第5章 現の狭間

 

 少女が怯えたように店を飛び出していった後、静かで薄暗い店の中に、ぽつり、ぽつりと付喪神たちが姿を現した。


店主の側に野風がその姿を現すと、店主は少女の背中が消えた戸口を見たまま、問うた。


「終わり……にございますな」


「左様じゃな。

奴も今宵には来よう」

野風の答えに、店主は口元をはかない微笑みで染めた。


「左様にございますかね」

「恋い焦がれるものには、時は敵だろう」


「哀れやな」

涕の声が静かに店内に流れた。


ふわり

一枚の白い花びらが風に乗って、店の中まで舞い込んで、店主の背中で結んだ髪にそっと降りた。


野風はその薄く色づく白い花びらに伸ばしかけた手を……下ろした。


るいはそっと溜息を押し殺した。









 野風の言う通り、男が店を訪れたのは、日も落ちて、闇が街をおおい始めた、いにしえより逢魔刻おうまがときと呼び習わされている時刻だった。



 店の前の大池の春の名残りを惜しむように、薄紅うすくれないの花びらを散らしていた風もパタリと吹くのをやめていた。

しばらく前までそぞろ歩いていた人の足も絶え、ただ赤紫色あかむらさきいろの闇が辺りをすっぽりと包み込んでいる。


動くもの、しわぶきの音とて一つとしてない、切り取られた絵画のような、あの薄闇の世界が一時ひととき姿をあらわしたような、怪しい時間がそこにあった。



コツン、コツン……コツン


 一日を終え微睡まどろんでいるうつつを、ゆり起こしながら荒い息をした男が、倒れんばかりにして骨董屋の軒先に立った。



 やせ細り土気色の顔に、長く伸びたボサボサの髪の毛を振り乱し、男は最早亡者のような姿になっていた。


 落ち窪んだ目はギラギラと狂人のような光を宿し、白くささくれた唇から、ふいごのような荒い息がれている。


 前はきっちりと合わせていた襟元もだらしなく開き、あばらが浮いた干からびた胸が見える。

そのへこんだ胸は、口から漏れる息と一緒に、激しく上下を繰り返している。


「おや、いらっしゃいませ」


店主は、そんなことにも気付かぬような素振りで、男を迎えた。


「あの、あの……」

地獄から逃れてきたような鬼気迫る様子の男は、一瞬、正気を取り戻したように立ち止まった。


「丁度店を閉める所にございました。さあ、お入り下さい」

店主は男に近づくと、汗じみて皺のよった着物の背をそっと押してうながした。

布越しにゴツゴツとした背の骨が、店主の手の平に当たる。


歩くたびにはだける着物の裾からは、歩けなくなった老人のような、骨と筋の浮き、筋肉の緩んだ生白い太ももが見える。


男は、杖を突きながら泳ぐように店内を歩き、上がりかまちに崩れ落ちるように座り込んだ。


そして息を整えようとしてか、じっと一箇所を見つめて肩を上下にしながら、荒い息を繰り返している。

男が腰を下ろすのを見届けると店主は、表に点けていた角灯カンテラを消し、木戸を立てて扉を閉めた。


骨董屋の店内には、様々な時代の品物が時を留め、静かに身を潜めている。

木戸を立て外界と遮断された空間に、ゆらりと薄闇が動き出し、その幻のような影を濃くしていく。


「これにございましょう」


男の前に立った店主は白い手の平に黒い筒を乗せて見せた。



「あ、あ!」


男が目をギラギラと輝かせて飛びつこうとするのを、店主はパッと手を閉じ、自分の胸に引き寄せた。


「返してください。私のものだ」

「ええ、勿論お返ししますよ。

ただ、その前にそのご様子、何事かお話下さいませ」

男は落ち着かぬ様子で、落ち窪んだ死んだ魚のような目を、店主の手の中にある黒い筒へ、骨董の方へと彷徨さまよわせていた。


男の額に浮かんだベットリとした汗は、あごまで伝って、その角張った膝へポタリと落ちていった。


店主の細められた瞳は、いい加減な作り話など見透かしてしまいそうな、鋭い眼光をたたえている。


男は観念したように、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「私が愚かにも、あの姫に、

あの姫を……おしたいしているのは御存知でございましょう」

男の肉が落ちて骨の浮いでた細い肩は震えた。


「筒の中の女なぞ……本物の人でもないのに」


物憂げな姫の様子は、男の心を苦しめた。


黒い筒の付喪神に祈り続けるしか、彼には為す術がなかった。


しかも、ある日を境に物憂げを通り越して、ひたすらに涙を流し悲嘆にくれはじめた。


男はどうしたら良いのか、オロオロとしていたが……


そんな時、はたと男は気がついた。

姫こそ、この筒の付喪神ではないかと。

ヒビが入り、壊れそうになっている己が身を嘆いて、何とかしてくれと……


「漆屋や、笛や漆器を修繕する店をさがしては預けました……が」

筒の内側がどうしようもなく乾いているのか

「直ぐにひびが入り、割れてきてしまうのです。」


まるで、それ自体が壊れたがっているように。



万策尽きた男は、最早壊れるに任せるしか無くなった姫君の遠眼鏡を抱いて途方に暮れた。


姫君はますます、顔色も悪くなり、痩せ細り、嘆き苦しむ。

男はもどかしくて、もどかしくて胸をかきむしるような思いがする。


ただただ、思いは募り食欲もなくなり、寝るのも惜しんで目にあてて見てしまう。


そんな時……



ふっと声が聞こえた。

まるで通り過ぎていく春の風のような微かな声が……


夢か……

男はうたた寝から目が覚め、慌てて筒を取り上げた。


「……って」


やはり声が聞こえる。


「連れてかえって」


今ではハッキリと聞こえるようになった。


姫が涙ながらに訴えかけてくる。



「帰りたい……」




「まるで気狂いだ。

自分でもよく分かっているのです。正気の沙汰ではないと。でも、でも何とか幸せにして差し上げたいのです」

男はすすり泣いた。

「しかし……一体どうしたらいいのか。

元の持ち主の元へ返せばいいのかと思いましたが、以前、店主殿は元の持ち主は亡くなられていると申されました。

それでは、墓にでも供えたらいいのか……


しかし

私は……できることならば、この姫と幸せに暮らしたいのです。


この方の居ない世界で私は生きてはいけません。


たとえ付喪神であろうが、なんであろうが……

私は……良いのです。」




しんと静まった薄暗い店内に、哀れな男のすすり泣く声だけが、響いている。


薄闇に紛れた付喪神たちがじっとそれに聞き耳を立てている。


「さすれば」


店主の静かな声が、店の中に流れた。


「一緒に連れて帰って差し上げ、末永く共に居られたら宜しゅうございましょう」

「え」

その言葉に男は驚いて、涙で薄汚れた顔を上げて、まじまじと店主の顔を見た。



「姫にお会い出来るのですか?」


「ええ」

 闇に包まれた骨董屋の店内の、橙色の和蝋燭わろうそくの光に包まれて、ボウとそこだけうつつと異なる空間のように浮かんでいる。


そこに、たたずんで男の悲歎を聞いていた店主は、まるで簡単なことが分からなくて困っている人を見るような、どこか気の毒そうな笑顔を浮かべている。


店主の言葉に、薄闇の中に沈んでいた付喪神たちが身動みじろぎをし、蝋燭の炎を揺らめかせた。


「それは、それは……もし……あのぅ」

このままでは狂死くるいじにするのではないか…と男はそう心配をしていた。


 (さすれば、姫君に会うことができるのだろうか)


しかし、そのような死にざまでは、遺される母や妹は、兄は遠眼鏡に取り憑かれて狂死したと後ろ指を指され世間の笑い者になってしまうだろう。


しかし、姫と会う為に男が思いつくのは……それしか方法は無かった。


男はグルグルと一箇所を巡る思考の中で、怪しむように店主を問いただした。

「私に死せよと申されますのか」


「何を馬鹿な」

店主は笑いながら首を振った。


「それでは」

男は吸い寄せられるように、店主の方へ体を浮かせた。


「できるのですか」


掠れた声で、店主に問いただした。


「どうやって……」


橙色の灯りを受けて影が踊る、店主の顔の中で、唯一、色付いている薄紅色の唇がニタリと笑った。

「ええ、遠眼鏡の中の事にございましょう?

その中にお入りになれば、よろしいだけにございましょう」

「え」


事も無げにいう店主の言葉の意味を計りかね、男は顔を歪めた。

「店主殿は、私を、私を愚弄ぐろうされているのか」


「いいえ、とんでもございません」

店主は疑われたのが心外そうに、目を大きく見開いた。

「本気で申し上げているのでございますよ」


男のあっけにとられたような、不思議そうな顔を見て、また店主は薄く微笑んだ。


「職人が精魂せいこん込めて作った品のうち、時を重ねるうちに、人の思いを集めて不思議な力を持つものもございます。

そしてその品は、その込められた思いが作る命運に他のものを引き込んでしまうことがございます」


「品に込められた思いが他のものを……引き込む」


男の言葉にうなずいた店主はそっと手を開いて見せた。


紙のように血の気のない白い手の上で、つややかな黒い筒はコロリと転がった。


「これはさる武家の姫君が、産まれる前に亡くなったお父上様から頂いた形見で、とても大切にされていたと聞き及んでございます」


「そんないわれのあるものでしたか」


男は熱い瞳で黒い筒を見つめた。


「あの姫君は付喪神ではなくて、その方でしょうか。

それとも付喪神がその姫の姿をとっているのでしょうか」


「左様でございますねぇ」

店主は首を傾げて、顔を上げた男の目をじっと見つめた。


「その姫は、公家に嫁がれましたが、あまり幸せではなかったとお聞きしております。

ご主人が禁裏を震撼しんかんさせる破廉恥な事件に関係されていましてね。

ええ、公卿たちと女官たちの禁裏を舞台にした不義密通事件にございます。


帝はあまりの乱脈ぶりに関係する人々全ての死刑を望まれましたが、幕府から待ったが掛かりましてね。

姫のご主人は、姫の縁で謹慎で済んだそうですが……

幕府の介入が不満だった帝はなかなかお怒りが収まらず、関係した者どもの家族や親類縁者までご不興をかい、随分肩身の狭い思いをされたようでございますよ。

旦那様も姫のお陰で一命は取り留めましたものの、そこからは出仕が叶わず、それも武家の姫のせいと思われたみたいで。

まぁ、元々夫婦としましてもね、上手くはいってはおりませんでしたから……


それで姫君は幸せだった頃の思い出の形見に、この遠眼鏡を大切にされていたそうに御座います」


「そんな……あの姫君がそんな目に」


男は茫然とその万華鏡を見つめた。


「もしも……私に力があれば……」

涙が一筋男の痩せた頬を伝って行った。





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