第2章 花嫁道具
曇った窓から差し込む光は柔らかく淀んで、店の中の空気を重くし、時がそこだけ止まっているような不思議な感じがした。
間口が狭く奥行の深い、古い町屋を西洋風に手を入れた、中途半端な作りが、その坂の途中にある骨董屋によく似合っている。
「本当にここで選ぶのか。普通に買えば良いんだよ」
自分を気遣う父の声に
まだ女学生の亜久里は、着物に深い海老茶の
柔らかな光を浴びて、
「いいえ、お父様。亜久里はこういう古い物も大好きなの」
「しかし秋田殿がなんとおっしゃられるか」
体一つで来てもらえれば良いと婚約者の秋田から言われたものの、身の回りのものを一つも持たさずに嫁に出すわけにもいかない。
かと言って、こうした工芸品にも
亜久里の母や祖母が自分の嫁入り道具や、まだ売っていなかった
「本当にこんな店ではなく……」
父のため息の混じった声に、亜久里は優しく父の
「お父様、本当にこういうのが良いの」
いくつか保存の良い美しい品を選ぶと、男は店の者を呼んだ。
すると人の気配がなかった店の奥の薄闇の中から、背のヒョロ高い人影がまるで時間の壁をすり抜けるように現れた。
のっぺりとした顔は、
一瞬、男は身を
「これを」
その男に命じた。
亜久里も父同様、薄暗い
「あら」
亜久里は、整然と並べられている文箱や
それは
先ほどこの棚を見た時になぜ気づかなかったのか……
亜久里は不思議に思いながら、箱に顔を近づけた。
手間をかけて作られたことが一目で分かる大層美しく、螺鈿のかけも一つとしていない素晴らしい一品だった。
亜久里は中の
「そちらのお品、お気に召されましてございますか。」
思いがけず、近くで店主の声がして、亜久里は慌てて出していた手を引っ込めた。
はしたないところを見られた気がして、亜久里が赤面して、言葉も出せずただ
真っ白で血管一つとして浮き出ていない、陶磁器そのもののような滑らかな手に収まった箱は、更に黒々と艶やかに輝いて見える。
「これは
「ほう」
男が感心したように声をあげた。
「なかなかに
「いいえ」
店主は白い顔に、そこだけ色があるような
「これは
元禄物に比べ、桃山物は更に贅沢で躍動感に溢れてございましょう。
これは当時、南蛮貿易の為に作られた
男の視線は娘とその箱に
亜久里は熱っぽい視線をその箱に注いでおり、珍しく欲しくてたまらない様子だった。
確かにその箱の造作は見事で、
しかし……
男はそっと自分の懐に手を当てた。
この店で先ほど支払った金額は、確かに物からすれば安いが、今の男にとっては大きな買い物であった。
そして他にもまだ揃えてやりたい物も、持たせなければならない物もある。
とてもでは無いが、買ってやろうとは言えない。
しかし……
亜久里は三人姉妹の長女で、とても我慢の良い娘だった。
いつも妹達に譲ってばかりで、欲しいものも欲しいと言わない。
この度の縁談も、家の為、妹達の為と素直に受けてくれた。
が、しかし……
男と亜久里の様子をじっと見ていた店主は、浮かべていた笑みを更に深くすると、亜久里に向かって優しく声をかけた。
「お嬢様はこの箱を、大層お気に召されたご様子にございますね」
そう切り出された亜久里は、赤くなった顔をさらに赤らめた。
お腹が減って食べたくて仕方がないのを見透かされたような、恥ずかしく居た
「この品をお譲り下さいました方が」
店主はそう元の持ち主のことを呼んだ。
のっぺりとした白い顔は、見ているときには「ああこういう顔なのだな」と思うのだが、視線を外した途端、どうしてだか思い出せない、不可解な
「この品をもし、とてもお気に召したお若いお嬢様がおられたら、差し上げて欲しいと申されまして」
「え」
亜久里と男は驚いて、店主の顔を見た。
店主は無表情にさえ見える笑顔を、父娘に向けたままで頷いた。
「もしお嬢様さえ良ければ、私からのお祝いの品ということで、お
「そんな」
亜久里は
男も「そんな気味の悪い
「この様に素晴らしい品でありますのに、なかなか売れません。
もしか致しますれば、この様に職人が精魂込めて作りました品故に、品が持ち主を選んでいるのやもしれません」
店主はそっと、白く細長い指でその箱を
するとその黒い箱は、まるで返事をするように、その輝きを更に深くした風に見えて、亜久里の心を妖しくも尚、惹きつけた。
「もし、お嬢様がお納め下さらねば、この品はここで売れぬまま、朽ち果てて行くのやもしれません」
男はますます薄気味悪く思ったが、亜久里はハッとした顔をして、店主が持っている箱を見た。
「それは、それは余りにも可哀想です」
店主は薄い笑いを浮かべて、亜久里を見つめた。
「左様にございましょう。
この様な所で朽ち果ててはこの箱が哀れにございます」
店主はにっこりと微笑んだ。
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