第6章 恋こそ寝られね

 野風は神社の砂利を踏みながら、出口へと向かっていた。


浮世のよどみしずめられた清らかな境内は、思いを集めて生きる付喪神の野風にとっても心地よい。


野風はため息をついた。


直生の見舞いは、哀れを誘い、心がすり減る思いがする。

生命の光がもう消えかけているのが、付喪神の野風にも分かる。

いや、消えかけているというよりも、消えていないのがおかしい程だ。

(誰を、何を待っているのか)


直生が何とか必死でこの世にその身を繋いでいるのは、「おまつ」という人物への思慕だろう。


(それにしても……)


直生は人であろうか。


於杏たちは人の子だろうと言っていたが……





生きるとは、他者の生命を喰らうことだ。

他者の命を喰らわずして、この世に生きるものは身を置いておけない。


その結果、この世に生きるものの命には、穢が生じる。

穢は気の淀みを作る。

淀みは熾を作る。

外に出るか、内に籠るか、正となるか邪となるか。


それは定かではないが、その熾こそ生くるものの証である。


その熾があの直生には希薄である。


確かに「おまつ」に対しての執着のような思いはあるが……


そうではなく


「もっと根本的な」


野風は呟くと空を見上げた。


白い光が眩く天にある。


ああ、あの透明な炎のような……

熾烈なあの光のような思い。


その眩さは物に向けられ、生命を吹き込む。

しかし、それが凝った命を持つ付喪神たちは、その熾を持つことはない。


だからこそ、その人の子の熾は付喪神を惹き付けてやまない。


かのものを魅了した熾は、恐ろしく黄金の太陽のようであった。


似た光が今日も天にある。


この空は、あの日の空と同じ空なのだろうか。


(知らぬ間にこんなところまできた)


ただ追いかけて。


(我が身は、人の子に近くなっているのだろうか)


人の子の思いを受けすぎて、人の子に近くなっているのだろうか。


だから、直生を人の子ではないと感じるのであろうか。



深い緑に囲まれ、神楽殿や茶室まで備えた大きな神社は、透き通った爽やかな風が吹いている。


(何とも清明せいめいな……)


野風は奥まった小さな池のほとりでしばらく目をつむり、澄んだ気に身を委ねた。


草臥くたびれた心が癒されていく。


池の水面みなもに風がたわむれ、さざなみを寄せていく。

寄せた漣に、陽の光が砕けてキラキラと光る。


身体の中に入り込んでいた、人の世のよどみが消えていく。


(疲れていたのか)


風の音に乗って聞こえる、参拝者たちのざわめきすら、静けさを演出しているように感じる。

それほど、境内には荘厳な空気が支配している。


強い神気がこの杜を護っている。


穏やかに強い意志を持って、この磁場を鎮めている。



久しぶりに精妙な気に満たされた野風は、おもむきを誘われ、懐から錦の袋を取り出した。

そこから、竹の一節を使って作った縦笛、いわゆる一節切ひとよぎりがあらわれた。


野風は、藤の蔓を巻き、うるしで塗られたそれを口に当てた。


渡る風に混じり、哀愁を帯びた深い笛の音が流れる。


境内を掃き清めていた神職も、参拝をしていた善男善女も手を止めて、その澄んだ風の音に耳を澄ませた。


「これは」

「なんと妙なる……」


「一体何処から」


風が渡る。


透徹とうてつし、つまた柔らかく人の心を慰撫いぶするような風が境内を渡っていく。


深い緑を織り成す木々が揺れる。

葉に落ちる光が揺れる。


池の淵に立つ、紅の花をつけた大木がはらはらと、その花びらを降らせはじめた。


清らかな音が、邪を払い、光を通し、拭き清めていく。


 ふっと気がつくと、木々の間に背の低い、色の黒い丸顔の男が立って、こちらを見ている。


野風は笛を口から離さず、目だけを動かして、男の方を伺った。


野風が気がついたことに気がついた男は、優しげな顔に笑顔を昇らせて、野風の方へ滑るように歩いてきた。


身分の高い神職か。


深い臙脂えんじの着物に烏帽子えぼしをつけている。


いや、大紋だいもん姿である。


漆黒の折烏帽子おりえぼしに、白く抜いた家紋が目に鮮やかな上下揃いの着物だ。

引き合わせた着物の胸元には、胸紐が胸下で結ばれ、揺れている。



(武家……か)


野風の胸に懐かしさが迫り、思わず笛から口を離した。


「おや……邪魔をし申した」


男は申し訳なさそうに笑った。


背の低い、がっしりとした体型の男で、色黒の下膨れ気味の丸顔に、少し目の離れた気のよさげな面立ちをしている。


高山流水こうざんりゅうすい

余りにも妙なるで、ついまかしてしもうた。許されよ」


貴公きこう何方いずかたらせられる」


野風がそう問いかけると、男は優しげな笑みを顔に昇らせたまま、スルスルと水面を移動するごとくに、野風の側に更に近付いてきた。


幽玄ゆうげんなるの前には、名なぞ何の意味が在ろうか。」


野風が黙って、じっと男を伺っていると、男は微笑みを深くした。


「さても一差し、舞わせ給え」



野風が笛に口をつけるのを見て、男は手にしていた白扇を開いた。


春の気持ちの良い昼下がりである。


三々五々、そぞろ歩いている参拝客も、不思議なことにこの一角に足を向けようとはしない。


まるでそこがこの世から切り離され、ある事にすら気が付かぬように、参拝客達は池に向かう小道から逸れて歩いていく。



「来し方よりぃ」


開いた扇を体の前に捧げた男は、深みのある見事な声でうたい始めた。


白い玉砂利の上を、男は滑るように進む。


「今のぉ世までもぉ たえせぬものはぁ」


音もなくスルスルと前に進み、扇を返し、傾げた顔の前に掲げる。


「恋ともいへるぅ 曲者くせもの


たんと足拍子を踏む。

するとその足下から風が生まれいづり、ふわりと吹き上がった。


それに連れて、地に落ちていた花が、巻き上がり舞う。


風をはらふくらんだ袖のすそに結ばれた、紐の露が揺れる。


「げに恋は〜っ」


男はまた扇を返し、野風に背を向ける。


「曲者かなぁ」


はさり


扇が返る。


舞う花びらの中、男の姿が武家の大紋姿から、公家の衣冠いかん姿に変わって行く。


風を孕む袖が、ほうの大きなそれに変わり、烏帽子がかんむりに変わる。


「身は」


男が起こす風が野風の笛の音と交わり、精妙に空気を清めていく。


そして、踊る男は衣装のみならず、その風貌ふうぼうまで変幻へんげせはじめた。


今や、小柄な日に焼け、気の良さげな丸顔の武家の男は、背が高い公家の白皙の貴公子にその姿を変えた。


白磁のような肌の切れ長の目元のあたりに気品と上品な色気が漂っている。


袍の藍の色味の強い紫の深い色目と、白い指貫さしぬきが、彼の立場と歳を示している。

若く見えるその男だが、紫の袍は只ならぬ身分、その鳳凰ほうおうの地紋の浮く輝かんばかりの白は、その身が老境に至っている事を物語る。



たん、たん


その白い指貫の足で足拍子を踏む。




風に乗る紅の花びらが、流れる水を染めるがごとく、宙を舞い染める。


「さらさらさら」


今や、完全に衣冠姿に変わった男の姿に、巻き上がる花びらが降り始めた。


花の御簾みすが、するすると降りて行く。


その降りて行く花びらの御簾の向こうで、深い男の声が続く。


「さらさらさら さらにぃ」


花びらは男の姿を隠しながら地に舞落ち、地に触れる瞬間に、ふわりと素気そっけ無い女の変わり身のように身をひるがえし、また風に吹かれて舞い上がって行く。


薄紅に染まった野風の視界の向こうで、次第に男の声が遠ざかる。


「恋こそぉ」


溜め息のような一音が薄紅を散らす。


「……寝られね」


野風の笛が最後の一声を放った瞬間


ストン


宙を舞っていた花びらが地に墜ちた。



影向ようごう(神仏の仮の姿)か...」


誰も居ない空間に向かい、野風は呟いた。


あれだけ舞い落ちたはずの紅の花びらも、あの男と共に姿を消し、ただ池の水面に映り風に揺らぐだけだった。





‥‥うたい、解説‥‥

恋こそ曲者 閑吟集 (「花月」伝 世阿弥作)


越し片より 今の世まで 絶えせぬものは 恋と言へる曲者

げに恋は曲者 曲者かな

身はさらさらさら さらさらさら 更に 恋こそ寝られね



はるかいにしえより 今の世まで 絶えないものは

恋(孤悲)とい曲者(油断ならぬもの・妖し)です。

本当に恋(孤悲)は曲者

この身は  恋(孤悲)のために寝られません


昔から 今宵の私のように 恋する身が独り寝するのは辛いものだ。

恋する私はたった独り 妖しくあの人へ思いに翻弄されている。

この私は 独り寝の為に 恋心が苦しくて 眠れない

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