第5章 荒波に呑まれる現



「ちーちゃん、大変。日本がアメリカを攻撃したらしいわよ」




 母親が全く大変では無いのんびりした口調で、そう千鶴子ちづこに言ったのは十二月に入ってすぐ頃だった。


千鶴子も

「あらまあ、今度はいつ終わるのかしらね」

と呑気に返した。


ラヂオは「勝った。また勝った」と調子の良いことを言っていたし、生活も別段変わりがなかった。


ただ朱鷺子ときこの婚約者が家にやってきて、暗い顔をして父親と長い話をした後、朱鷺子の式がトントン拍子で決まった。



美しい花嫁衣装を着て、朱鷺子は桜の舞う中、近所の家へ嫁入りをした。



 その頃から坂を転がり落ちるように、世相せそうは暗いものへと変わっていった。


父も朱鷺子の夫もしゅうとも戦地に駆り出され、食料は配給制となり、庭は畑に変わった。


教員になった千鶴子は子供達に勉強を教えるというより、働き手のいなくなった作業場への、「勤労奉仕」の引率をする時間が増えてきた。


 千鶴子にとって唯一の慰めは、あの夢である。


どんな晴れた日でもモノクロに目に映る現実の世界よりも、その夢の世界は色に溢れていた。



「どこまでも戦さはあるのだな」


男は少し顔をゆがめてそういった。


「皆、終いには飢え死にをしそうよ」


「……そうか……末では左様に惨いものか」


男は千鶴子の言葉に、遠くを見る目になった。

千鶴子がそっと寄り添うと、男は千鶴子の細い手を大きな手で包み込んで、膝に乗せると優しく撫でた。


「大丈夫じゃ。於千鶴殿。

戦は必ず終わる。

それまで、草の根にしがみ付いてでも生きるのじゃ」



家でも、職場でも皆が千鶴子に頼ってくる。

千鶴子とて、一体どうしたらいいのかさっぱりわからない。

しかし、頼るべき男たちは戦場で、お国のために、いや父母、妻子たちの為に命を捨てて戦っている。


(泣き言なんて言えない)


日増しに食べる物は無くなり、破れた服に継を当てようにも糸がない。


戦場では男が亡くなり、本土では弱った年寄り、子供から倒れて行く。



のこされた家族は悲嘆すら感じられない精神状態へ追いやられ始めている。


自分がしっかりせねば、家族を、生徒を守らねば。



ささくれだらけ心は、ジクジクと、微かで、そして治らぬ、湿った痛みを持つ。


(もし、この人がいなかったら……)


千鶴子が見上げると、男も千鶴子を見た。

男の黒い瞳に自分の窶れた姿が映っている。


(私は正気を保っていられまい)


「もし、私が死んだら、此処にずっと居られるのかしら」

「馬鹿な!」


男は怒ったような声を出して、千鶴子を叱責した。

「於千鶴殿、生きることを考えよ。生き抜くのじゃ。

何があろうとも、生きることを考えよ。

生き抜けなかったわしの分まで、うつつで生きてくれ……」


千鶴子の縋り付くような瞳を、男は親指でなぞって閉じさせた。

千鶴子が男に胸に寄りかかると、男は千鶴子を慰めるように遠慮がちに腕を回した。


(夢でもいい)


千鶴子は目を瞑って、男の逞しい体に身をゆだねた。


「於千鶴殿……」


二人の影がゆっくりと床へ沈んで行った。


 


 朱鷺子の夫がいた部隊が攻撃され、舅の乗っていた船が沈み戦死したという知らせが相次いで入り、心労で体を悪くした姑を抱えて、朱鷺子が実家に帰って来た。


 千鶴子たちの父は戦争が激化する前に亡くなっており、女四人は身を寄せ合う様に暮らすことになった。



 11月になるとアメリカは日本本土に襲いかかった。



 夜毎響く空襲警報の低いサイレンの音は鳴りやむことなく、空気とともに人の心を引き裂いて行く。


サイレンの音の数秒後には、引き裂かれた闇の間から空気を、そして地面をも重く震わせて、米軍機が飛来し、その後には紅蓮ぐれんの炎が、海のように広がるのだった。



 3月の大空襲の折には、多くの人が焼け出され亡くなった。



その中に防空壕で蒸し焼きにされた朱鷺子の姑もいた。

千鶴子達は橋の下に逃げ込み、一晩中水に浸かって震えながら生き延びた。


帰る家を失った千鶴子たちは、中野に住む母の兄の家に身を寄せた。




 5月になると千鶴子の務めている学校の児童たちが疎開そかいしている土地が空襲にい、北の方へ再疎開することになった。

その為に千鶴子が移動の補助に行くことになった。


駅について、今や線路さえ、引っぺがされた路面電車の跡を見た時、その昔、電停で待ち合わせて、骨董屋に行った時のことを二人に思い出させ、不思議な震えが二人の胸を襲った。


わずかな時間しか経っていないのに、なんとあれから遠いところまで来たのだろう。


「また、あの骨董屋へ行きましょうね」

朱鷺子はそう囁いて、千鶴子の頬を撫でた。


千鶴子は列車から身を乗り出して、朱鷺子の姿が見えなくなるまで必死で手を振った。


あの日のように。



「千鶴子せんせーい!」


 疎開先に着くと、やせ細った子供達が歓声をあげて、千鶴子にまとわりついて来た。

田舎の村は、都会に比べれば昔の面影を残している。

広がる青空と山々の濃い緑が、痩せこけて骨と皮になり、ろくに風呂にも入れず垢染みて薄汚れた子供達の姿を浮き立たせて息苦しい。


「何人か動けない子がいて」


寮母が困ったように千鶴子を見た。


「私が後から連れて参ります」


長い疎開生活に病んだ表情の同僚の教師や、寮母たちはホッとした顔になった。



翌日、千鶴子は子供達の乗った列車を見送った。




それが分かれ道だった。




 病児たちの体力が回復するのを待っていた千鶴子の元に、母たちが身を寄せて居た中野の叔母の家の周辺が空襲に遭い、叔母たちも母も朱鷺子も亡くなったという知らせが届いた。



 表情を失った千鶴子を受け止めてくれたのは、やはり夢の中の男だった。



何かうなるような声を出しているので、「どうしたの?」と聞くと、男は端正な顔を赤らめた。


「唄うておるのじゃ。於千鶴の慰めにならぬかと思うて」


思いがけないことに千鶴子が噴き出すと、男は背を向けてねてしまった。

まるで子供のように口を尖らせる。

「父上の申す通り、武編ぶへんばかりではのうて、芸事でもしておけば良かった」


「ごめんなさい、ねえ、ごめんなさいってば」


千鶴子は笑いながら男を揺すったが、気がつくと頬を涙が流れていた。

千鶴子の沈黙に振り返った男は

「泣け、於千鶴」


千鶴子を抱きしめ、そっとこめかみに口を寄せた。


「於千鶴が苦しんでおるのに、何も出来ぬわしを許してくれ……」

男も涙を流しながら、その分厚く大きな手で、優しく千鶴子の背中を撫で続けた。


「於千鶴、わしは間違っておった。

生き抜くことこそ、大事であった。

たとえ人から弱腰と言われようとも……


わしはどれだけの命を散らそうとしていたのか……


数ではなく、それぞれに愛する者がいたというのに……」



螺旋状らせんじょうに時が自己完結をしている空間は、変わらず優しく、残酷な静けさが覆っていた。





 急速に日本という船が沈んで行くのを、国民のほとんどは分かっていた。


都会では建物は焼き払われ文化的な生活は失われた。


農家の人々は空襲警報がなっても、農作業をやめないように命じられた。


政府は雑草食を推奨すいしょうし、広報誌に調理法を載せたが、その雑草を料理する燃料も、調味料も、配給に従っていれば、既に手に入らない状況だった。


誰もが死に向きあっていた。


暑く苦しい夏が来ようとして居た。


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