黄金の野のベレン

第1章 海の見える街

 

それは美しい聖母像だった。




ほんのりと薄く彩色してある、白くつややかな陶器の母子像で、生まれたての我が子を胸に抱き、優しく慈しむ視線を向けている。


それを手にしたのは、日に焼けたがっしりとした青年だった。


短く刈られた髪の毛と精悍せいかんな顔つき、背筋の伸びたキレの良い所作しょさが、彼が軍人であることを示していた。


恐らく眼下に広がる海の海岸にある、軍事施設で働く男だろう。


その男は小さな母子像を大きな手に乗せて、後ろを振り返った。


「これは」




振り向くと坂の途中にある、小さな骨董屋の店主が立っていた。

ひょろりと背の高いその店主は、のっぺりとした顔に薄い笑みを浮かべてこちらを見ている。

首の後ろでまとめた長い髪の毛が、その男には非常識に感じられた。


(骨董屋という商売柄でも行き過ぎでは……)

非難めいた気持ちになった。

が、その細身のどこか生気のない姿に

(もしや、病がちなのかもしれない)

気の毒な思いが湧いてきた。


そんな男の思いを笑うように、大きな窓から心地よい海風が吹き込み、木の看板がカランと乾いた音を立てた。


「それは『ベレン』にございます」



ベレン


男は聞き慣れぬ音に首をかしげた。


基督カトリック教の救世主の生誕の様子をして作った、飾りの一つにございます。まあこのご時世にはいけぬものでございますがね」


店主が悪戯いたずらっぽく笑うと、男は口を歪めた。


「勿論、人として付き合えば気の良い人もいることはわかっております。

しかながら、いまはお国のために、国民一丸とならねばならぬ時期です。

このようなものを扱われて、大丈夫にありますか」


若い軍人は頬を上気させ、眉根を寄せて店主をなじるように、しかし、どこか心配するように言った。


「ええ。で、ございますから、本当はお店を閉めているのでございますよ」


店主が可笑おかしそうに笑うと、男は「あ」と小さく声を上げて赤くなった。


 小さな店の中には、骨董屋にありがちな壺や箪笥たんすなどの大物は無く、机の上に小物だけが寂しげに置いてある。


そういえば、足を踏み入れた時に物の少なさに「雑貨屋か……」と薄っすらと思ったのを男は思い出した。


それに、その時「いらっしゃいませ」と言った店主が、一瞬、戸惑った顔をしたのも、自分が軍人だからではなく、咄嗟とっさに迎える声を上げたものの、店を閉めていたからか……と思い至った。


「そ、それは申し訳ないことを」


「いえ、いえ」


店主は細面の顔の前で、紙のように白い手を振った。

「閉店の札を店の扉に吊ってございましたが、その扉を店に風を通す為に開け放しておりました」


ああ、そうですか……

男はうなずいた。



「これは」


店主は男の手にしている母子像を指差した。


目の前に突き出されたいぶかしいほど細く長い指に、男は一瞬ゾクリと背中に冷たいものが走った。


思わず顔を上げると、昼寝している猫のような表情の店主の顔があった。


「元はうまやや天の使いなど、色々あったようにございますが、古いものなので、今はもうそれしか残っておりません」


 その白い顔の中で唯一色があるような桜色の唇に、故郷の妻の指先が脳裏のうりを過ぎった。


別れ際にあの柔らかな桜色の指を握りしめ、自分のがさつく頬に押し当てた。


そして、妻の指先のような薄紅色の桜が咲き誇る季節に、彼の働く港は敵国から空襲を受けた。


これで終わる筈がない。

皆、そう噂をしている。


年が明ければ産まれるという我が子に、生きて逢えるだろうか……



「確かに、色がめている。でもとても美しい。」

男は、店主の顔から目を離すと、手の平に乗せた母子像を見つめた。


「実は、妻が初めての子を宿しておりまして」

母子像の、色の褪めた青い布をまとった母親の優しげな白い顔が、妻にそっくりだ。


「一緒に居てやれぬのが不憫ふびんであります」


「左様にございますか。さすればきっとお守りになってくれましょう」

店主の言葉に振り返った男は、嬉しそうに首肯うなずいた。


その途端、厳しい軍人の顔の下から、まだ頬の赤い純朴そうな青年の顔が現れた。


「今日、ここへ来て良かった」

男は愛しそうにその聖母の優しい顔を見つめた。








ポッと暗闇に火がともった。


その小さな火が、ふわりふわりと動いて、次の新たな火を作った。


一つ、二つと火が増える度に、辺りの闇がオレンジ色の光ではらわれて行く。


そのオレンジ色のあかりの中に、小さな手が見えている。


クスクス


可愛い鈴を振るような、無邪気な笑い声が聞こえる。


「メリークリスマス」


若い女の声がして、パッと電気がついた。


所々、壁の漆喰しっくいの落ちた小さな部屋の真ん中に、色のげた丸い卓袱台ちゃぶだいが置いてある。

その卓袱台の上には、ふちのかけた皿が置いてある。


その皿の上には、薄黄色うすきいろい小さな丸いかたまりがおいてある。


「メリークリスマス!」


皿の前に座っていた、肩も落ち、所々引きれた糸の出たセーターを着た男の子も笑顔でそう言った。


長い睫毛におおわれた、黒目がちの大きな瞳は、おかしそうに今は細められている。


「おかあ!今日はご馳走ね」


きらきらと目を輝かせて、向かいに座っている、顔色の悪い頬のこけた母親に声をかけた。


「ええ、さあ、召し上がれ」


母親がそういうと、男の子は何度も折り返し、それでもり切れた袖口から出た細い手を伸ばして、皿の上のおからの蒸しパンを取り、フワンと二つに割って、片方を母親に差し出した。


「おかあはいいのよ。お前が全部お食べ」


男の子は間が悪く、ぐうと音を立てる自分のお腹に力を入れて、首を振った。


「僕はおかあと食べたいの」


すると母親はにっこりと微笑んだ。


「おかあは、大丈夫。おかあはお前が大きくなるのだけが楽しみなのよ」


にっこりと微笑むおかあの笑顔はなんと美しいんだろう。

冷たい海の底で眠っているという、おとうがおかあに贈った人形にそっくりだ。



それでも尚、小さな蒸しパンの片方を差し出す息子に根負けして受け取った母親は、息子を抱き寄せた。


「本当にお前は良い子だね。おとうにそっくりの優しい子よ」


男の子は嬉しくなって、またクスクス笑った。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る