第4章 栗の花が落つる頃

 




 「昨日は、わざわざお釣りをお届け下さったそうで」


朝、連日の雨に緑を深くしている川沿いの道を歩いていると、道の脇にその人が立っていた。


すらりとした痩身を黒のシャツにパンツという気軽なスタイルで包み、黒い傘をさしている。ただ、奇妙なことに、雨の日だというのに目深に帽子を被って、顔の半分は隠れている。

少し大きめの形の良い唇をほころばせて、親しみを演出しているようだ。


「いえ、いえ、こちらこそ」


店主が軽く微笑んで頭を下げると、男は少し顔を傾けた。

そして、顔をあげた店主と目が合うと、ニコリと笑った。


どこにでもあるような平凡な顔が、途端にやんちゃ坊主の愛嬌のあるそれになった。


突然、店主は目の前の男に奇妙な程の懐かしさを感じた。


(これは、誰だ

いや、なるほどそれで気になったのか……)


ポッカリと人影の絶えた雨の日の河原は、店主の紅い傘を残して、どこか昔のモノクロの映画のようだ。


男の瞳に映る自分の姿を、店主は見つめた。


細身ののっぺりとした印象の薄い顔がこちらを見返している。


ふっと店主は小首を傾げた。


(誰でも私には関係がない。

私は私の役目を果たすだけだ。

私は『相手』ではないのだから)


男の住んでいる屋敷の隣から、妙齢の上品そうな女がお手伝いと見られる女と一緒に出て来た。

そして立ち止まっている二人にチラリと不審そうな視線を投げかけた。


「あの、もし宜しかったら、お店の方にお越しになられますか」

「それは断る理由もない。是非ともお供しましょう」

男は人としては、透明な視線を店主に向けたまま、笑みを深くした。

それはうつつに対する諦観に満ちた透明さだ。


そして絡みつくような熱さを持っている。


店主はその視線を受けて、顔を背けた。

頬が熱い。



雨を集めた川の流れは荒々しく流れは海へと向かう。

逆巻くことはあろうが、その流れは返ることはない。


それはまるで時のようだ。

一旦、その流れに乗った舟は、何処までも流れに身を任せていくしかない。


過去の歴史を変えることなど出来ない。

出来るのは、表に出ていないその狭間をすくい取り、移し替えることだけ。


店主はこめかみに手を当てた。


「どうかしたのか」

男は心配そうに店主を覗き込んだ。

「あ、いえ、なんでもございません」

もう何百年もの間、時折チクチクと痛み続けたが、その痛みはもう消えていたのが、最近また痛み始めている。


その痛みが一時的に薄れている。


(野風は、今どこにおられるのか)


重りを落としたように胸が重い。



知らぬ男と傘を並べて静かな街を歩く。

所々にできた水溜りに、小雨になった雨が模様を描く。


「晴れた日も美しいが、雨の日も美しい」

男はしみじみと目に映る風景を愛おしみ、感嘆の声をあげた。

深みのある掠れた声が耳朶じだを打った。

「こんなにのんびりとこの空を見上げたのはいつ方ぶりか」


「左様にございますね」

気の無い返事を返しながら店主は空を見上げた。


「君と並んで見上げる空はとても美しい。

また一緒にこのようにして、歩きたいものだ」

男は振り返って微笑んだ。


店主は困惑して男の顔を見返した。


これから自分以外の誰かと情を交わすはずの男を。




「お口に合いますかどうか」



店内でもまるでそれが自分の体の一部のように、男はその帽子をつけたまま、美味しそうに出された茶に手をつけた。


「へぇ、なかなかレトロな風情なある店だね」

男は可笑しそうに笑った。

「伝統の重みを感じる」

「重すぎてございましょう」

店主も微かに笑いながら応じた。

「僅かな間と思うたのですが、事情があって長引いて困惑しております」


その時、天の涙のようにポツリと雨粒が落ちて来た。


「あ!」



土間に黒いシミが出来た……と思ったら、次々に雨粒が落ちてきはじめた。

「ああ!雨漏りし始めました」


店主はがっかりした声をあげた。

「大家さんの方には申し上げていたのですが……」


店主は雨漏りをしている下に水鉢を持って来た。


が、そこだけではなく、あっちやこっちで、ポツンポツンと雨は遠慮することなく、骨董屋の店内に水滴を垂らし始めた。


「申し訳ありませんが、その鉢をそこに」

男に器を渡した。


「これは、大変だ」


店主を手伝って、雨漏りをしている下に器をおいたり、骨董たちを動かしたり……

男がいなければ、自分で動いてもらうのだが……


「はあ」


一段落すると、店主はため息をついて腰を下ろした。


ぽちょん


ちゃぷん


ぽとん


静かな街の静かな骨董屋の店内に、雨の落ちる音が響く。


「まるで楽器のようだ」


男は目深にかぶった帽子の陰から、店主に目を据えたまま言った。


「ひどい雨漏りだね」


「ええ、古い店でございますのでね。

近々修理はして下さると言われていましたが……」

「そうか、それは荷物の預け場所の確保とか大変だね」

男は少し身を乗り出して、店主に囁くように言った。

「もしよければ、荷をお預かろう」

店主は少し目を見開いて、男を見た。

「え?いえ、それは別に……」

言いかけて、黄金の野原に付喪神たちを長く留まらせれば、それを維持する野風の負担になるかもしれないことに気がついて、口ごもった。

野風の状態が分からぬ今は、野風の負担を少しでも減らすことを考えた方が良いかもしれない。


男の帽子の庇の下の大きな瞳が親しげに店主の心を覗き込む。

掠れた声が耳に優しい。


「それくらいのこと何でもない。

部屋だけは無駄にあるからね。

誰もいないから、気兼ねは要らないよ」


まるで催眠術にかけるような声に、店主はためらいがちに微笑んだ。

「それは、ありがとうございます」


男は視線を店主に向けたまま、茶に口をつけた。

その視線は熱く包み込むようだ。


ほら


運命の輪が回り始めた。


それに巻き取られていく。


(誰が引き寄せているのか)


店主は細い目を更に細めて男の視線を受け止めた。

(見覚えがやはりある)


 今度は男が視線を外した。

その視線を側の棚の上に目を向け「ほう」と感嘆の声をあげた。


「これは茶杓ちゃしゃく?」

「はい、なみだと申します」


 それは限界まで薄く削られたやや小振りの茶杓で、節の入り方といい、何とも言えない味わいがある。

いわくのあるもので、なかなか売れぬ物にございます。」

立ち上がると棚から下ろして、その茶杓を男に渡した。


「曰く?」


男は手の中の漆塗りの箱に収められた茶杓を不思議そうに見つめた。


「これはある茶人が、切腹を申し付けられ、その僅かな猶予期間に作られた物にございます」


ゆら、ゆらと揺れる灯りが、茶杓の影を躍らせる。


「遺作となったこの茶杓を形見に受け取った茶人は」

奇妙なほど細く長い乾いた指が、そっとその箱の縁をなぞった。


「同じように非業の死を遂げました」


「へぇ、面白いね」

男は店主から目を離さず言った。

「それはなかなか蠱惑的こわくてきな茶杓だ」


ゆらり ゆらりと小さな月の灯りが揺れる。


「これをいただこう」

「良いのですか」

男の大きな瞳が、店主を捉えたまま、離さない。

「今の時代、切腹もないだろう」


ククククク

男はおかしそうに笑い声を立てた。


「別段、非業の死を招かれても構わない。君と一緒なら特にね」

男は屈託なく楽しそうだ。

店主の強ばった顔も、店内の緊張した空気も全く意にかいさぬ様子だ。


「ああ、それも、美しい」

男は身を強張らせている店主の向こうを指さした。


奇妙な緊張感が店全体を覆っている。


男を引き寄せているのは、涕なのか……

しかし涕は……


「あ、これは大層古いものにございます」

店主は、飾ってあった棚から西洋灯をおろした。

「一対揃っておりますのも、珍しゅうございましょう」


その縦長の六角錐ろっかくすいのそれは、繊細な蔓の花を刻んだガレを思わせる艶消しの硝子を、華奢な金属の枠にはめ込んだ物である。

蔓の花の矢車草の色が涼やかだ。


「へ〜え」

男は身軽に立ち上がって、店主のそばまで来ると、その西洋灯を覗き込んだ。

そして店主のすぐ側まで顔を寄せて囁いた。


「夢に出て来た奴にそっくりだ」

男は嗤った。


「僕はね、同じ夢を見続けているんだ。ずっともう子供の頃から」

男は楽しそうな口調のまま話し始めた。


「不思議な骨董屋に行くと、気味の悪い店主がいてね。

その店で僕はある骨董を買うんだ。


僕はその時、戸惑って悩んでいる。

もちろん、夢の中での話だよ。」


静かな店が、さらに静かになり、雨音ももう響かない。

店主も唇が触れそうなほど側に顔を寄せてくる男を突き放すことも忘れひたすら凝視している。


「するとその店主が『これで胸の痞えが下りる良い夢が見られる』と言うんだ。


おかしいだろう?


ところが、それからしばらくして、僕は夢を見るんだ。

それも夢の中の夢なんだけどね。


『あなたの夢を叶えて差し上げましょう』

実に美しい西洋の少女がそう言うんだ。

それは綺麗な少女でね。

ゆるく巻いた黄金の髪の毛が足の下まで流れて、矢車草のような瞳をした天使のような美しい女の子なんだ。


そして、僕の願いを叶える代わりにある約束を求められるんだ。

おとぎ話にありがちなパターンだね」


男の笑い声だけが、時の沈殿した店内に響く。


「どんな約束だと思うかい」


「さあ、何でございましょう」

今や、細い目を光らせた店主は白い顔をますます白くして、愛想よく微笑んだ。


「それは、遠い未来、時が来たらあるものを代償に渡すということだった。

その代わり、お金に困ることもないし、愛する人を手に入れる。

夢の中の僕は、良い取引だと思った。」


キーン


突如、男が西洋燈を弾いた。


「それは単なる夢の話だ」


男はまた、雨に降りしきる窓の外に顔を向けた。

その途端、急に雨脚の強くなった雨音がまた戻ってきた。


「現実の僕は、巨万の富を得たが、愛する人に巡り会えていないし、数年前に泊まったホテルで火事に遭ってね、それ以来、体調が優れず、こうして出歩けるのもごく稀だ」


「左様でございますか」


店主の瞳はいよいよ細くなり、今や獲物に躍り掛からんとする猫の目のようだ。

「それはお辛うございますね。思い切って、違う時代に行ってみたいほど」


それを聞いて、男は振り返っておかしそうに笑った。


「そうだね、未来なら行きたいものだ。医学が発達しているだろうからね」

「未来でございますか」

「ああ、過去に行っても面白くないじゃないか」


「左様にございますか」


「その時には一つしかなかったけどね。この西洋灯。やっぱり夢だ」

男は笑いの含んだ瞳で店主を覗き込んだ。


店主の桜色にほんのりと色づく唇が開く。

「他に螺鈿の硯箱など良いお品がございます。ご覧になりますか」

「そうだな」

そう言ったまま、男は店主の顔を凝視している。


男の腕が伸びて、その指が店主の髪をかきあげた。

「君は僕に全く見覚えがないみたいだね」

更に店主の細い腰を引き寄せ、男の瞳が店主の細い瞳を覗き込む。

「そうだろう?」


もう腕の中に入れてしまった店主が何も言わないのを、男はまた笑った。


「貴方も屋根の修繕の間、屋敷に泊まりなさい。

荷物を持って私が消えたらいけないから」


「そのようなことは心配しておりません」

店主が首を横にふると、男はニヤと嗤った。


「お金は引っ越して来られた時に支払うよ」


そう言うと店主から逃げるように、身を離し踵を返し

「あ、あの……」


止める間もなく男は降りしきる雨の中出ていった。


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