第3章 春爛漫

 

桜が薄桃色の雲のように咲き流れる。


風が吹くたびに、天女の衣のように揺れて舞う。

天女の残り香が跡をひくように、散る花びらが風に乗って舞う。


散る花びらの下、美しい姫君がこちらを物憂げな黒い瞳で見ている。

まるで春の花の精のような美しい着物を着て……


記憶の中の面影よりも、大人びて憂いを帯びた顔をこちらに向けて、じっと見つめている。




穏やかそうな白い顔に、ごく稀に笑みが浮かぶこともある。

すると、それだけで胸が張り裂けそうな愛しさが募る。

潤んだ黒い瞳から真珠の玉のような涙がこぼれ落ちれば、抱きしめてその哀しみを癒したいと胸が痛む。


(なんと美しいことか)

まるで桜の精のようだ。

いや、桜よりも、何よりも美しい。

精巧な硝子細工のように、儚く美しい。


長い黒髪は、露が落ちればそのまま転がる程につややかで、白い瓜実顔の少し垂れた瞳は優しい。

時々、袖で隠される、受け気味の小さな唇。

何とも愛嬌がある上に気品に満ちている。

(どんな声をされているのか)

男は飢えたように、今はただ異性として好ましい姫を見続けた。


見ても、見ても、目を離した瞬間に、恋しくてまた視線を戻さずにはおられない。


見続けていれば、もしかしたら声まで聞こえてくるのでは無いか。

そんな気持ちすら起こってくる。


ほんの少しだけでも……

その声を聞きたい。

その華奢な体を抱きしめて、世の全ての苦しみから護りたい。


(付喪神とやらに思いが通じれば、この姫と結ばれるのだろうか)

男はそっと黒い筒を撫でた。


(どうか……もしこの筒に付喪神が宿るなら……)

男は胸に筒を当て願った。

(姫と共に居られるのなら、何もいらない。

どうか、姫の側に居させてくれ。

姫をこの手で幸せにしたいのだ)



男はひたすらに、その筒に宿る付喪神に祈り続けた。


姫も涙の溜まったような潤んだ黒い瞳で、男を見つめ続ける。


時折、その愛らしい唇を開き、なにかを訴えかけてくる。



愛しくて切ない思いをひたすらに、その砕けそうな筒に込めていった。





入り口から入ってくる光がかげり、店主はふっと顔をあげた。


「おや、野風、るい。お帰りなさい」

そう声をかけられたのは、背の低い浅黒い肌の男と痩身の色白の男だ。

二人ともに、繊細そうな雰囲気を、しなやかな竹のような身体に漂わせている。



「何か良い出物がございましたか」


野風たちが上がり框に荷を降ろすと、店主は帳場からいざって出てきた。

「ご維新の頃とは比べ物にならぬが、不景気のお陰で幾つか良い物が手に入った」

まるで吹く風のようにかすれ、それなのに深みのある声が、野風と呼ばれた男の口から聞こえた。


「なかなか付喪神を宿す物はあらしまへんけどな」

涕は上がり框に置いた荷を解きはじめた。

「その上、縁のある物を見つけるのは骨にございましょう」


店主はニコッと微笑んで、仕入れを記す帳面を広げた。


「それより、あれはどうなった」

「あれに、ございますか」

店主は、野風の問いに手を止めると、小首を傾げた。


「まあ、何と言うのか……

同じ所をクルクルと回っておいでて……」


男は最初のうちこそ、骨董屋に顔を見せて、筒の付喪神に会えないか、話ができないか……

仕舞いには付喪神は宿っているのか……

遠慮がちに聞きに来ていた。


が、骨董屋に来ても進展はなく、そのうち

「段々と筒のひびが酷くなっていくのを気にされていましてね。


何とかこちらで直らないか聞かれたのですが……」


「そうじゃの……」


野風たちはため息をついた。


「無くは……ないが」

「無理でっしゃろ……」

涕が斬って捨てた。

「付喪神が宿る品なら、蘇らせる方法はないことはないけど、それには他の付喪神の協力と長い年月が必要や。

あやつには無理やろ」


店主は軽く唇を噛むと野風に視線を向けた。

「左様でございますね……」


「他にも1つ方法はあるが……まぁ無理じゃな」

野風は小声で呟いた。



「となると、あれはどうなるのでございましょう?」


野風は首を振ってため息をついた。



「もう時間がおまへんやろ」

涕が少し苦いものを飲んだように、顔をしかめた。


「ええ……」

店主が溜息をついた。

「もう間に合わないかもしれませんね」


一様に沈痛な面持ちで顔を伏せた。


「そしたら、どうなるんや」

「どうもならんだろう。ただ全て霧散するだけ」


「では玻璃は……」

「せあったら、奴と姫君は……」


店主と涕は同時にそう言って、一瞬、お互いを嫌そうに睨みあった。


「玻璃は出来ぬし、奴は狂死に、姫君は……」


そこまで言うとふっと溜息をついた。

「まあ、前例のない事だからな。

何も分からぬわ。


何事も成り行きじゃの。

我らは無力じゃ……」



「何を言うのだか。

あなたともあろう人が……」


店主はニマリと薄い紅の唇で笑い、涕はいよいよ嫌そうに眉間に皺を寄せた


それに応えず野風は店主から視線を外して、店の出入り口から見える、池の端に植えられている桜の花のつぼみが、淡く色をつけているのに目を向けた。


その淡い色は店主の唇に似ている。

季節は冬から春へと移ろっていく。


「人の世の時は早いの」

野風は呟いた。







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