第7話 さようなら

 雨が降った。

 祖母が洗濯物を部屋の中に干していた。


「拓海くん、今日は図書館に行くの、やめておいた方がいいわ。これから雨、強くなるみたい」

「そっか――、うん、そうしようかな」

「歯切れが悪いわね、そんなに図書館が気に入ったのかしら。最近、ずっと通っていたものね」


 拓海は考える。何かが引っかかるのだ。でも何も思いだせない。

 別に、図書館にこだわっているわけではないはずなのだが。


「まあいいか。今日はやめておくよ」


 翌日も、その翌日も、雨はやまなかった。そのうち、拓海は図書館に出歩くのが面倒になって、ずっと家でレポートを書いていた。

 けれど、一週間もそうしていると家にいるのも飽きてくる。


 その日、図書館行ってくるね、と祖母に伝えて拓海は家を出た。

 慣れた道を自転車で進む。

 橋の上に通りかかった。


 赤いリボンの麦わら帽子。少女が拓海を見上げていた。


 あ、と拓海は自転車をとめた。

 自転車から降りて、転がるように少女のもとまで走った。


「ごめん、俺、ずっと来るの、忘れてて」

「いいよ。そういうものだから。拓海さん、何も悪くないよ。大丈夫だよ」


 拓海さんは優しいね、と少女は笑った。拓海は下を向いた。


 毎日会いにくると約束をしたわけではない。それでも、ここに来るのが日課になっていた。それなのに、一瞬で少女のことを忘れてしまう自分が恥ずかしくて、悲しくて、申し訳なかった。


 この前ね、と少女が眩しそうに目を細めて橋を見上げる。


「この前、妹が来たの。車椅子に座って、若い女の人に付き添われて、そこの、橋の上に来たの。もう、よぼよぼのおばあちゃんになってた。はじめは誰なのか分からなかったけど、笑ったときの目元が変わってなかったの。だから、分かった」


 拓海も同じように橋を見上げた。今は誰もいない。


「きっとあの子が、私のことを覚えてくれている最後の一人。――あの子、もうそんなに長くないわ」


 だから、きっと、私もすぐに消えてしまう。少女は笑った。


 その日以降、拓海はどれだけ暑くても、雨が降っても、少女に会いに行った。相変わらず、少女と別れてしまえばすぐにそこでの記憶はなくしてしまうのだが、それでも毎日通った。


 時間があれば町の景色を写真に撮っては少女に見せた。少女は楽しそうに写真を眺めて、時々過去の出来事を思い出して拓海に話してくれた。


 日に日に、拓海が少女を見ることができる時間は短くなっていくように感じた。


 ある日、拓海はいつもと同じように図書館に向かっていた。橋に通りかかった。

 橋の上で、拓海は自転車をとめた。きょろきょろと周囲を見渡す。橋から少しだけ身を乗り出して川の方を見た。誰もいなかった。


 拓海は首をかしげた。


 いつも、ここで何かをしていた気がする。でも何をしていたのかが思い出せない。記憶にもやがかかっているようだった。


 暫くそうしていたが、結局何も分からなかった。


 そのうち、一人でこんなところにいるのが馬鹿らしくなって、自転車をこいで橋を渡った。何かがひっかかる。でも、その理由は分からない。それでも図書館に着く頃には、その妙な感情も消えていた。


 いつものように席に座ってレポートを書く。


 そろそろレポートも完成しそうだった。東京に帰る日も迫ってきている。わざわざ田舎にきた目的は達成できそうだった。


 日が暮れるまで図書館で過ごして、拓海は家路についた。


 風をきって坂をくだる。ここ数日、暑さも緩んできた。日中はまだ暑いけれど、夕暮れ時は随分と過ごしやすくなった。


 橋に通りかかった。

 拓海は自転車をとめた。


 赤いリボンのついた麦わら帽子。


 少女は拓海を見上げていた。拓海と目が合うと小さく笑った。


「朝も、君はここにいたんだよね」

「うん。ここにいたよ」

「ごめん」

「いいの」


 二人並んで座って、川を眺めた。


 拓海さんは優しいね、といつか聞いたような台詞を少女は呟く。少女は立ち上がった。座ったままの拓海の頭に手を乗せる。


 少女は子どもにするように「いい子いい子」と微笑みながら、拓海の頭を撫でた。


 手の重さも、温かさも、何も感じない。


 少女は踊るように川の上に移動した。少女には土の上も、水の上も関係ないようだった。


「拓海さん、さようなら、です」


 え、と拓海は少女を見つめた。


 少女の姿がかすんで、見えなくなって、拓海は目を擦った。もう一度目をあければ、少女はきちんと目の前で笑っていた。夕焼けの中で、限りなく背景と同化しながら、少女は笑っていた。


「あの子が逝ってしまうみたいなの。悲しいけど、寂しいけど、どうしようもないの」


 もうこの世界から、彼女の存在は消えてしまう。誰も彼女のことを知らない世界が始まってしまう。


「覚えてるよ、俺が」


 拓海は立ち上がって、少女を見つめた。


「ちゃんと、俺が覚えてるから」


 少女は目を瞬いた。

 ふわりと微笑む。


「うん。覚えていてね。忘れてしまう、その時まで」


 その背格好には似合わない、妙に大人びた微笑みを浮かべて、そうして少女は空気に溶けて消えた。


 拓海は何もない川をみて、目を閉じた。


 少女と過ごした時間はとても短かったけれど、今までの生活の中で最も不思議な時間だった。


 消えるのが悲しいという少女の思いを聞いてしまった。忘れたくないと思った――。


 拓海は目を開ける。


 川をみて、右をみて、左をみて。


「――、俺、何してたんだっけ」

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