第3章 凪

 

 あれから佐伯は、自らの決めた『将棋の時間』が来るのを待ちかねるようになった。

いよいよその時間になると、いそいそと将棋盤の前に座る。



「さて、さて、時間だ」



棚の上のランプで湯を沸かし、紅茶を淹れると窓際のつくえに運び、台所から持ってきた牛乳をクルリと垂らし込む。

それをススッと音をたてず、すすり込むと、しりしりと乾いた音を立て、手をり合わせる。


「さて、と」


柔らかな子羊の皮の上に置いた目器を目に当てる。


すると昨日まで無かった将棋盤のどこかの升目ますめに、白く半透明な駒が置いてある。


「そう来たか……」


佐伯は呟くと、頭をひねって次の一手を考える。


「よし」


パチン


音を立てて駒を置くと


相手はすぐさま手を打ってくる事もあれば、しばらくなんの動きもない時もある。


そんな時には、佐伯は本を広げてノンビリと相手が考えあぐねているのを楽しむ。


「ほう、ほう。そう来ましたか」


よしよしと、ほくそ笑む時もあれば


「やや!」


頭を抱える時もある。



『将棋の時間』が終わると、


「それでは、本日はここまで」


頭を下げて席を立つのだった。




更に夜が更けてくると、佐伯は居室の奥にある寝室に向かう。



そして、その日にあったことを分厚い日記帳に書き記しながら、葡萄地酒ブランデーを垂らした温めた牛乳を飲む。


「本日モ目器めきノ相手ト将棋ヲバきょうズル也」


そこまで書いて、ふっと佐伯は目をあげた。



 最初はあの男が、自分を置いて逝ってしまった友が、将棋盤の向こうに座っている相手だと思っていた。

命のやり取りをする戦さ場には、そして大いなる海には不思議なことが満ちている。


肉体を脱ぎ捨てた魂が、遺される戦友に心を残してこの世を去りかね、不思議を起こすなど、珍しくない。


(さてはあの馬鹿者が、俺との将棋が心残りで、冥土の土産に最後の一局を済ませてから成仏するつもりか。)


しかし、局面が進むに連れ、打つ手の癖というのか、思考の手触りというのか、それがあの男のそれでは無い気がして来た。



(誰なのか)



肝の据わった相当の人物なのは察せられる。


佐伯に押されてよもやという局面でも、落ち着いて耐え忍び、ジワリ、ジワリと盛り返して来る。

かと思えば、あっというような思い切った奇策を打ってでる。



(軍ならば、中将は固いか)


佐伯は、見えない相手にアレコレ思考をめぐらせ、頬を緩めた。

相手を推し量り考えるのもまた楽しい。


この歳になるとなかなか新しい知り合いなど出来なくなる。


(さても、さても奇縁きえんな事だ)


 そんな佐伯の『将棋の時間』は、ついつい、どんどんと増えていき、骨董屋への足がすっかりと遠のいてしまった。



そんなある日のことである。




 「お邪魔致します」


 佐伯の屋敷の通いのお手伝いの女が、門の鉄扉を開くと、丁寧に腰を折って細身の背の高い人影がスルリと入ってきた。

濃鼠の歩くたびに見える裾の下前には友禅染めで波に散る櫻の文様が描かれ、はぐれる裏模様に山吹を配している。

洒落た出で立ちである。



「そのまま、草履を脱がずにお入りくださいね。うちの旦那は元海軍さんだもんで、万事あちら方式でね」


お仕着せの黒のドレスに白のエプロンをつけた、人の良さげな中年女が楽しそうな口ぶりでそう言いながら、玄関前の庭を通り抜け、屋敷の扉を開け、店主を客間に通した。



「政府も西洋化を推奨すいしょうされておりますしね」


店主の言葉に、女は自分のドレスのスカートを、丸々とした指でちょっと持ち上げて見せた。


「政府のおかげで、私もこんな具合で」


「西洋のお召し(ドレス)がようお似合いにございますよ」


「あら、まあ」


店主が褒めると、まんざらでもない顔をした女は、頭を下げて佐伯を呼びに客間を出て行った。


 クリーム色の地に黄色い太い縦線の入った壁紙の所々に、銀製の燭台しょくだいがかかり、頭の上にはシャンデリアが吊るされている。

長四角の窓にはどっしりとした濃紺のカーテンが留めてあり、レースのカーテンが爽やかな風に揺れている。


暖炉の上には船の模型や写真が飾られ、壁にかかっている絵も、海の風景である。



 「お待たせしました」


珍しく和装姿の佐伯が、一礼をして店主の向かい側に腰をおろした。


「これは、これは店主殿、最近はご無沙汰してしまって」


「いえいえ、朝の散歩ではお姿をお見かけしておりますが、なかなかお話しする機会もなく、寂しく思いまして……

勝手に厚かましく押しかけ、申し訳ございません」


そう店主が挨拶をすると、佐伯は照れた顔をした。

前に比べて、顔色も良く若やいだ様子である。



「この歳になると、気にかけてくださる方がいるのはありがたい事ですな。

それにつけても勝先生が」


佐伯は、暖炉の船の写真を振り返った。


「長崎伝習所におられる時分、ペルスライケン大尉に兎角とにかく第一に、海上の者は陸上の者より、規律に厳しくしなくてはいけないと教えられたと言われていました。

恩師の教えを守らねばと、それを心がけておりましたが、ついつい元来の怠け者が顔を出し、店主殿にはご心配おかけしました」


佐伯は恥ずかしげにそういうと、店主に頭を下げた。



 歓談の後、店主は佐伯の屋敷を後にした。


玄関の外まで見送ってくれている佐伯に深く腰をおると、英国庭園風の庭に敷かれた石畳の道を歩いて門へ向かう。


すると先ほどの女が、門を閉めにやって来た。


「昨今はまた物騒なんでね、いちいち閉めないといけなくって」


「左様にございますね。

佐伯様は軍の関係の方なので、特にご心配で御座いますね」


店主が気の毒そうに言うと、女は張りのある陽気な顔をしかめて頷いた。


文人があおった明治天皇暗殺計画、いわゆる「大逆事件」のあおりで、文人と武人の間に隙間風が吹いている。


文人の背後には熱狂的な支持者がいて、いつ矛先が向かぬものか知れたものではない。


「うちの旦那は、清廉潔白な御仁おひとで、後ろ暗いとこなんて何一つ、ありゃあしません。

でも一人暮らしなので心配でしてねぇ」


「左様にございますね。

そうだ。もし何か旦那様に変わったことがあれば、こちらにご連絡を頂けませぬか?」


店主は懐から、和紙に屋号の書いてある名刺を取り出し、女にそっと手渡した。



「例えば、風邪をひいたとか小さなことでも構いません。

是非ともお知らせくださいませ」






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