。
静かな古めかしい香りは、広い屋敷に広がって、時空の
狂っている歯車に巻き込まれたように、イライラと機嫌の悪い店主は部屋に閉じこもり気味だ。
時折、男が店主を連れて外に散歩に行くくらいだ。
付喪神たちも店主と目を合わせるのも、憚られるような居心地の悪さを感じて、店主の姿を見かけると目貫や於結たちは身を隠すようにしている。
梅雨の終わりの太陽は、段々と夏に向かっている。
少し歩くと汗ばんできそうだ。
「暑くなってきたね」
「左様で御座いますね」
視線も合わそうとせず、素っ気なく返す。
「随分と機嫌が悪そうだけど、どうかしたの」
「いえ、別に」
顔を覗き込むと、ついっと顔を外らせる。
「あの笛が欲しいのかい」
「下されるつもりもないのに左様なことは申されますな」
横目で睨む。
「せめて、一階で吹いてくださいませと申しましても、聞き入れて下さいませぬ。」
視線も上げずにさっさと足早に歩いて行く。
「散歩なんだから、そんなに早く歩くこと無いじゃないか。
もっとゆっくり外の世界を楽しもうよ」
ふんと荒々しくため息をつく。
「勝手になさいませ」
河原の道を歩くと、あの長雨の始まりの頃を思い出す。
不機嫌そうに鼻を鳴らすと、男はクスクスと笑う。
(野風といるような)
馬鹿馬鹿しい。
店主はため息をついて、ズキズキと痛むこめかみを軽く押した。
「どうした、そこが痛むのか」
男の腕が伸びて、そっと撫でた。
「おやめください!」
その手を払って踵を返した。
「おやおや、何とも気性が荒い」
男がこの上もなく楽しそうに笑う。
そんなところも野風といるようで絆されそうになる。
ところが、屋敷に帰ろうとしたら、折り悪く隣の奥様の帰宅と鉢合わせになった。
「あら、あなた、お隣の」
「あ、これはお隣の奥様」
さすが客商売を長年しているだけあってか、あんなに機嫌悪そうにしていたのに、如才なく笑顔を作る。
「ご主人の具合は如何?」
「はい、お陰様で元気にございます」
話題のご主人は素知らぬ顔で少し離れたところに立っている。
「それは良かったわね。今日もご主人のお相手をしてこられたの?ご苦労様」
いえいえといかにも謙虚そうに店主が首を振るのを、好ましそうに奥様は見る。
「そうね、ご主人がお留守のうちに、ぜひうちに遊びにいらっしゃい。息抜きも必要よ」
「はい、ありがとうございます」
丁寧に店主が頭を下げると、奥様も軽く頭を下げた。
「それではごきげんよう。ご主人によろしくね」
「はい、有難うございます。それではまた」
気品のある着物姿の背中が屋敷の中に消えると、店主は不機嫌そうな顔に戻って男を詰った。
「心配をされているのですから、きちんとご挨拶なされまし」
子供じゃないんだから
店主が睨むのに、男は楽しそうに笑っている。
「全く」
店主は腹立たしそうに、男を置いて屋敷の門を潜った。
その背中を男は憂鬱そうな瞳で見送った。
「あの」
「おや、僕に用かい?」
男が屋敷に戻ると、愛らしい少女の姿の
「なるほど、あの笛の音を聞きたいと」
まさか野風を返せとも言えず、笄は頷いた。
「なんでまた、そんなことを」
「なんでって、こ、心が落ち着くからじゃ」
「じゃあ、今、心が落ち着かないっということか」
男は首を傾げて笑った。
(あれ?)
笄は男の顔を伺った。
「そうは言っても、あれはお守りみたいなものでね」
(……まさか)
「ちょっと今は人前に出したくないんだよね」
クククと笑う。
「の、野風?」
グニャリ
男の顔が歪んで、上に野風の顔が浮かんだ。
ニヤリ。
見慣れた顔が笑う。
「バレたか」
野風の顔が優しい。
「心配かけとるの、笄。しかし、気がついたのが主一人とはなんとも寂しいの」
「わしは、わしは、主に相談しとうて」
笄が鼻をすすると、野風はようよう性を現しはじめた付喪神の頭を撫でた。
「厚のことか?それなら心配するな。刀の時代は終わっておる。
「野風ぇ〜」
抱きついてきた笄の頭を今一度撫でると
「このことは皆には黙っておってくれ。回り回ってこの男にバレてはいかぬ」
言い聞かせた。
「それに店主にもバレぬようにな」
「い、いいのか……」
「ああ、心配させておけ。わしの存在をもちっとわかってもらわねば、な」
わかったと頷いて離れた瞬間、野風の顔は消えた。
笄が男の後ろ姿を見送っていると
「何しとるのや、笄。どうした人の子に鞍替えか」
涕は立ち止まってメソメソと泣いている笄に声をかけた。
「そ、そんな違うわ」
「ほれ、鼻水が垂れてますで。厚に見られたら、恥ずかしいやろ」
涕は懐から出した懐紙で笄の涙を拭きながら、振り返った男にニヤリと笑った。
店主は暗い目をして、青蛙神に問うた。
「野風は、野風があの男の相手とは思えませんぬが」
カツン
苛立たしげにテーブルを叩いた指が音を立てた。
「シッ!奴めが目を覚ましては面倒じゃぞ」
ふっと店主はため息をついた。
「私はちゃんと役目を果たせているでしょうか」
「何故、さようなことをいうのか」
店主は窓の外の闇を見つめた。
歪んで事態が動いている気がしてならない。
「ずっと、この時を待っておりました。
しかし、何かおかしい気がしてなりません」
フワリとため息をつくように、香炉は煙を吐き出した。
「どうしてそう思うのだ」
「野風が……」
あの人の子と情を通ずるのか。
そう考えると苛立ちが生まれる。
では野風を思うているのか、と聞かれれば、そんなはずがないとしか。
自分のおもちゃを取られたくない子供のようなものなのか。
それではあまりにも野風に失礼だ。
「いえ、私は……偽物ですから」
「私はまがい物にございますから」
「それを聞いたら、野風は嘆こうな」
店主は唇を噛んで、軽くこめかみを揉んだ。
「どうした、頭がいたいのか。付喪神のくせに」
「左様でございますね。
ちょっと……ここのところ、おかしゅうございます。
時が近づいて来ており、神経質になっているのかもしれません」
虚ろな目のまま、店主は呟いた。
「私たちは愚かなのでしょうか。
どうして、私たちはこのように人の子を愛してしまうのでしょうか。
恐ろしい」
私たちのしていることは、正しいことなのか……
ただあの方にお会いしたい。
ただ会いたい。
そして、思うがままに天を駆けるあの方を見たい。
付喪神たちは散った
今一度、突如奪われた主人に会いたい。
そして
一言、言って欲しい。
あの力に満ちた声で。
それだけなのだ。
「今更、何を言うのか」
青蛙神は煙を吐き出した。
「もう夏至が近づいている」
思いが空を渡る。
満ちる月が銀色に輝く空を渡る。
夜半、静かに男の寝室から滑り出た影があった。
静かな屋敷は、闇に包まれ物音一つしない。
テーブルの上の香炉に手を触れると香炉に香木を継ぎ足した。
重々しい香りが漂い始めた。
「青蛙神」
返事するようにフワリと煙が動いた。
「アレの
「もうじきじゃが、そんなことをして良いのか」
青蛙神の声がした。
「これ以上着けさせておくと、身を損ねる」
「なんとも気性の激しいやつじゃ。
むしろ今日までよう持ったということか」
「しかし、枷を外せば誰にも止められぬ」
「ギリギリじゃが、なんとかなろう」
青蛙神がこぽりと煙を吐いた。
もう月は満月だ。
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