第4章 出逢い



「こちらで墨絵の買わせて頂いて以来、あの竹林の夢に、わか……」



そこまで千鶴子ちづこは言って、頬を染めて口ごもった。


若い女の夢に、夜な夜な若い男が出てくるなんて、はしたない気がしたのだ。

それを察したのか、店主が優しく問いかけた。


「どなたかが出てこられるのですね」


ええ、と千鶴子は微かにうなずいた。


「男の方でございますね」

店主の言葉に、千鶴子はさらに耳まで染めて、それでもうなずいた。



 あの翌日の夜、千鶴子が館を訪れると男の姿は無かった。


思いの外、がっかりとした自分を持て余しながら、蓮池をぼんやりと見ていると、後ろから声がした。


「そんなにのぞき込んでおると、落ちるやも知れぬぞ」



驚いて振り返ると、少し離れた所に懐手ふところでにして立っている男は、可笑おかしそうに笑っていた。


日に焼けた顔に白い歯が光り、竹林に吹いていた風が、二人の間を吹き抜けていった。


千鶴子よりほんの少し年上に見える。

まるで公家貴族のような品のある顔立ちだが、目つきは鋭く、野性的な男臭さが匂い立つ。

体付きも筋肉質で、太もものあたりなど、弾力のありそうな筋肉が、丸々と着物の布越しに盛り上がって……


千鶴子はジロジロと舐めるように観察している自分に、ハッと気がついて、赤くなった。


(いやだ!なんてことかしら)


千鶴子が慌てて逃げようとすると、男は引き留めた。


「待て!いや、待ってくれぬか」


男の乾いた声に浮き出る哀愁に、千鶴子は足を止めた。



それが男と千鶴子の始まりだった。


「お主は尼か」

日を重ね、お互い慣れて話をするようになると、その男は千鶴子の肩の辺りでカールしている髪に触れた。


男が触れた所から、まるで火が付いたような気がした。


男は赤くなってうつむいた千鶴子の頬をじっと見つめて、優しくその柔らかな頬にかかる髪を耳にそっとかけてやった。



そう言ったその男は、月代さかやきを剃った侍のような格好をしている。


「左様か、知らぬ間に時がすぎて行っておるのじゃな」



二人並んで屋敷の縁側に座って、風が草を揺らすのを見た。


瓜実顔うりざねがおの鼻筋は通り、鋭い光を湛えている目元は涼しげで少し憂鬱ゆううつそうだ。

おかがたい気品とともに、傲慢ごうまんさが透けて見える顔立ちに、なんともいえぬ寂しそうな影が宿る。


「わしはここに一人でおるのじゃ」


うつむいた頬に黒いまつ毛が影を作る。


「一人で」


千鶴子は男の向こうに視線を向けた。


ただただ広いその屋敷は、ホコリ一つ無く几帳面に管理されていることがわかる。


「一人で?」


「ああ、そうじゃ、一人じゃ」


男は小さく笑って、自分の組んで膝に置いた手を見つめた。


節のたった大きな手には、日に焼けた肌に無数の怪我の痕が白く浮いている。


返した手のひらに、微かに小指の付け根の皮膚が厚くなっているのは、弓を引くせいだろうか。


(お侍さん……本物の)


千鶴子は困惑した気持ちでその男の手を見つめた。





 ある日、男が竹をり、器用に竹とんぼを作ってくれた。


子供のようにはしゃぎながら二人で飛ばした翌日、千鶴子が竹とんぼを探していると、男は昨日、った竹のところへ連れて行き指差した。


男が斬った筈の竹は、傷一つなくそこに生えていた。


「時が止まっておるのじゃ」



広く静かな時の止まった世界に、男はただ一人で存在している。


「この結界の中に封じ込められている」


男はわらった。


「どうして」

千鶴子は絶句した。

「いつから」


男のあきらめに満ちた笑顔が切なくて、たまらなくて……


自分の手が、男の体に触れようとしているのに気がついて……

まるで、手が勝手に男の体へ吸い寄せられて行きそうで……


「出口はないの?」


千鶴子は大急ぎで立ち上がり、男が「無駄じゃ」と止めるのを振り切って、殊更大急ぎで出口を探した。

男から、そして男に触れたいと願っている自分から逃れるために。


が、塀を越えれば足がついた時点でまた塀の中に戻っている。


竹林をまっすぐ歩いても気がつくと屋敷の前に戻っている。



「どうして?」


千鶴子は、男の顔を見上げて聞いた。


「出口はないの?」



「ある」

男は表の玄関を指差した。


「あそこの向こうに門がある。そこが出口じゃ」


屋敷の広い玄関の向こうには、開いた扉があり砂利の道が続いている。


その先に白い塗り壁に挟まれた大きな門が立っている。


「じゃあ……」



男は首を振った。



「わしの父がわしを封じ込めるために、その扉を赤く塗り、出られぬようにじゅをかけておる。

故にわしは浄土じょうどにも行けず、めっすることも叶わぬ」



そんな……千鶴子は震えた。


実の息子をこんな空間に未来永劫みらいえいごう、たった一人で、孤独の中に閉じ込めておくなど、信じがたいことだ。



「於千鶴殿が来てくれ、ほんにありがたい」


男は繰り返しそう言った。


気が狂うことも許されぬ、てついた孤独の果てにようよう出会った温もりだと、男は泣くようにささやいた。


思わず抱きしめた千鶴子の細い腕の中の男は、傲慢さの影が消え、まるで迷子になった幼い少年のようだった。


寂しげに啜り哭く男を胸に抱いて、千鶴子ただ優しく背中を撫で続けた。


「父はわしを疎んでおいでなのだろう。

現でも浄土でも会いたくないと思うておいでに違いない」


「そんな……そんなはずはないわ……」


「では、何故このようなところにわしは閉じ込められておるのじゃ!」


(ああ、夢が覚めなければいい。この人を一人にするのが辛い)




 「於千鶴殿が持っているその墨絵は、わしが最後に過ごした居室きょしつ襖絵ふすまえであろう。

それがよすがとなり、夢でなら渡れるほどに緩んだ結界の隙間すきまを通って参ったのではないか」



(自然に結界が緩むのなら、いつかこの封印も解けるのかしら)


ある日、千鶴子は、濡れ縁の隣に座る男を見上げて問うた。


「結界から出たら、あなたはどうなるの」


「分からぬ。できることなら浄土に渡りたいものじゃ」



男の切なそうな横顔が堪らず、千鶴子は男の手に自分の手を重ねた。

男の素肌の暖かく硬い感触が生々しく、はっとしてあわてて手を引いた。


すると男は千鶴子のその震える細い手を、大きな節のたった硬い手で包んだ。


「於千鶴殿、見よ」


千鶴子は男の視線に合わせて、目をあげて庭を見た。


「雨が降り出した。美しいの」

男の笑顔はやはり泣いているように見えた。


千鶴子の手を包む男の手は逞しく、現実のものではないとは思えなかった。




 「夢のことなのにおかしいですわよね」

千鶴子がそう言うと、店主は小首を傾げて微笑んだ。


そのどこか諦観ていかんまとった笑顔はあの人に似ていた。


「お名前を聞かれましたか」


「あ、いえ、そうなんです。いつも何故か聞き忘れて、でもまあ夢ですし……」


じゅでございましょうね」


「呪……」


千鶴子が繰り返すと、店主はステンドグラスから入り込む、絨毯じゅうたんの上の色とりどりの光に目を転じた。



「お父上様はお家の為に、その方を封じたのでございましょう。

しかしながら親として、例え死すとも我が子の幸福を願い、尚且なおかつ、本当は息子を失いたくは無いという強いお気持ちが残ったのでございましょう」



店主はまるで自分に言い聞かせるように、小さな声でそう言った。



「強い思いは神仏に通じ、成就すると申しますから」


「でも、あんな状態が幸福だなんて……」


強い口調で千鶴子が抗議すると、店主は微笑んだ。


「人の思う幸せと神仏の思う幸せは違うのでございましょうね」

「でも!」

千鶴子が身を乗り出すと、店主は首を振って話を変えた。


「若くして亡くなったお侍は多くおられますが、父親に魔として封じられた方はそんなにおらぬのではないでしょうか」


千鶴子が口を開いて声を発する前に、話を終える合図のようにカランとドアチャイムが鳴り、人影が店に入ってきた。


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