第2章 舞踏会

 「薫子はどうした事なのか」

松村は苛立った声で、薫子の里から付いてきた、侍女たちに問いただした。


 それは薫子と松村が、骨董屋でガラスの洋灯ランプを購入して、早、一年の時が経ったあるよいのことだった。


 松村の居住空間と「奥」と呼ばれる薫子のそれは、片方に座敷が並び、もう片方が中庭になっている畳廊下で結ばれている。

いわゆる大名屋敷の「奥」の形だ。


廊下の薫子側の杉戸を開けるとそこには大柄な花の絨毯じゅうたんの敷かれた洋風の小さな部屋になっており、壁に曲線の美しいロココ調の椅子が並べられている。

その向こうに薫子の居住空間に入る扉があり、その扉の前で着物姿の侍女が三人がかりで、松村を通すものかと頑張っている。


「ご存知のように、御姫様おひいさまは、ご不快にて、せっておいでにござります」


もう一年も経つのに薫子の侍女たちはいまだに「御姫様おひいさま」と薫子を呼ぶ。

それは、松村の家に馴染むつもりのない薫子の意思のように感じさせられ、喉に刺さった小骨のように、松村の心をいつも微かに、しかし確実に傷つけた。


「不快と言って篭るようになってもう一年だ。どう言うことなのか」

最初こそ懐妊かいにんかと色めき立ったものが、流石に一年近くも「ご不快」となれば……


「今宵、どうしても夫婦で参加せねば、面目の立たない公爵家主催の舞踏会がある。

そう申し付けていたではないか」


普段、温厚な松村の苛立いらだちを隠さない口調に、松村に付き従っている松村家の召使いたちは体をすくませている。


「そう申されましても、御姫様はご不快にて」

しかし薫子の侍女たちは、表情も変えずしれっとしている。


(どうせ私は、薫子を金で買った身分違いの無粋ぶすい下賎げせんな男なのだ……)


付き添ってきていた、松村の家令たちの同情に満ちた視線が突き刺さる。


松村はきつくにらんだが、その薫子の乳母だとかいう「老女」と呼ばれる女が、あごをあげて睨み返してきた。

 他の茶会ならばまだしも、公爵家の舞踏会には、薫子を伴わなければ話にならない。

(まぁ、薫子さまは我儘ですから、仕方ございませんわ)

白い羽根扇子の向こうでわらう淑女や

(乗り慣れない馬の手綱を取るのは骨ですからねぇ)

高嶺の花の薫子を手に入れた松村への嫉妬しっとを、憐憫れんびんに変えて、いい気味だと言わんばかりに囁く紳士たち。


うんざりだ。


「何様のつもりだ!どけ!」

 松村は声を荒らげると、老女の干からびた細い体に手をかけ、押しのけようとした。


御姫様おひいさまは、まことにご不快にて、私共ですら勝手にお部屋に入るなとお申しつけ遊ばされ……」


 肩を掴まれた老女が顔色を変え、叫ぶように言うのを突き離した。


「あ……」


 老女がかすれた悲鳴をあげよろめくのに、他の女たちが慌てて老女の周りに駆け寄った。


 それを尻目に、松村は薫子の居住空間につながる扉を開けた。


「無礼にございまするぞ!」


 扉を音を立て開け、板張りの廊下を足音高く歩き、薫子の居間の扉を開けようとする松村に老女の必死の声が飛んだ。


「無礼?無礼だと?」


 松村は、怒りで血の気が引いた顔を侍女たちに向けた。


 背が高く体格の良い松村がすごむと、急に威圧感が辺りを覆った。


「確かに松村は、下賎げせんな成り上がりの家かも知れないが、その下賎げせんな家に進んで身売りしたのはお前達の主家しゅかだ。

松村の稼いだ金で生きている分の対価は払ってもらう」


 そう吐き捨てるように言うと、松村に付き従っていた家令かれいに、侍女たちが邪魔しないよう、申しつけた。



「今日の舞踏会に行かぬのなら、薫子を養う意味はない。

親御殿には悪いが、またかゆすする日に戻って貰おう」



 離縁は恥だが、同行が必須の舞踏会に伴わない事で受ける恥の方が大きい。


 どうせ、金目当てに結婚を望む、公家や貴族には不自由しない。

御姫様おひいさまに、まずは私が」


 老女が震える声で叫ぶのに


「もう遅いわ!」


 怒鳴り返すと居間に入り、そこに薫子が居ないと分かると、怒りに任せて寝室の扉を開けた。



 甘い香の香りが寝室内に立ち込め、暗いオレンヂ色の和蝋燭わろうそくの炎が、揺らいで部屋を照らしている。


手の込んだ繊細なレースのカーテンの掛かる、ベッドのすみに、白い小袖姿の薫子がポツンと座っていた。


 が、驚いて振り返った顔を見て、松村は息を呑んだ。


「あなたは…」


 それは薫子では無かった。


わらわ……妾は……」


 女は困惑した様に、松村の顔を見上げた。


 色白で面長なその顔はどこか薫子に似ている。

もしや自分の親戚を身代わりに置いて、薫子はどこかへ行方をくらませたのか。


「薫子はどこへ?」


 松村も困惑して女を見返すと、女も首を振った。

 長く伸ばした美しい黒髪が、サラサラと音を立てるように揺れる。


 女は立ち上がると、厚く敷き詰めた絨毯じゅうたんの上を滑るように松村の方へ歩いてきた。


 すらりと背の高い背格好も薫子によく似ている。


しかし、薫子が大輪の咲き誇る紅薔薇べにばらなら、女はまるで雨上がりのよいに、しっとりと露を含んで葉の陰で揺れる、白い夕顔の花のようだった。


 うっとりと美しい女に見惚れていたその時、松村はハッと用事を思い出した。


「丁度良い。今宵こよい、どうしても夫婦で出ねばならない舞踏会があるのです。

急で悪いのですが、薫子が居ないのなら代わりに、一緒に出ていただけませんか」


「ぶどうかい…とな?申し合わせであるか?」

 女は首を傾げた。


 陶磁器とうじきのようななめらかな肌の、二重の瞳はちょっと珍しいほどの切れ長で、小さなぽてりとした唇をつぼめて思案顔になるのが愛らしい。


「左様な心得こころえは、無いのじゃが」

女が困ったように言う。


「心得などなくても大丈夫です。私の言う通りにしていただければ」


 松村が重ねてお願いすると、女は淡く微笑んだ。

するとひっそりと清楚だった女の顔が、柔らかく花開いた。


まるで咲きそめた白い薔薇ばらのような笑顔だ。


「妾が出て、其方そのほうが助かるのならば」


 荒唐無稽こうとうむけいだ。

しかし、最早、背に腹は代えられぬ。


「森田!」


 松村は手を鳴らして、家令かれいを呼ぶと、松村の侍女を呼びつけた。

とにかく大急ぎで寝室の女にドレスを着せて、用意を整えさせると、馬車に二人飛び乗った。


「すまなかったね」


 松村が謝るとその女は微笑んだ。

「いや、構わぬ。妾は楽しゅうござる。ちとばかり、息苦しゅうござるがな」

薫子よりも身分の高い女なのか、喋り方も古めかしく、仕草も気品に満ちている。

髪を高々と結い上げたうなじは細く、清らかである。

ほんのりと薄桃色に染まる頬が愛らしい。

その白い顔を自ら近づけてきて

「頼りにしておるぞ、松村殿」

悪戯っぽい小さな声で言う。

松村は頬が緩んだ。


いつもは気後れがする舞踏会である。

それが、不思議と心が軽く、女と共に冒険に出かけるような弾んだ気持ちになった。



「薫子様の雰囲気が変わられましたな」

「やはり、結婚なされると違いますのね」


 薄暗く絞った蝋燭ろうそくあかりの下で、女は松村に言われた通り、孔雀の扇子の後ろで柔らかく微笑んだ。


政府の西洋化の推進に身を委ね、徒花あだばなのような時間に漂う紳士淑女にとって、それが薫子かどうかなど、どうでも良いことだったのかも知れない。


 松村の腕の中の女は愛らしい。

話しかければうっすらと上気させた顔で、一言二言返す。

決して、「淑女」たちや薫子のような、気の利いた言葉ではない。


しかし、松村は久しぶりに楽しい時間を過ごしている自分に気がついた。

 

松村の胸に頭を預け、目を閉じて揺れる女の耳に、高まっていく胸の鼓動が聞こえているだろう。

長いまつ毛の影が小さく震えている。

しかし、それでも女は信頼をしたように、松村に身体を預けてくれて、その口元にかすかな微笑みを漂わせている。


この時間がずっと続けばいい。

松村は女の腰に回した手に少しだけ力を込めた。



「あなたのお陰で助かりましたよ」

 馬車の座席で、松村がハンカチーフを取り出し汗を拭きながら言うと、隣に座った女は上品に笑った。


「まっこと面白きうたげであったが、見知らぬ男に抱かれて揺れ申すのは、少々きまりが悪うござったの」

 その女の口調に、松村はそっと笑いを噛み殺した。


「ただ、其方そのほう、妾をたばかったのか、誰も戦っておらぬかったぞ」

 少し軽く睨んで言う女の文句に、松村はうっかり噴き出しそうになった。

息を一つして、笑いを納めると

「あぁ、武道会ぶどうかいと思われていたのですね。

舞踏会ぶとうかいとは、男女が抱き合って揺れる会なんですよ」

松村はできる限り、失礼にならないように、優しい声で女に教えた。


「何と、左様な事があるとは存知なかった!妾は物知らずで恥ずかしいの」


 女が顔を赤らめるのに松村はとうとう笑い声をあげた。


声をあげて笑うだなんて……

この前、こんな風に心から笑ったのはいつだっただろう。


ところが、ふいっと女がそっぽを向いてしまった。


「あ、失礼。気を悪くしないで。そんなふくれっ面をしないでください」

女が口を尖らせて、怒った顔をしているのに気が付いて、松村は慌てた。


「あ!いえ、そうですとも、ふくれっ面などではありません。

間違いました。見間違いでした。ええ、そうですとも。

笑った私が悪かったです。どうか、許してください」


 松村は女に許しを請うて、必死で機嫌を取った。


 女の機嫌を取るなどというやからもいるが、松村は苦でないたちだ。

それがこのように可憐で愛らしい女性なら尚のことである。


 馬車の外をガス燈の灯りが流れて行く。

石畳の道に、馬のひづめの音が響く。


松村は女性といて緊張していない自分に驚いていた。


(なんと素晴らしいひとか)


「どこのお屋敷にお住まいですか。お送りいたしましょう」


 しばらく馬車を走らせると、松村は女に聞いた。

しかし、女は首を振った。


「このような所は参った事がない。

申し訳ないが、先ほどの居室きょしつに案内し申せ」


 きっと強引に薫子が親類の女を連れて来て、自分の身代わりに押し込めていたのだろう。

 あれこれ問えば、全てが淡雪のように溶けて、女の姿まで隠してしまいそうで、松村は何も聞けなかった。



「またお会いできますか」


女を薫子の部屋まで送ると、エスコートをする為に腕に掛けさせていた女の細い手の指先を名残惜しく握って、松村はそう聞かずには居られなかった。


「そうじゃの。会えるやも知れぬな」


 女はそう言って微笑むと、するりと指を外して、寝室の中へ消えて行った。


 

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