第4章 破綻

「あのっ!」


女の高い声と共に、目の前に黒い筒が突き出された。



 店の外で散り始めた桜の花びらが、天女の薄桃色の羽衣のように重なるそれを、き集めていた店主は、驚いてその細くて荒れた手の平に乗せられた黒い筒へ目を向けた。


「これ!」


その声に目を上げると、若い……まだ少女と言っても良いほどの歳の女が上気させた顔を強ばらせて、立っている。


 色褪いろあせた赤い地に白い椿の花が描かれた着物に、緑の帯を締め、振り分けた髪を三つ編みにしているのが愛らしい。


「お返ししますから!」


「これを?」


目を丸くして店主は、少し笑いを含んだ声で問いかけた。


「あ、あ、兄がっ!」


少女は、益々顔を赤くしてうつむいた。


(ずっと昔にもらったものを、突然、突き返すなんて)


家から飛び出て来た時の怒りと興奮は、水をかけられたようにしぼんで冷めていった。

「あの、ごめんなさい。私ったら」


陽に焼けた額に汗が浮かび、随分と走って来たのか、膨らみかけた柔らかい胸が上下している。



 「お兄様がどうかされたのですか」

店主は帳場のある座敷の上がりかまちに少女を座らせると、優しくたずねた。


シンと静まり返った店内は、薄暗く、汗ばむような陽気の外とは違い、ひんやりとしていた。

それだけでも一息つく。


 店主は帳場の机の下から、お盆に乗った急須と湯呑みを出すと、鬱金うこん色の茶筒を取り出して、細い指で蓋を開けた。


それだけで心が落ち着きそうな、煎茶の葉の良い香りがふわりと漂う。


コポコポと火鉢の上でかした湯を一度湯呑みに注ぎ、それを急須へ戻すと、再び湯呑みに茶を注いで、茶托ちゃたくに乗せると「どうぞ」と少女に勧めた。


(綺麗な所作しょさ.……。

男の人なのに、色が白くって、細くって……

そう、まるで雑誌の挿絵さしえの人みたい)


少女はうっとりと、店主が茶を入れる様子を見つめた。


店主の血の気のない白いのっぺりとした顔も、薄紅の着物の細い体も、今流行りの挿絵画のようで、思春期の夢見がちな少女の瞳にあこがれの色が浮かんだ。


 お茶を勧められると、少女は改めて先程までの自分の失礼な言動を思い出し、恥ずかしさを感じたのか

「有難うございます...。

突然、私、失礼な態度でごめんなさい」

三つ編みの頭を下げた。

それにつられて、髪の裾に結んだ、白い小さなリボンが揺れた。


「とんでもございませんよ。お兄様がどうされたので御座いますか」


「実は……」

店主に重ねてうなされた少女は、視線を膝のあたりに彷徨さまよわせながら、話を始めた。


「兄は、復員ふくいんして来て以来、様子が可笑しくって……」

元々 、優しくて穏やかな兄が、士官学校に行くこと自体を不安視していた母は、

「やはり、無理が祟って、心を患ったのかねぇ」

悲しそうに目を潤ませて、少女に愚痴た。


鬱々として、部屋に閉じこもりがちだったが……


「でも、次第にあちこちと出歩くようになったんです。

行先はハッキリ言わないのでわかりまんが、多分兄は仕事口を探して歩いてると思うんです……」


しかし、丁度不景気ということもあって、なかなか仕事口が見つからないらしく、段々と顔色も悪くなっていった。

「あんなに顔色が悪いんじゃ、決まるものも決まらないって、心配で」


しかも、食欲もドンドンなくなり、最近は骨と皮になって、病人のようになってしまった。


「無理をしないでって兄に言いました。

そしたら、兄は哀しそうに笑って……

今は無理をしないといけないなんて」


少女は鼻を啜りあげた。

「うちはそんなに余裕がないもんですから……」


店主は優しく微笑みながら、話に耳を傾けている。


「でも……」


ある時にふっと気がつくと、兄は全く外出することが無くなって、ただ、ただ、黒い筒を目にあてがい……


「じっと見てるんです……

朝から晩まで。

夜、御手水おちょうず(トイレ)に行くのに、兄の部屋から明かりが漏れていたので気になって見に行ったんです。

そしたら、壁にもたれて、やっぱりジッと目にあてて……」


少女はにじんで来た涙を、逆剥けのできて少し血の滲んだ指で拭いて、鼻をすすり上げると、口をへの字にして、店主に訴えた。

冷えて色を戻していた頬にまた血が上り、林檎りんごの様に紅く染まっている。


なんと生命に満ちていることか。


店主は、勢い込んで話す少女を見つめた。



「だって、だって」

少女は膝の手をグッと握りしめた。

日に焼けガサついた働き者の粉を吹いた手の甲に、細い骨が白く浮き出た。


「あれ、ただの筒なんです。

なにが見える訳でもないのに……

そうじゃない時には、溜息を付きながらその筒を撫で、涙ぐんで……

なにかブツブツ言っているんです……」


少女は思い余って、その黒い筒を隠した。

すると……


「急に気が狂ったように怒り始めたんです。


どこへやった!って、怒鳴どなって、暴れて……

家中引っくり返して、障子しょうじも破れて、茶碗も割れて……

父の遺品の煙草盆までり倒して、もうどこもかしこもグチャグチャになってしまったんです。


あんな兄は見た事なくって、母も私も恐ろしくって。

その時は兄に返してしまったのです。


でもこれがあっては兄がダメになってしまう」


襟のところが少し擦り切れた、着古した木綿の着物の細い肩が切なげに震える。


 今日も真昼間から、また倒れたようにして寝ていたので、指の先から転げて床に落ちていた遠眼鏡をそっと取り上げたら、直ぐに気がついて、また喧嘩けんかになった。


揉み合いになり、腹を立てた少女は

「こんなお兄ちゃんなんていらない!」

叫んでしまった。


その言葉に兄が一瞬、ひるんだすきに家を飛び出て、以前から聞いていたこの店に返すためにやって来たということだった。


「そうですか。あんなお兄様はもういらないと」

「ええ、元の兄に戻って欲しくて。だから……」

少女は、また出て来た涙を隠すように俯いた。


「わかりました。これは私が預かっておきましょう」

「いえ、いいんです、もう。

関係ないのに押し掛けて、御免なさい」


少女は健気けなげにそう言うと、勢いよく立ち上がった。


「失礼な事をしてしまいました」

今一度、少女は三つ編みを揺らしながら、丁寧に頭を下げた。

それから、店主からそれを受け取ろうと手を伸ばした。


「いえ、いえ。あながち無関係とも申せません。

これがここにございましたら、お兄様がここへ参られましょう。

さすれば、正気を取り戻すように、私の方からお話してみましょう」

店主は手の平の上でそのもうひびが何本も入って、壊れかけている黒い筒を転がして微笑んだ。


その途端、店の内にひそんで居た薄闇から、ゾロリと妖しい気配けはいが立ち上がって来た。


「え……」

少女は顔を強張こわばらせて、店主の顔を見つめた。


ぬめるような白い顔が、濃くなってきた闇に浮かんでいる。

まるで、まるで……人のものではないような……


何かが可笑おかしい。


急に日がかげり、生暖かい風が吹きつけてきた。


今し方まで、日向ぼっこをしている猫のように、平和でノンビリとしていた店の空気が、ぐにゃりと曲がり、異空間に飲み込まれていくような奇妙な違和感が、少女をらえた。


「え、だって……。え?」


少女に向かって微笑む店主の顔は、今までとなんら変わりが無いのに、青い燐光りんこうがまとわりついているように見え……


少女は自分が鳥肌が立っているのに気がついた。


ここに居てはいけない。

本能がそう告げる。


「これはお預かり致します。お嬢様は心易くお帰り下さいませ」


震える少女の目の前で、店主はそれを置いていた手の、いぶしいほどに長い指を一本……一本……

そしてまた一本

ゆっくりと、折り曲げ、閉じていった。


 無意識のうちにいやいやをするように首を振っていた少女は、最後の一本を店主が閉じる前に、そのまま後退あとずさると、きびすを返し、逃げるように店を後にした。


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