第3章 明けぐれの道

 


「あ!はあ、はあ」



目が覚めた千鶴子ちづこは、自分が本当に走ったように、息が切れているのが可笑おかしくて、肩で息をしながら笑った。


(ああ、おかしい……息が切れてるなんて!

いやだ、汗までかいて)



千鶴子は布団の上に起き上がると、カチリと枕元の電気をつけて、盆の上の水差しの水を飲んだ。


 まだ、冷んやりとした水が体の中に落ちて行き、体の中央で止まったそれは、弾けて小さな粒になってじんわりと染みとおり、体の隅々まで潤っていく。


「はぁ」


目を瞑ってその感覚を楽しんだ千鶴子は、ズルズルと体を動かして、机の足元に置いているバッグの中から、ガーゼのハンケチを取り出すと、水差しの水を少し垂らして汗を拭った。


改めて、ふうと息を吐くと、千鶴子はあの墨絵に目を向けた。


オレンジ色の小さな光の外れたあたりで、その絵は素知らぬ顔をして壁にかかっている。


何だかあの絵の中に、あの夢に出て来た人がて、こちらを見ている様な気がする。


まだ若い男の人に見えた。痩躯そうくでそんなに背の高くない。


そう、着物を着てた。


物凄く慌てたみたいに、こっちへ来ようとしてた。


もし、私が気がつくのが遅かったら、どうなったのだろう。




(今度あの夢で会ったら、あの人、また追いかけてくるかしら。

竹林の方まできたらどうしよう)


千鶴子は不安な反面、心の片隅がはずむ様な気持ちになった。


(あら、嫌だ。私ったら!)

はしたない自分に、千鶴子はまたクスクス笑った。


まだ暗く柔らかな闇は、昼の光とは違い、御伽噺おとぎばなしや夢の話を本当の事にしても、許してくれる寛容さがある。


まだ薄闇に包まれて、千鶴子は「うん」と背伸びした。

(夢の中で、あの人とお友達になったりして!)


現実に、知らない若い男の人と親しく友達になるなんて機会はまず無い。

血縁ではない同年代の男の人と親密にするだなんて、ふしだらだなどと後ろ指を指されてしまう。

特に聖職である教師を目指しているのだから、許されることではない。


 でも、姉の朱鷺子がまるで物語のように、幼馴染との恋を実らせたのは嬉しい反面、少しだけ羨ましい。


千鶴子の初恋は何しろその男だったのだから。


ただ、大きくなるにつれ、その男の優等生的な大人しさが千鶴子には物足りない気持ちになった。

勿論、幼馴染の視線は小さな頃から、朱鷺子を追いかけていたのは気がついていたし……。


結局は、千鶴子と義理兄になる男は縁が無かった訳で、朱鷺子がその男と結婚すること自体が羨ましいわけではない。


ただ、幸せそうに寄り添っている二人の姿が羨ましい。


(夢の中なら……)


まるで子供の時代のおてんばな自分に、久しぶりに会ったような気がした。


(そうなればいいのに)


千鶴子はもう一度まだ暖かい布団の中に潜り込んだ。


(もう一度、会っても良いかもしれないわ)




 

 空気が乾いている。



突き抜けたような青空が広がっている。


白い開襟かいきんシャツを着た学生が、下駄を鳴らして歩いて行く。


塀の影で小学生位のおかっぱの女の子が二人、手を繋いで内緒話にきょうじている。


買い物かごを下げた、着物に前掛け姿の女が、その子らに

「寄り道せずにお帰り」

と声をかけた。


 開け放した窓から聞こえてくるラヂオは


「大日本帝國の威信いしんたるや、今や知らぬものは無し」


人々をあおるように連呼れんこして、縁台えんだいに座った浴衣姿の年寄りの読む新聞には、喧々諤々けんけんがくがくと、日本を取り巻く世界情勢のこじれていく様子を、こ難しく且つ楽観的に分析し、一面をにぎわせている。



 この開戦直前の日本の日常は、そこだけ切り取られた様に、奇妙な無風地帯の明るさに包まれていた。



 カラン



ドアチャイムを鳴らし、つば広の帽子を脱いで、骨董屋の扉のところで立ち止まった。

外からの強い光が差し込んで、藤色の影が一足先に店の中に入っていった。


「あのう」


「はい、いらっしゃいませ」


「あのう……あの絵の事でお聞きしたいことが」



昔は広めのカウンターだったところに、止まり木のように丸くて背の高い椅子がポツンと一脚置いてある。


そこへ白地に青い花の散った流行はやりのワンピース姿の千鶴子を招き入れると、店主は湯を沸かし茶を勧めてくれた。


そして斜め前に自らも座ると、千鶴子に向かって微笑んだ。



「あの絵のことで何か」



千鶴子が口ごもっているのを見ると、店主は身を乗り出しささやいた。


「古い品は、時に不可解な事を引き起こすと申します。

あの墨絵も何かお嬢様と何か不思議なご縁があったのやもしれませんね」


「私と縁が」


はいと店主は頷いた。


その拍子に漆黒の髪が一筋スルリと落ちてきたのを、細い指で搔き上げると、店主は和綴わとじのメモ帳をめくった。



「あの品は大層古い品なのですが、実際にふすまとして使われたのはほんの数ヶ月の間だけで、その後、襖から外され大切に保管されていた物だそうにございます」


千鶴子は勢い込んで、身を乗り出した。


「それはどなたのお屋敷で、どういったご事情かお分かりになりますか」


そうですねえと、店主は首をひねった。

相変わらず重ねた着物姿なのに、暑さも感じていないような涼しげな様子だ。

汗ひとつかいていない顔に、薄い微笑みを浮かべて、こちらを見ている。


「そうですよねぇ」


千鶴子は目を落とし、手の中の煎茶せんちゃの入った湯呑みを見つめた。

手の中に入るほどのコロンとした形とあいまって、ほのかな暖かさが心を和ませる。


(結局は夢のことを問われても、困るだけよね)


 骨董屋独特の時の止まった空気は不思議な感覚で、現実から離れたような心地にさせてくれる。

静まり返った店内に、表通りを走る車のエンヂンやクラクションの音が響いてくる。


どこかのマダム達が、歌劇の感想を話しながら歩いていった。


「お嬢様は、竹林の夢を見られるとおっしゃられていましたが」


しばしの沈黙を破って、店主がものやわらかに問うた。


細く色の白い店主は男とも、女とも判別のつかない、あえていうなら紙に描いた人形のような薄い存在感でそこに座っている。


「いいえ。いえ、ええ、そうですの」


千鶴子は反射的に首を振った後、頷いた。

手の中の湯呑みの中で、ぬるくなりつつある茶が、揺られてくるりと縁を回った。



「本日、うかったのは、実は」

千鶴子は思い切った様に、店主に切り出した。

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