第2章 金色の野のお伽噺

秋水あきみず!秋水!」



少女の高く良く通る声が草原に響く。


「秋水!」


伊万いま


寝転んでいたのか、十五ほどの少年が草の間から顔を出した。


「秋水!」


伊万と呼ばれた十になったか位の少女が、はだける着物の裾を気にしながら、少年の元へ駆け寄った。




 伊万が秋水に初めて会ったのは、今から五年程前のことである。


 伊万の住んでいる屋敷は、山の上に建つとても大きな城屋敷だ。


その奥御殿に伊万は家族と住んでいる。


屋敷には、竹や柴でできたかきねで仕切られた庭があり、築山つきやまに木や石塔が置かれている。

その頃の伊万が侍女を相手にかくれんぼをするには、丁度良い塩梅あんばいだった。


今から考えれば、広いといっても限りのある広さであり、伊万の着物は目に鮮やかな赤や黄色の物で、侍女からは丸見えだったのだろう。


しかし、侍女たちは本当に見失ったふりをして、名前を呼び、探してくれた。


 その日も、手鞠てまりが転がったのを追い掛けて、そのまま、大きな躑躅つつじの丸い木の下に潜り込んだ。


「伊万姫様!」


「何処におられ申すか」


侍女の声が嬉しくて、伊万は笑いそうになるのを必死で抑えた。


着物が汚れるのも気にせず、伊万は躑躅つつじの木の下を、反対側へ這い出て、えいやっと裾をからげた。

小さな池へ流れ込むせせらぎを押すようにして、水音を立てず渡った。

そして小さな築山を登ると、たちばなの木の下に潜り込んだ。


「伊万姫様ぁ!」


侍女たちの声が聞こえる。


伊万は唇を噛んで、笑いをこらえると、橘の木の下を反対へ抜けようとした。


「あ」


それは突然、足の下の地面が無くなった事への驚きの声だったのか

それとも目の前に広がる、見たこともない風景への驚きの声だったのか。


伊万は、黄金色に染まった草原にいた。



「ここは」


伊万は立ち上がると、そのどこまでも広がる、黄金の海原を眺めた。


遠くの方で、底が抜けたような透明感のある青い空と溶け合って一つになっている。


空中に幾つも光の珠がふわりと浮かび、空の柔らかな陽の光を受け、輝きながら、きらめく光の粉を振りいている。



このような胸がすく美しい風景は見た事がない。


伊万は笑いながら走り始めた。


風が伊万の頬を撫で、髪の毛をもてあそぶ。


広い、広い、広い!


最後に伊万は息を切らして、バタンと倒れた。


「ひろぉい!」


伊万の声が空に響いた。


その途端である。


「何をしているの」


白い顔が伊万の視界に入って来た。


伊万は慌てて、はだけた着物の裾をかきあわせて、起き上がった。

その少年は申し訳なさげに、泡を食っている伊万に謝った。


「ごめん。ごめんよ。驚かせちゃった」


それが、秋水との初めての出会いだった。


秋水は、伊万の始まったばかりの人生の中で、見たこともない程、美しい少年だった。


透き通る白いなめらかな肌に、黒目がちな大きな瞳。

鼻筋はするりと通り上品で、大きくも小さくもない形の良い唇は、男のものとも思えないほどつややかだ。


ただその烏羽玉ぬばたまのような髪の毛は、短く、まるで伸ばしつつあるわらわのような長さだった。

そんな美しい髪を短くしているなど勿体無いと伊万は思った。


しかしながら、都の方では顔が鍾馗しょうき様のように、赤い顔、赤い髪の恐ろしい姿の、聞いたことがない言葉をしゃべる遠い国の人や、すみのような黒い肌の人が本当にいると父から聞いたことがある。


伊万達の常識では計れない世界がある、世界は広いと父は遠い空を見るような瞳でそう言っていた。


秋水もそういう伊万とは違う世界の人に違いない。

それに鍾馗様とは大違いで、秋水は天女のような美しさだ。


「どうしたの」

目を丸くして秋水に見惚みとれる伊万に、不思議そうにそう言った。

傾げた顔の物問いたげな表情が、また美しい。


なんと見目麗しい男子おのこであろう。

伊万はぽぉと頬を染めて、秋水から目が離せない。


「帰り道が分からないの?」


その言葉に、伊万はハッとあたりを見渡した。

あたりは、風にうねる黄金の海原で、見慣れた風景は何処にもない。


光の珠がゆったりと宙に浮かび、興味深げに伊万を見つめている気がする。


あの珠はなんだろう。

伊万が聞くよりも早く、秋水が声を発した。


「大丈夫、ここから帰るのはちょっとしたコツがいるんだ」


伊万は秋水に言われるがままに、細長い金色の草を何本か抜いて寄せ集めた。

それから、横髪を束ねていた細い紅のひもほどいてその先に結んだ。


それを前方に突き出して、秋水と一緒に黄金の野原を歩き始めた。


伊万が秋水を見ると、秋水は伊万を安心させるように微笑んだ。

「大丈夫、すぐに見つかるよ」



すると秋水の言った通り、直ぐに結んだ紐が突然切り取られたように見えなくなった。

不思議なことにそっと手前に引くと、スルスルと紐が見えてくる。


「ここが伊万の帰り道だ」


秋水は何もない空間を指差して言った。


それから、グズグズしている伊万を不思議そうに見た。


「どうしたの。怖いの。大丈夫、この先は伊万がいた場所だから」


伊万は首を振った。


また頬が熱くなって、赤くなるのを感じた。


それがまた恥ずかしい。


「また秋水に会え申すか」


それが伊万の一番の心配だった。


「ごめんね、それはわかんないや」


秋水は、困ったように首を横に振る。


伊万は自分が泣きそうになっていることに気がついた。


その時には分からなかったが、伊万は幼い恋の中にいた。


伊万はもう片方の髪の紅の長い紐を解くと、秋水に差し出した。


「秋水、これで伊万の所へ遊びに参られよ」


秋水は自分も伊万に渡すものがないか、見下ろした。

白い開襟かいきんシャツに茶色のズボン、そしてズック。


一瞬、ズボンのポケットに手を伸ばしかけたが、かすかに首を振った。


「秋水の髪を」

伊万は赤くなりながら、そうせがんだ。


「髪を一本くだされ」


秋水は、艶やかな髪に細く陶磁器のような指を絡めると、ポツンと絹のような髪の毛を抜いて伊万の小さな手に渡した。


「きっとこれで会え申す」


伊万は微笑むと、急に恥ずかしくなって、秋水が何かいう前に大急ぎで、その空間に身を踊らせた。


またたきのわずかな合間に視界は移り、伊万は橘の木の合間に座っていた。



「あ」


夢だったのか……


そっと開いた手の中には、黒い一本の髪の毛があった。


「伊万姫様!」


侍女の声が直ぐそばで響いた。

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