第7章 現の夕暮れ



 桜が散ってしまった葉桜の季節に、店主は店先に一組の母娘おやこを見つけた。


大池のほとりに立ち、じっとこちらを見ている。


店主の姿を見た二人は、ハッとして慌てて立ち去ろうとした。

が、それよりも早く店主は声をかけた。


「いらっしゃいませ」


それでも軽く会釈えしゃくをして立ち去ろうとした二人に、更に声をかけた。

「もしや、先日、そこの池から十五年ぶりに見つかったお子様のご家族の方では御座いませんか」


母娘は立ち止まって、しばらく迷っていたが、意を決したように振り返った。


「はい。実は」


「ご縁でございます。もしよろしければ、お茶でもいかがでございますか」


二人は目を見合わせたが、三つ編み姿の娘の方がうなずいた。


 母娘は店主に促されるまま店内に入ると、あたりを見渡した。どの台の上も片付けられ、店の奥には箱が積まれている。


「もしや……お店を」


「はい、閉じようと思ってございます」


上がり框に座った二人は、また目を合わせた。


「それはうちの子の件で……」


店主はそれに答えず、香りの良いお茶を勧めた。


まるで挿絵のお人形さんのよう……と見とれていた少女は、頬を染めて慌てて頭を下げた。

三つ編みに結んだ白いリボンが揺れた。


出された茶を一口啜ると、母親がほうとため息をついた。


「あの日はこの子のお産で、主人にあの子を預けていたんです」


優しげな婦人は遠い目をして語り出した。

柔らかく縮緬ちりめんのような細かいシワのよった目尻に、微かな笑みが漂っている。

柔らかそうな手で包み込んだ白い湯飲みの中の薄緑の茶が、まるで外の桜の葉を映したようだ。



「二人目なんですが、お産が思ったよりも長引きましてねぇ。

お兄ちゃんになると聞いて、あの子も喜んで待っておりましたが、皆がオロオロし始めて、不安になったのでしょう。

泣きべそをかき始めたそうなんです。

あの子は聞き分けの良い大人しい子でございましたから、それで主人も気軽に散歩に連れ出したのですが……」


せり上がって来た感情に、言葉を失ってしまった母に代わって、娘が後を引き取った。


「父がこちらの軒先の品に目を引く物があったらしく、ついつい見て回っている内に、姿が見えなくなったとか。

ね、お母さん」


何年、何十年経とうが、子を失った母の悲しみに期限はないのだろう。

母親は、ササクレだった細い指先で、滲んだ涙をぬぐいながら頷いた。


「主人も余程自分を責める思いが強かったのでしょう。

あれから、少しして体が悪くなりまして、よくないことになりました。

私もこの子がおりませんでしたら、どうなったか」


「左様にございますか」

店主がしんみりと返すと、母親が頭を下げた。

「どこかで、このお店を恨んでおりました」


「それは当然のことにございましょう。

私も申し訳なく思っておりました」


「そんな……そんなことは全くございません。

お店には何の落ち度もございません。

私どもの愚かな逆恨みですのよ」


母娘は首を振った。

少女の色褪いろあせた赤い地に白い椿の花が描かれた着物の肩に、三つ編みがフルフルと揺れるのが愛らしい。


「あの子のためにずっとお花と線香を手向たむけてくださっていたと聞きました。

長い間ありがとうございました」


「いいえ、とんでもございません。

当然のことにございます」


店主の言葉に涙を流し、母娘は頭を何度も下げながら、帰って行った。


その後ろ姿が見えなくなるまで、店主は店の戸口に立って見送った。





春の終わりの一陣の風が、地に落ちて居た散り遅れの桜の花びらを吹き上げた。


ふわり



吹き上げられた桜の花びらは、今一度の今世の名残を告げるようにゆっくりと宙に舞った。



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