第6章 赤い封印の扉


「結界が緩んでおる」



 「え」



 顔を上げると、顔を上気させた男が、何かに耳を澄ませている。


男は隣に寝ている千鶴子を逞しい胸に再び抱きとり、顔を寄せた。

男らしい高い鼻梁の精悍せいかんな顔が近づき、今にも唇が千鶴子の肌に触れそうだ。


「於千鶴、結界が緩んでおるのじゃ」


目には妖しく熱を帯びた光をたたえて、押し当ててくる上気した肌が熱い。

乱れた吐息が千鶴子の頬にかかる。

鼓動がいつになく、早く打っている。


千鶴子の胸も、男の鼓動の高まりにからめ取られたように、早く大きく打つ。

体も、男の体の熱が伝わったように熱く、男を追いかけていく。


ああ、なんてこの人は美しいのか。


千鶴子は手を伸ばして、男の顔に手を触れようとした。

その千鶴子の手を、男は包み込み、自ら頬に押し当てささやいた。


「於千鶴、ここから逃げる千載一遇せんざいいちぐうの機会じゃ。」


「でも」


(ここから出れば、この人は居なくなってしまう)


行かないで。


私のそばにいて。


永遠に結界の中に、封じ込められた男の気持ちを考えれば、口には出せない。


「どうか、あの門の穴をもう少し広げそうらえ」


男の熱い唇が腕の中の千鶴子の額に押し当てられ、大きな優しい手が髪を愛しそうに撫でた。


「於千鶴とは離れとうない。

が、ここに封じられておるのはもう耐えられぬ。」

 

千鶴子は男の腕の中にさらに強くからみとられ、目をつむった。


男の声が泣いている。


濡れた唇が、優しく胸に押し付けられるのを感じながら、胸の奥がざわついた。

 

「どうか、わしを逃がしてくれ」





 その頃のうつつの千鶴子は、明日には新たな疎開先へ電車に乗って合流するという日の夜、空襲警報が鳴り響き、身を寄せていた宿舎が焼かれるという目にっていた。


その上、人心が荒廃して急激交通マナーが悪化している為に、列車での移動は危険だという判断が学校から届き、住職の紹介で近辺の別の寺へ移ることになっており多忙を極めていた。



(封じられているという場所もわからないし……)



空襲におびえ飢えに苦しむ、正に悪夢そのものの生活は、淡々と平和に時が流れる夢との乖離かいりがありすぎ、夢からめると、夢を本気にしている自分をわらう声が聞こえてくる。



(結局はただの夢じゃないの)



千鶴子は現実から逃げているようで情けなく、涙ぐんだ。


(ここにいる子供たちは、私を頼りにしているのに、肝心の私が夢見がちで。)



しっかりせねば


千鶴子は肉が削ぎ落ち、硬く骨ばった膝の上で、乾いたこぶしを握った。

硬く握ると白い骨の浮く荒れた拳が、千鶴子の現実なのだ。


「あ」



千鶴子は耳を押さえた。


最近、起きていても竹林を渡る風のような音がたまに聞こえる。


この音を聞くと何か駆り立てられる気持ちになる。


必死で首を振って音を締め出した。


「心労のせいね。おかしくなっているんだわ」


(子供達のために、私がしっかりしなきゃいけないのよ。)



しかし




新たな疎開先の寺の近くに、その禍々まがまがしい赤い扉のびょうがあった。



千鶴子は、新たな寄宿舎が、敵襲に遭った時の逃げ道を調べる為に、周囲を探索していて、それを見つけた。


「なんて事なの……」




千鶴子は目に見えぬ何かに、追いかけられ、決断を迫られているような気がした。




 千鶴子は、すぐにでも封印を解き男を解放しなければという思いと、

心の支えである男をこんな時に失いたくないという感情と、

夢のことなのに馬鹿げている理性のせめぎ合いの中にいた。




実際


あの廟の赤い扉に千鶴子が取り付いて、ガタガタと揺らしている所を人に見られでもしたら、折角せっかく、好意で疎開させてもらっている寺から、子供たちが追い出されるかもしれない。


上手く人目につく異変でもあれば言い訳も立とう物だが、もし何もなければ、千鶴子の立場の面目の無さと言ったら、目も当てられない。



(何事も預かっている子供を優先させなければ)



千鶴子は自分に言い聞かせた。

それが自己欺瞞じこぎまんであるとしても。


(それに今、あの人を失っては私は生きていけない)


千鶴子はこればかりは肌身離さず持っている、巻いた竹林の墨絵を胸に抱きしめて、咽び泣いた。


(お願い!せめて戦争が終わるまで。

終われば、必ず穴を広げるから……)


 



その夜、千鶴子は竹林の中にいた。



あんなに手入れの行き届いていた竹林が荒れ、所せましと竹が乱立している。



斜めに立つ竹をまたぎ、無理やり体を滑り込ませ館へ急ぐと、濡れ縁に座る男が遠くに見えた。



千鶴子が庭へ踏み出すと、目の前にある何かにはじかれ、背中を竹でしたたかに打って、座り込んだ。



(なんで?)


大急ぎでぐるりと回り込んで、別の場所から入ろうとした。


中に入ることは叶わず、また見えない壁に押し戻された。


(うそ!)


そこからはもう無我夢中で、乱れ立つ竹に足を取られ、転げながら、屋敷の周りを走り回り、何とか入れる場所はないかと探した。


(入れない)


千鶴子を恐怖と絶望が襲った。




「ねぇー!」


千鶴子はできる限り屋敷に近づき、手で見えない壁を叩きながら大声で叫んだ。



声高く大声で呼んでも聞こえないのか、男は背中を丸めじっと地面を見つめている。



千鶴子は必死で見えない壁を叩き泣き叫んだ。


(気がついて!)


どうして


なんで


あの人の腕の中に戻りたい。



あの人の瞳に私を映して、ただ名前を呼んでほしい。


あの人だって、私が居ないと心が凍てつきそうだと……


私が居ないと



(もし、私が死んだら、この人はまたひとりぼっちなんだ……)


千鶴子は、透明な壁の向こうで、項垂うなだれ、泣いているような男の姿を、見た。


逞しい肩が震え、膝で組み合わせた大きな手が白くなるほど力を入れて、ただ何かに耐えている。


知ってしまった温もりは、それを知らぬ時よりも尚、失えば辛かろう。


千鶴子は唇をんで、立ち尽くした。


あの人を閉じ込めているのは、私の妄執だ。

あの人の父親と同じ妄執なのだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る