螺鈿の硯箱

第1章 その日




  その日、帝都ていとが揺れた。




 おぞましき鬼神がその地に降り立ち、禍々まがまがしき叫び声をとどろかせながら、足を踏み鳴らした。


 猛々たけだけしき龍神が咆哮ほうこうし大海を震わせ、まさに天に昇るが如く、高く高く水柱を立ち昇らせ、帝都に水飛沫みずしぶきを浴びせかけた。


その偉神力いじんりきの前では、人の子の浅知恵は、シャボンの玉の如くにはかなく、また矮小わいしょうな人の手による造形物は、もろくも崩れ落ち、その姿を地に留める事は難しかった。



 地にしがみ付く者々を恐怖と絶望へ叩き落とし、その地に満ちる衝撃と絶望は、時をさかのぼり薄闇の世界に亀裂を生じさせた。





 


 まさに夢路より家へ、その安寧あんねいたる蒲団ふとんへと辿たどっていた六つか七つばかりの少女が、その途中で目覚めた。


気がつくと、薄ぼんやりとした霧の中にいることに気がついた少女は、いつも自分の世話をしてくれる女を探した。


鈴里すずり於鈴おすず


すると於鈴が向こうから走って来た。


「於鈴!」


少女が起き上がって、手を差し伸べると、於鈴が抱き上げてくれた。


「於鈴、ここはどこ?」


於鈴は少女の声が聞こえないのか、少女を抱きかかえたまま走り出した。


(あ、あ、これは夢の続きなのだ)


少女は目をつむり、於鈴の白い首に手を回し、その小さく暖かな体をゆだねた。

しばらくすると揺れが止まり、突如、少女は下へ降ろされた。



そして



「助けて!助けて!」


於鈴が叫びだした。


少女は驚いて於鈴を見た。


それは少女の世話をしてくれる侍女ではなく、ひどく美しい若い女だった。


輝くような黒髪は見た事がない洒落た形に結い上げられ、絵でしか見た事がない、手のこんだレースのついた美しい象牙色のドレスを着ていた。


その女が髪を振り乱して叫んでいる。


女が必死でかき分けるようにしているその霧は、奥から射す光で、毒々しく紅に染まっている。


人の争う声や金属の触れ合う無機質の冷たい音が聞こえる。


煙の焦げ臭い匂いがこちらまで漂い、ほのかに不吉な熱を伝えてくる。


ここは、お父様が言われていた、外地がいちの戦さ場なのだろうか。

少女は呆然と立ち尽くした。


怖いという感情すら、湧かない。


ただ呆然と、お芝居を見るように、美しい女が叫びながら、霧を掻き分けるのを見つめていた。


 突然、横手の白い霧の中から、紅の紐でまげを結んだ凛々しい男が現れ、十文字の槍を振り回した。

すると、その毒々しく照らされた霧に、稲妻いなづまのような閃光が走った。


光の中から、突如、黒い人影が現れた。


その男は一瞬驚きを顔に乗せたが、直ぐに浅黒く焦げ臭い匂いのする霧の中から走り出て、少女の横を真っ直ぐに走り去ろうとした。


「ダメ!そっちに行っては」


少女は光の中から出てきた男に叫んだ。


どうしてだか、わからない。

ただ、知っていた。


そっちでは無い。


その人がそっちに行ってはいけない事は、お天道様が山の方から昇り、海に沈んで行くのと同じくらい、確かな事だった。


「こっちよ!」


少女は男の大きな手を取った。


白い着物を着た男は、一瞬、戸惑った顔をしたが、少女が唇を引き締めて頷くのを見て、頬を緩めた。


白くなっていく視界の中で、「兵隊さん」は少女の手を握りしめた。

 

 「大丈夫!私を信じて」


少女には、不思議なことに、どうしたら良いのか、まるで教科書に書いてあるようにはっきりと分かっていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る