第3章 淡い思い
翌日、仕事から帰ると、大急ぎで松村は薫子の部屋へ向かった。
杉戸まで行くと、控えの間から、薫子の侍女たちが出て来た。
が、松村を見ると恐れたように、そそくさと薫子に取り次いだ。
(薫子に一言、言ってやらなければ)
と思いながら
(あの女のことをうまく聞き出せたら)
心の片隅で期待している。
(いや、そんな浮ついた気持ちではない。お世話になったから……)
理性がそう威儀を正す。
扉の前に立つと、深呼吸をして心を整えて、軽くノックをした。
「薫子さん」
ゆっくりと扉を開けたが、居間の方にはその姿がなかった。
ゴクリ
松村は唾を飲んだ。
どういう訳か、あらぬ期待が高まり、胸が高鳴る。
「入るよ」
小さく声をかけて、寝室の扉をそっと開けた。
「ああ」
不思議な予感、いや、期待通り、そこには昨夜の女がひっそりと
女が松村を見て微笑むと、途端に気持ちが明るく晴れて行く。
髪の毛を長く下ろし、背中の中ほどで一つに結び、白い小袖に春の花の散った薄緑色の絹のガウンを重ねた姿は、どこか
松村は女の側まで歩み寄ると、怖がらせないように、同じ寝台の離れた所に腰を下ろした。
ギシと微かな音が鳴り、女がふわりと揺れた。
「ずっとここにおられたのですか」
そう聞くと、女は首を振った。
どうやら一度家に帰って、またここへ連れられてきたようだ。
松村の屋敷は大きく、玄関やダイニングを備えた
薫子が夜中に出入りしても、松村の居住空間からは分からない。
薫子の侍女たちの部屋のある建物を通れば、正門にも、松村の使用人達が住む長屋のあるお
しかし、薫子がどうしようが、女を目の前にすると、松村にとってどうでも良いように思えた。
寝室の寝台という
白く
松村はカッと顔が赤くなった。
ゴクンと飲んだ唾の音が、薄暗い部屋に響いて、いかにも浅ましい。
松村は居たたまれなくなり、寝台から跳ね起きると
「あ、そうです!」
少々、調子っ外れな声をあげた。
「こんな場所ではなんですから、あちらでお茶でも召し上がりませんか?」
そういうと女の返事も待たず、あたふたと寝室から飛び出した。
何ということか、胸がドキドキと激しく打って、手に汗をかいている。
(もう妻もいるいい歳の男が、バカな)
赤い顔のまま、廊下に顔を出すと薫子の侍女たちに居間の方へ軽食の準備をするように命じた。
松村はここしばらく胸にしこっていた重苦しい固まりが溶け、自然と微笑みが顔に浮かぶのを感じた。
(昨日のお礼にちょっとした軽食をご馳走するだけだ。深い意味なんてない!ないんだ。)
松村は、揉み手をしながら、居間をウロウロ熊のように歩き回り、ことさら軽い調子で自分を
用意が整うと、不審そうな目を向けてくる侍女たちは下がらせ、松村は女を隣の部屋に誘った。
「さあ、あちらの部屋に参りましょう」
松村が、女の背中を抱くようにして扉を開けると、女が目を見張って言った。
「なんと!その戸は左様にして開けるのでござるか!
松村が驚いているうちに、女は松村がしたように、ドアノブを持って回した。
「おお何とまあ、見事なからくりぞ。
これは
女は顔を上気させ、ドアを開けたり閉めたりした。
呆気にとられた松村だが、女が子供のようにはしゃいでいるのを見て、どうしようもなく微笑みが浮かんで来るのを抑えられなかった。
「さあ、お茶が冷めてしまいますよ」
松村は
女は物珍しげに辺りを伺いながら席に着いた。
しかし、彼女が口にしたのは、紅茶とわずかばかりの砂糖漬けの果物だけだった。
「お腹が減っておられませんか」
問う松村に、女は困ったように首を振った。
「お口に合いませんか」
松村は、教師の期待に応えられなかった生徒のような気持ちになった。
「
しかしながら、この飲み物は、薬草かなにかか。何ぞ埃っぽい味がするの」
そこまで言うと女は慌てて
「いや、香りが余りに良いので、さてもと思うたら、意外な味で驚いたのよ。
文句を言うなど浅ましい。どうか忘れたまえ」
女は顔の前で手を合わせる。
松村は喉を鳴らして笑い出した。
(嗚呼、だめだ!可愛すぎる……)
止めようとしても、笑いが止まらない。
女が松村につられて笑い出したのを見て、松村は涙が出るほど笑い転げてしまった。
こんなに笑ったのは……子供の頃にもあっただろうか
廊下で聞き耳を立てていた薫子の侍女たちは顔を見合わせた。
それから松村は帰宅すると走るように薫子の部屋へ足を運んだ。
仕事が終わるのが待ち遠しく、屋敷に戻るのが楽しみでしょうがない。
ウキウキと帰り支度を始める若社長の姿に、会長の父親も従業員たちも
「やっと、奥様に馴染んできたようだ」
一安心した。
「おかえりなされ、松村殿」
女がそう微笑んで迎えてくれると、松村は自分の居場所を見つけたような、暖かい気持ちになる。
一方、女も少しずつ身の上を話しはじめた。
女は小さい頃に父親と死に別れ、母親の兄である、叔父に引き取られたそうだ。
叔父は忙しい中、時間を割いて妹親子を見舞ってくれ、何一つ不自由なく育ててくれたらしい。
「叔父上はの、それは、それはお美しい方で、話も面白く、いつも妾を笑わせてくれた。
珍しき物も沢山持っておられ、叔父上の
その叔父を話をする女は楽しそうだった。
女が記憶の中の叔父を見る目は熱く潤み、松村の胸は息苦しいほど痛んだ。
しかし、その叔父も急死し、後ろ盾を失った母親は、祖母の手配で叔父の部下と再婚をした。
「決して、左様に不幸ではなかった」
女は笑った。
父というより、祖父に近い歳だったその男は、
「小春日和の様な日々であった」
しかし、運命は、そんな静かな日々を許してくれなかった。
「その義理の父と今度は母も亡くなっての」
焼き討ちに
助け出された女は、叔父の別の部下の
そのことは不快なものが混じるのか、淡々とした口調の中に、微かな諦めの思いが漂い、表情は一転して曇った。
「妾の縁者は全て、その男の
時代は変わったものよ」
そういうと微かに微笑み、抱いたランプをそっと撫でた。
つややかな白い肌に黒い髪が掛かり、淡い
没落した公家大名は、山のようにいる。
女と同じような身の上は今の時代、不幸な事に珍しくない。
苦い感情がギリギリと胸を締め付ける。
(それでも、このまま……)
松村はふと胸に、
松村はある日、あの骨董屋に出かけた。
胸の痞えが下りるなどと言ったが、下りるどころか最近は増すばかりだ。
昼のみならず、夜もあの白い顔がちらついて、なかなか寝付けない。
文句を言ってやろうと気もあったが、結局のところ、胸の内を聞いてくれる相手が欲しくなってフラフラと足を向けたというのが本当のところだ。
クルリ
回転ドアを押して入った途端、ぞわりと背筋が寒くなった。
(あ、しまった!)
気持ちが
「いらっしゃいませ。おや、松村様」
あの気味の悪い店主が小切手のサインを覚えていたのか、愛想よく声をかけてきた。
そればかりか、さあさあと奥に通され、お茶まで出してこられた。
こういう時に毅然とした態度が取れないのが、気の良いボンボンのボンボンたる
大きな体を縮こまらせて、左右に不安げに視線を泳がせながら、お茶を啜った。
「さて、本日はなんでございましょう」
松村と直角の位置に腰を下ろした店主は、にったりと笑顔を作って覗き込んできた。
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