第2章 終わる春の日
それに気がついたのは、いつの事だっただろう。
川沿いに建つ大きな屋敷の二階の窓から、黒髪の若い男が興味ぶかげにこちらを見ている。
窓枠に切り取られた空間に、色白の顔がぼうと浮かんで視線を送っている。
店の裏手にある大きな川の向こう岸の高台の、高い石塀のその向こう、大きな庭の奥の奥の屋敷の窓だから、気のせいだと言われても仕方がない。
しかし、強い視線が、ペタリと貼り付いているのが気配で分かる。
「着物姿だからでございましょうか」
店に戻った店主は水滴がツルツルと
「他所の人の子に、ジロジロ見られたことなどどうでもよかろう!
それで野風は見つかったのか!」
そうだ。
野風の姿が消えて早いもので、もう二年になる。
今までも仕入れの為にいないこともあった野風だが、こうも年単位で姿を見せないのは初めてだ。
おかしいと皆で話し合っていたとき、
「そう言えば……」
と誰からか声が上がった。
その前からたまにしか、顔を出さなくなっており、気がつけば店の中で夜を共に過ごすこともなくなっていた。
そういえば何やら悩んでいる風だった。
よく仕入れに付き添っていた涕に目が向いたが、
「なんで知っとらなあかんのか、分かりませんな」
そっぽを向くし、店主に問うても
「そんな……一人前の付喪神に、子を追うように一々聞けますまい?」
苛立たしげに返された。
薄闇にも、黄金の野原にも、野風の姿はない。
しかし、それらは野風の力で維持をしているものだから、野風が滅したり、気持ちを無くして、思いを切らしたわけではないことは分かる。
だが
「主があまりにつれない故に、野風が愛想を尽かしたに違いあるまい!
アレもお出ましになられ、時が迫っておるというのに、野風が見つからなんだら、どうするつもりじゃ!」
笄が苛立ち、また責める口調で店主を詰った。
「これ、笄!」
三つ子の姉貴分の
「いいえ、目貫、別段構いません。
言いたいことがあるなら、はっきり言うて貰った方がお互いスッキリ致しましょう。
しかしながら、笄。
野風は、私がどうだからと姿を消すような方だとは思いません」
細い目を更に細くして、睨めつけるように、冷たく言い放った。
それでも、まだ本気で怒ってはいないことは、その瞳が斬れるような凄みを帯びていないことで分かる。
分かるが、まるで抜き身の刀のような辛辣で、突き放したような冷たい物言いに笄は気を悪くして、ぷぃっと顔を背けた。
目貫はため息をついて、店主に再び謝った。
「済まぬ」
店主は店主で目貫に声をかけるでなく、こちらもぷぃと顔を逸らせてしまった。
最近は店主も以前のようなのんびりとした風情はなく、店はギスギスとした雰囲気である。
「もう時は近いのに」
皆、ため息のようにそう言い合う。
その中、空気を読まない暢気な様子で
「まぁ、まぁよかろう。
目貫、店主、気にすることなどないわ。
笄は野風がおらんで寂しいのであろうよ。
筓な甘えん坊ゆえにのう。
全く可愛いものよ」
そう言いながら鎧通しの
「そんな可愛いなど……別段」
モジモジと顔を赤くして、筓が厚の袖を引っ張って顔を伏せた。
「しかし、わしという念者が居ながら、野風のことを左様に気にするなど、なんとも不穏じゃのう」
笄は先だってようよう思いが叶って、厚から
「わしの
と囁かれた。
しかし、厚は鎧通しで短刀だ。
元々は太刀用の装飾品の笄は、短刀の鞘に収まるには具合が少々よくない。
その上、三つ子の目貫、小柄との兼ね合いもあって、嬉しいやら、悩ましいやらで更に悩みは深まり、相変わらず情緒不安定だ。
「い、いや、左様な……左様な意味ではない。
分かっておろう……」
耳に口を寄せてクスクスと笑う厚に顔を赤くした笄は、立ち往生した風情で身をもんだ。
「焼けるのう、笄」
「そんな、そんな……
ワシは厚のことしか……」
以前は以前で、口が悪くて鬱陶しかった二人だが、こうなったら、こうなったでまた鬱陶しい。
三つ子の片割れの目貫は、これまた赤い顔を伏せて、爪先でのの字を書いているし、小柄は嫌な顔をして背中を向けている。
そんなことも気にせず
「また左様な思わせぶりなことを言うて、口ばかりのくせに。
まだ性が定まらぬのは、思いが定まらぬ故じゃ。
にくいのう」
「わしが厚をどんなに思うてるか知っておるくせに。
それをそんな風に言われると、ああ、もう、どうしたら良いか分からぬ」
感極まった様子で筓が、ひしっと厚に縋り付く。
ああ、やれやれと皆、目をそらす。
「……まぁ好きにすれば良いではなかのぅ」
於杏が苦笑いしながら、口を挟んだ。
しかし、その於杏の口調にも、どうにもうんざりしたものが混じっている。
「もそっと、暗い所ですると風情が募るのではないかのぅ?」
「そうじゃの、厚らは店の隅の隅の方へいくがよかろう」
周りのことが目に入らぬ様子の2人に、目障りだと皆、言外に言う。
店は、恐ろしく年月の経った古民家に少しばかり手を入れたものだ。
ギシギシと音を立てる木の黒ずんだ床から、上がる湿気が音を吸い取っている。
壁は薄い肌色の土壁に、飴色に変色した板が腰高に貼ってある。
高い天井には、水牛の角のように歪んだ大きな
薄暗い店内は、時の流れからこぼれ落ちたように、不吉な静寂が満たしていた。
「えらいボロ屋じゃの……」
最初、今回はここだと野風から言われた時、皆、嫌な顔をして辺りを見回した。
「なんぞ、湿気が酷うて錆びてしまいそうじゃのぅ」
於杏が心配そうに言うと
「これから梅雨に入ったら、身が曇ってしまわないかの」
刀達が身を震わせた。
「ネズミなどが出ねば良いのじゃが……」
誂えの絹の袋を食い破られないか心配する物もおれば、表装にシミが浮き出るのではと慄く物もいる。
なんとも、付喪神ですらうんざりとする、辛気臭い、薄暗い店だ。
「ここはほんの暫くの辛抱じゃによって」
野風は困ったように笑ったが、その肝心の野風がいなくなり、一体この先どうなるやら、心まで店の辛気臭い影に吸い込まれていきそうな骨董屋の付喪神たちである。
そんな薄暗い店の最奥に
そこに店主は腰を下ろしている。
店主は雨の降りしきる窓の外に顔を向けた。
「今年は長雨にございますね」
雨の日の窓ガラスは白く曇り、外の世界が夢の中のように
店の前のそろそろ咲き始めた紫陽花が、店主の言葉に
長雨の季節は、まるで
「もう春も終わりにございますな」
店主は、こちらも出てきたのはいいが、その付喪神としての姿を現さず、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる香炉に視線を向けながら呟いた。
イライラと細く白い指が、雨の音をなぞるように机を軽く叩き続けている。
今日もまた雨が降っている。
(今日は……)
野風を探しに街を歩く店主は、チラリとその窓を横目で見た。
雨の日特有の濡れた香りが、辺りに強く漂っている。
道の両側には雑草が茂り、今日も降る雨に緑の色を濃くしている。
普段は川底に石も見え、サラサラと癒すような音を立てている流れも、濁ってドウドウと逆巻き、水面を上げている。
(おられませんでしたね)
店主は、紅の和傘の下でちょっと苦笑を浮かべた。
まるでそこに男がいるのを期待をしていたようだ。
関心を持たれるのは得策ではない。
すれ違いざまなら、人ではない付喪神の姿は、あっという間に、人の子の記憶から抜け落ちていく。
相手がよほどの関心を持たない限り、留まることはない。
幻のような存在だ。
(感傷にございますかね)
銀色の糸が天から次々に降りてくる。
通勤、通学時間を過ぎた道に、人影はまばらだ。
濃紺に暗く色を変えたアスファルトが、川に沿って続く。
その道から駅の方へいくと、会社から取引先に向かうのかパラパラとスーツ姿の人が増える。
傘を差し、生きるために仕事に向かう人の流れに、時を超えていく異形の者が混じっている。
きっと誰も、そのようなことには気がつかないだろう。
一瞬、吹き抜ける風よりも尚、その存在は
(もしかしたら、私は誰か人の子に覚えていて頂きたいと……)
ふっと息を吐く。
(バカなことを)
大きな道から逸れて、細い道をゆっくりと店主は歩いていく。
砂利の敷いた道に名も知れぬ草が青い花をつけている。
ふとこめかみに細く白い手を滑らせた。
(野風……)
あれほど、野風の思いが伝わって来ていたのに、今は淡く微かにしか感じられない。
それは日に日に、消えていくように感じられる。
最初は…… 絡まれ、縛られ、自由を喪った憤りと鬱通しさが勝っていた。
自分を生かしめるためだと分かっていても、苛立ちが募った。
それが、まるで自分の一部のように、感じ始めた頃、静かな思いがそこから流れてくるのに気がついた。
野風の笛の音のような静かで暖かい、生かしめようとする力だ。
(野風は……)
その思いは、笄の苛立った言葉を思い出させる。
笄は野風がいなくなったのを、店主のせいだと言いがかりをつけてくる。
それが殊の外腹立たしい。
忌々しげに店主は一つ息を吐いた。
(まぁ、野風のおかげで私も随分と気が長うなりました)
宛もなく歩き回っても、野風が見つかるわけではないのだが、付喪神たちは、迷子になった子を探すように、順番に街を彷徨い歩いた。
一体何処にどうしておられるのか……
(それに香炉も出てこられたは良いが、姿を現されません)
店主は重い気持ちを胸に、銀色の雨の幕の降りる街をさまよった。
何か手筈を間違えているのだろうか……
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