第5章 想へば露乃身
夜がふけると、店主は
もう春とはいえ、日が落ちると空気は冷たく冷え、うっかり昼間の服のままに出歩くと、身が凍えそうになる。
二人組の酔客が、肩を組んで歌いながら、千鳥足で歩いて行き、その背中を犬の声が追いかけた。
犬の声が「ぉぉぉぉん」と痕を引いて闇に消えていくと、後は先程よりも深い
ポツン、ポツンと点いていた灯りが消えていく。
その後は、ただもう人の子の影もない、昔ながらの暗闇だった。
「ここにございますのか」
表通りに面した大きな料理店の裏手の、そこで働く者の為の古い小さな長屋の横手である。
店主は店の方を振り返った。
大きな繁盛していそうな立派な店構えである。
店の中までは見えないが、塀一つとっても、竹を並べた垣の上には、飾りの鳥を彫った木格子があり、それは中々に手の込んだものである。
こんな店には一体や二体、繋ぎの取れそうな付喪神が宿る品がいそうなものだ。
店主の表情に
「店の方には、付喪神は居らぬ。
ここに住んでおる飯炊きの女の
小柄は細い首を振った。
闇の中でも僅かな光を集めて光る、黒い髪の揺れに誘われ、まるで冬の
「左様にございますか」
店主は、人の子の繰り返す栄枯盛衰をそこに見て、憐憫を声にのせた。
二人は
青い闇を透かしながら
「
小柄が小さく空気を震わせて呼ぶと、寝息を立てている女の向こうの色のはげた
「はい、ご主人と奥様が亡くなりましてね。
いえ、商いは別段困りはしませんよ。
店には常連が付いておりますし、代々仕えている料理人がおりますもの。
若旦那もそりゃあ、よう励んでおいででね。
ただ、相手がねぇ、悪くって。銭にするのに皆、売り払われてしまいました」
紅の
古ぼけてはいるが大切にされているのだろう、顔色も良く、下ろして後ろで結んだ髪も
「ご夫婦でお参りに行かれた帰りであったそうですよ。
見ていた者の話では、奥様が坂でお
それを拾おうとされた所に大八車が。
奥様を旦那様が助けようとして、諸共。
ええ。
大八車の方も横転しまして積荷がダメになりましたし、人足は車屋から解雇されたそうですよ」
「その大八車の車屋らが、難癖を付けておるのか」
小柄は声をひそめて聞いた。
擦り切れた畳の部屋の隅で、付喪神たちが話をしている。
生まれたばかりの月の光が障子越しに射し込んで、闇の中に店主と小柄の真珠のように光る顔が浮かんでいる。
「いえ、昔からこういうのは、内々に手を打つと相場が決まっておりましょう。
やった方は
だから店と車屋とはお手打ちで済んだんです。
ところが暫く経った頃、辞めさせられた人足が来やがりましてね。」
「文句を言いにきたのか」
いえと簪は首を振った。
「最初っからそんな塩梅だったら、流石にねぇ。
残飯で良いから恵んでくれって来たんですよ。
若旦那も人が良いもんですから、気の毒に思ったんです。」
簪は肩を丸め、擦り切れた畳の目をゆっくり撫でながら続けた。
疲れたような諦観が口調に現れている。
簪なりに気を揉んで、揉んで、何も出来ない自分に腹を立てて、それにもすっかり疲れてしまったのだろう。
「最初にちょっと包んで渡したのが悪かったんでしょう。
甘く見られましてね。
最近じゃあ、この店の料理には毒が入っていると言い触らすとか、仲間を連れてきて暴れるとか脅すんでございますよ。
これが最後、これが最後と言いながら、ズルズル銭を引き出して。
全く相手が悪うございます」
簪は赤くなった鼻をずずっと
「
店主がそう聞くと
「ええ、とても良いお人ですよ。この婆ぁ」
簪は持ち主の女の事をそう呼んで、顎をちょいとしゃくって見せた。
その女は、昼間の仕事の疲れか、軽い鼾をかきながらぐっすりと眠っている。
「婆ぁにも親切にしてくれておいででね。
全くいいお嬢さんですよ。
それをねぇ、あの中村の
あの分じゃあ、骨の
「なるほど、それで切羽詰まって、神社に預けた片割れの守り刀まで、売り払おうと言う事になったのでございますね」
「ええ、きりが無い話ですのにね。
余りの事に冷静に考えられなくなっておられるのでしょうねぇ……」
簪は声を殺して啜り泣きはじめた。
「そろそろ、悪い噂が立ち始めているそうですよ。
この店ももう長くはございますまい。
うちの婆ぁはもう年老いておりますから、次のおまんまの宛が見つかりますやら……」
店主と小柄は目を合わせて頷き合った。
「この様に良くならぬものなのか」
一向に良くなる様子に無い
「何ぞかの
小太りのぽてりと腹の出た
人の子の事は分かりかねる……とも言えず、野風は「まさか」と短く応えた。
最初の頃こそ背筋を伸ばし
隣に座っている男が、よもや人の子ではないと気付かずに、白い着物に、
「ほんにようなりませんでなぁ、宮司も心配しているんです」
布団から差し出された直生の細く熱い手は、野風の手をしっかりと掴み、それが緩む度に慌てて、薄く目を開けて、野風の姿を確認する。
「おまつど の」
微かに乾いた唇で音を形作り、人を呼ぶ。
「直生の
問わず語りを始めた禰宜はそう言って、直生の額に
「双子と申しましても、あちら様とは大違い。
直生は生まれつき小さく弱々しい子で、長くは生きられまいと思われていました。
しかし、人の浅知恵とはよく言ったもので、直生は病一つせず、すくすくと育ちましたよ。
名前通り、素直で良い子にございましてねぇ」
四十を過ぎた年頃の禰宜の目は慈しむように、熱に
「付かぬ事を聞くが」
野風は膝を回して禰宜に向き直った。
「直生殿の母御のご実家は、
いわゆる戦国時代、
野風の問いに、禰宜は少し頭を傾げ、記憶の
「左様です。お武家であったと聞きました」
「名は分かるか」
「はい、それは。
「では、直生殿の守り刀は、元は永見殿の
野風が聞くと、禰宜は頷いた。
「左様であると伝え聞いております」
「では、
「太刀は……」
鋭く野風の瞳が光った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます