知音の目器

第1章 老紳士

「お邪魔しても宜しゅうございますかな」


 骨董屋の扉を開けて入って来たのは、立ち姿の美しい矍鑠かくしゃくとした老紳士である。


ハイカラーのシャツに、フランネルの濃い紺の縞のスーツを着て、被っていた中折れ帽を胸に持ち、腕にはつやの出た黒柿のステッキを掛けている。


振り返った店主は、にっこり微笑んで体を横に向けて、奥の方にある帳場へいざなった。


 「いつもこんな年寄りに付き合わせてしまって、申し訳ありませんな」


 店主が、茶を帳場の机の上に置くと、背を伸ばしたまま、軽く頭を下げて手に取った。


「ああ、上手い。店主殿のれてくださるお茶は、五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡るようですよ」


「お気に召しまして、よろしゅうございました」


しみじみとそう言う男に、店主はにこりと微笑んだ。





 それは、一ヶ月も前の話になるだろうか……


 石畳の続く通りに面して、大きな硝子窓のショーウインドウと木の扉という、お仕着せの同じ作りの西洋風店舗が並んでいる。


朝、店主がその店の前をいていると、決まってステッキに帽子、ハイカラーにスーツという定番の紳士姿しんしスタイルで散歩をする立派な男性がいる事に気がついた。


歳の頃は五十ばかりで、姿勢の良さや無駄のない痩躯そうく双眸そうぼうの強い光から軍人だと察した。


何となく挨拶をするようになり、それが当たり前の風景になった頃、男性に会わない日が続いた。



 散歩の道順を変えたのかと思っていたら、ある朝、またその男性が店の前を通った。


しかし、いつもは背筋を伸ばし、大股の早足で、散歩というより、行進しているような男が、どことなく覚束おぼつない風情で歩いていく。


見れば、普段は鋭い眼光も、弱って生気が感じられず、端っこをピンとねじりあげているひげもしんなりとして、めっきり老け込んでしまっている。


「あのう」

店主は思わず、声をかけた。


「よろしかったら、その……」


立ち止まった紳士は、少し驚いたように背を伸ばして藤色の小袖姿の店主に向き直った。


「あの、お茶でもいかがにございますか」


その時は、


「これは……」


突然声を掛けられ目を丸くした紳士は、心なしか頬を赤らめ


「日課の散歩の途中でございますので」


と丁寧に断ったが、昼過ぎに恥ずかしそうな顔で、手土産を持って店に来た。





 「海軍所の同期の一番の悪友が亡くなりましてね」


寂しそうな顔で佐伯と名乗った男は言った。


長身の店主よりもさらに一回り大きな立派な体つきだったが、ここ数日でしぼむように痩せている。


海軍所出かいぐんしょでなんぞと申しましてもね、そんな大層なものじゃあございません。私らは劣等生でございました。


そりゃあ、あなた、それまでと歩き方一つとって違います。

右手右足出して、足をすって歩いておりましたのが、右手左足出して、ももを高く上げて歩けなんて言われます。


貧乏旗本の穀潰ごくつぶしの三男坊ですもの。

飯がたらふく食えるってぇんで行った口の私なんざ、驚天動地きょうてんどうち


ただもういかに大樹公たいじゅこう(幕府将軍)……あの頃は世が代わる前でしたからね、ええ。

その後は大王おおきみ(天皇)の御名をいかに汚さずに済むか、そればっかりの、盆暗頭ぼんくらあたまも数のうちってぇ奴でございましたよ」



 とは言うものの、戦術の、戦略がと語り始めると、生き生きと目を輝かせ、まるで船上の会議で意見を戦わせ、敵艦と砲火を交えている如くに身振り手振りを交えて熱弁を振るう。


なかなか話し上手で、店主もつい引き込まれ、身を乗り出して合いの手を入れている。

すると佐伯も益々、興が乗ってくる。


「五月二十五日の段階では、まだ連合艦隊は北に向かうつもりでしたよ、ええ。

あの命令が発動されていれば、津軽海峡へ向かい、露助めに完全に裏をかかれておりました」


秘密を話すように、佐伯は小声で言った。


そして、はっ、と我に返り、恐縮して頭を下げた。



「これは老いぼれの昔話に付き合わせて、余計な時間を使わせました」


店主は笑って手を振った。


「いえいえ、私も嫌いな方ではございませんから」


「ほう」


佐伯は、ピンと張った背筋を更に伸ばし身じろぎをして、生白い店主の顔を見直した。





 その佐伯の自宅は、退役する時に建てたコテージ風の小さな屋敷で、そこで一人暮らしをしている。


コの字の開いた部分に柵のついたテラスがあり、外に向けて椅子が置いてある。


そこに上がるのに二段ほど階段を登ると、正面に玄関の扉がある。


中に入れば絨毯じゅうたんを敷いた客間が広がり、左手には台所、右手には自らの部屋がある。


その佐伯の部屋の居間の窓際の小さな応接セットのつくえの上には将棋盤が置いてある。

その前に佐伯は腕を組んでじっと座っていた。



 あの一番の悪友とは、長年将棋の次の打つ手を書いた書簡しょかんを往復させていた。


 離れていてもいつもあの男の姿が、将棋盤を挟んで向こうにあった。


熟考に熟考を重ね良い手を思いついた時、文を開いて肩を落とした時、離れていてもすぐ側にあの男がいたのだ。



「本当に貴様は嫌な男だ。分かっておったわ」



佐伯は出窓に置いた写真立ての、現役時代の仲間たちと撮った写真の中の友に話しかけた。


写真の中の友は、若い顔で笑ってこちらを見返して来る。


屈託のない、優しい笑顔だ。


愛嬌のある丸い瞳が、細められてこちらを見ている。


この笑顔にどれだけ佐伯は救われて来ただろう。


あの時も、あの時も、そしてあの時も……

佐伯の思考は過去の風景に入り込んで行った。



 しばらく、ジッと胸の奥の尽きせぬ思い出に浸っていた佐伯だが、長く息を吐くと、気を取り直し、悪友に語りかけた。



「そういえば、奇妙な骨董屋の店主と仲良くなったぞ。

貴様とは大違いの優男やさおとこで、そりゃあ気持ちの良いい男だ。

また来いと言ってくれた。


貴様なんぞがおらんでも、俺は大丈夫だわ」


(それとも、一人になる俺を心配して、貴様が会わせてくれたのか)



それから、きっちり週に一度、決まった時間に、少し恥じらった様子で、手土産を片手に佐伯は店を訪れるようになった。


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