第2章 花嫁道具

 曇った窓から差し込む光は柔らかく淀んで、店の中の空気を重くし、時がそこだけ止まっているような不思議な感じがした。



 間口が狭く奥行の深い、古い町屋を西洋風に手を入れた、中途半端な作りが、その坂の途中にある骨董屋によく似合っている。


「本当にここで選ぶのか。普通に買えば良いんだよ」


自分を気遣う父の声に亜久里あぐりは微笑んだ。


 まだ女学生の亜久里は、着物に深い海老茶の女袴おんなばかまを着け、髪に大きなリネンのリボンを結んでいる。

清楚せいそな横顔の頬にはまだ幼さが残り、嫁に出すのが躊躇ちゅうちょされる。


柔らかな光を浴びて、水蜜桃すいみつとうのような娘の頬の産毛うぶげが金色に光るのを、男は胸の痛みを感じながら眺めた。


「いいえ、お父様。亜久里はこういう古い物も大好きなの」


「しかし秋田殿がなんとおっしゃられるか」


 体一つで来てもらえれば良いと婚約者の秋田から言われたものの、身の回りのものを一つも持たさずに嫁に出すわけにもいかない。


かと言って、こうした工芸品にも造詣ぞうけいが深い秋田が満足する、贅沢な物を持たせてやれるほどの身代しんだいは、第一次大戦後、重工業に転換できなかった亜久里の家にはもはや無い。


 亜久里の母や祖母が自分の嫁入り道具や、まだ売っていなかった舶来品はくらいひんの装身具を、修理したり、仕立て直したりして、亜久里が恥ずかしく無いよう、何とか体裁ていさいを整えるために奮闘している。


「本当にこんな店ではなく……」


父のため息の混じった声に、亜久里は優しく父のかいなに柔らかそうな小さい手を添えた。


「お父様、本当にこういうのが良いの」


 いくつか保存の良い美しい品を選ぶと、男は店の者を呼んだ。


 すると人の気配がなかった店の奥の薄闇の中から、背のヒョロ高い人影がまるで時間の壁をすり抜けるように現れた。

のっぺりとした顔は、カラスの濡れ羽色の黒々とした髪と対比してか、色白と言うには血の気が全く無く、不健康という訳ではないのだが、どこか不気味な感じがする。


一瞬、男は身を強張こわばらせたが、直ぐに人に命ずるのが慣れた者特有の物腰で


「これを」


その男に命じた。


亜久里も父同様、薄暗い狭間はざまから湧いたように現れた店主に驚いたが、父と店主がやり取りを始めると、また骨董品の並べられた棚へ目を向けた。


「あら」


亜久里は、整然と並べられている文箱や硯箱すずりばこの間においてある一つの箱へ吸い寄せられた。


それはうるしを重ねて塗った深くつややかな黒の地に、金と銀の精緻せいちな筆と、青貝の内側の真珠色の螺鈿らでんをくり抜いて葡萄唐草紋様ぶどうからくさもんようを描き出した箱だった。


先ほどこの棚を見た時になぜ気づかなかったのか……

亜久里は不思議に思いながら、箱に顔を近づけた。

手間をかけて作られたことが一目で分かる大層美しく、螺鈿のかけも一つとしていない素晴らしい一品だった。


亜久里は中の造作つくりも見たくなって、箱のふたを取ろうとした。



「そちらのお品、お気に召されましてございますか。」


思いがけず、近くで店主の声がして、亜久里は慌てて出していた手を引っ込めた。


はしたないところを見られた気がして、亜久里が赤面して、言葉も出せずただうなずくのを見ると、店主はその箱を奇妙なほど細長い手で、大切そうにそっと持ち上げた。


真っ白で血管一つとして浮き出ていない、陶磁器そのもののような滑らかな手に収まった箱は、更に黒々と艶やかに輝いて見える。


「これは大名道具だいみょうどうぐにございます。お嬢様は目利めききでおられますね」


「ほう」

男が感心したように声をあげた。


「なかなかにぜいらした華やかな作りだ。元禄物げんろくものなの」


「いいえ」


店主は白い顔に、そこだけ色があるような薄紅うすくれないの唇でニッと笑みの形を作った。


「これは桃山物ももやまものにございます。

元禄物に比べ、桃山物は更に贅沢で躍動感に溢れてございましょう。

これは当時、南蛮貿易の為に作られた一連いちれんの品にございます」


男の視線は娘とその箱に彷徨さまよった。

亜久里は熱っぽい視線をその箱に注いでおり、珍しく欲しくてたまらない様子だった。


確かにその箱の造作は見事で、好事家こうずかが見れば直ぐに大枚をはたいてでも手に入れるだろう。


しかし……


男はそっと自分の懐に手を当てた。


この店で先ほど支払った金額は、確かに物からすれば安いが、今の男にとっては大きな買い物であった。

そして他にもまだ揃えてやりたい物も、持たせなければならない物もある。

とてもでは無いが、買ってやろうとは言えない。


しかし……


亜久里は三人姉妹の長女で、とても我慢の良い娘だった。

いつも妹達に譲ってばかりで、欲しいものも欲しいと言わない。

この度の縁談も、家の為、妹達の為と素直に受けてくれた。


が、しかし……





男と亜久里の様子をじっと見ていた店主は、浮かべていた笑みを更に深くすると、亜久里に向かって優しく声をかけた。



「お嬢様はこの箱を、大層お気に召されたご様子にございますね」


そう切り出された亜久里は、赤くなった顔をさらに赤らめた。


お腹が減って食べたくて仕方がないのを見透かされたような、恥ずかしく居たたたまれない心持ちになり、助けを求めて父の袖に手を伸ばした。


「この品をお譲り下さいました方が」


店主はそう元の持ち主のことを呼んだ。


のっぺりとした白い顔は、見ているときには「ああこういう顔なのだな」と思うのだが、視線を外した途端、どうしてだか思い出せない、不可解な面立おもだちをしていた。



「この品をもし、とてもお気に召したお若いお嬢様がおられたら、差し上げて欲しいと申されまして」


「え」


亜久里と男は驚いて、店主の顔を見た。

店主は無表情にさえ見える笑顔を、父娘に向けたままで頷いた。


「もしお嬢様さえ良ければ、私からのお祝いの品ということで、おおさめいただけますでしょうか」


「そんな」


亜久里は戸惑とまどって、父と店主とその箱とに視線を忙しく動かした。


男も「そんな気味の悪いほどこしは受けない」という押し返したい気持ちと、「亜久里に持たせてやりたい」という気持ちが入り乱れて、困惑して目を逸らした。



「この様に素晴らしい品でありますのに、なかなか売れません。

もしか致しますれば、この様に職人が精魂込めて作りました品故に、品が持ち主を選んでいるのやもしれません」


店主はそっと、白く細長い指でその箱をいとおしげに撫でた。


するとその黒い箱は、まるで返事をするように、その輝きを更に深くした風に見えて、亜久里の心を妖しくも尚、惹きつけた。



「もし、お嬢様がお納め下さらねば、この品はここで売れぬまま、朽ち果てて行くのやもしれません」



男はますます薄気味悪く思ったが、亜久里はハッとした顔をして、店主が持っている箱を見た。


「それは、それは余りにも可哀想です」


店主は薄い笑いを浮かべて、亜久里を見つめた。



「左様にございましょう。

この様な所で朽ち果ててはこの箱が哀れにございます」




店主はにっこりと微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る