残された【母】の物語。我が子の面影を待ちわびて。
この部屋は、あの日のまま何も変わっていない。あの子はいつもと変わらぬ表情で家を出た。そして、もう帰っては来ない。頭ではわかっているのだ。
でも、ふと「ただいま」、という若干不機嫌そうな声を後ろからかけてくれそうな気がする。高校生になってまだひと月あまり、そろそろ最初の試験が近いかも、って言っていた。一応勉強しようとしてはいたのだろう。机にはノートと、息抜き用のゲーム機が無造作に置かれている。
ちゃんとただんでおきなさいよ、といつも言っているのに、タンスに丸めてつっこまれたTシャツ。天井にはなんだか坂の女の子のポスター。平凡で、何のとりえもない少年の部屋。そして、かけがえのないわが子の部屋。日を追うごとに薄くなっていくあの子の匂い。
世間はもう、まるであの子が最初からいなかったかのように回っている。あの子をかけがえがないと思っていたのは私たち家族だけ。私はいつもあの子の重さだけを思い出す。3,334グラム。予定日より2日遅れて少し大きくなった私の赤ちゃん。赤黒くて、しわくちゃで、でもはっきりと私の息子、という実感だけがある。あと1グラムで3並びでしたね。看護師さんが笑って言った。
その重さは命の重さ。神様が私に託した責任の重さ。哲也さんと私との愛の重さ。抱いてみるととても軽いのに限りなく重い。これが明日という日の重さなのだろうか。でもあの子にはもう明日はこない。私にはもう少し明日という日が繰り返されるだろう。その違いが重く、切ない。
「奏、また来るね。」
それだけ言って私は部屋を出る。今、私には仕事がある。それだけが今の私の救い。あの日、仕事を辞めたいと夫に言った。しかし彼は首を横に振った。ここですべてを投げ打ってしまったら、悲しみと後悔に君がつぶされるだけだ。奏を思うなら奏を思いながらハープを弾きなさい。それが君にできる、いや君にしかできない鎮魂なのだから。
この悲しみは決して消えることはない。街を若い男の子たちが歩いていると無意識に奏の姿を探してしまうのだ。照れくさそうに、少し視線をそらしながらこちらに向かって軽く手を振る我が子の姿を。
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