第22話 怪異


幼い頃、旅先で出会った少女を叱ったことがある。


父から贈られたばかりの髪飾りを盗まれたのだ。

少女は逃げ足に自信があったようだが、自分の健脚の前では、敵ではなかった。


捕らえた少女の姿を見て、驚いた。

自分と同年代だったことにではない。

貧しい格好にでもない。

透き通るような綺麗な瞳を見て、目を奪われたのだ。


幼いながらに、一瞬で理解した。


少女は悪事を働いているのではない。ただ、生きることに必死なのだ。

生きる方法を、それしか知らなかったに過ぎない。


その少女に、自分の姿を投影せずにはいられなかった。

自分もまた、父に養子として迎えられるまではそうだった。


出自も知らず。

名前も知らず。

どう生きていいのかも知らず。

ただ、飢えや死の恐怖から逃れることに必死だった。


だから、少女を迎え入れることにしたのだ。


以来、その娘は誰よりも自分のことを慕ってくれた。


だから、疑いなどしない。

彼女が差し出してくれたその書物が、この戦いの支えとなることを。


だからタビタは避けさえしなかった。


迫りくる炎の矢を、完全に意識の外へ放り出した。

ただエルマが示すとおりに。

ただ、唱えた。


同様の境遇を生きてきた彼女を信じた。

本当の親は未だ知らず。

本当の名前も未だ見つけられず。

父に迎えられる以前の記憶はほとんど失われてしまっている自分だからこそ。

いまこの瞬間に手を差し伸べてくれる彼女のことを、信じる。


タビタは、もう長いこと意識さえしていなかった。

自分の出自。自分の名前。

それらに代わる大切なものを、彼女の大切な人が与えてくれたから。


私が誰かなんてどうでもいい――そう思っていた。

タビタ・エックホーフという少女の意識は、そこで、途絶えた。


  ◆


「な、何だ……ッ!?」


切迫したオルトの疑問の声は、観衆全員の総意を代弁していた。

闘技場の壁際で展開した光景に、全員が目を釘付けにされていた。

観衆だけに留まらない。

審判も、オーヴァンでさえも、目を離せずにいた。


誰もが目を疑うが、皆一様に息を呑むその緊迫感から、それが自分だけに見えている幻覚などではないのだと否が応にも自覚させられる。

目を逸らせるはずがない。


タビタ・エックホーフという清廉な少女が、巨大な怪異へと変容したのだから。


八メートルに届こうという巨躯は頑健な鱗に覆われている。

巨木の如き両手両足、それらの指先には槍を思わせる爪が並ぶ。

背中に戴くは翼。それも、全身を覆って尚余りある程に大きく広げられている。


そして天高く長く伸びた首の先には、蜥蜴に酷似した頭部。

だが蜥蜴と決定的に違うのは、頭頂に戴く二本の角と、口元から覗く刃の如き牙だろう。


オルトは、否、その場にいる全員が、絶望の目をその怪異へと向けている。

その正体を知っている。


ドラゴン――数多の伝説を招く最強の怪異。


単体で国を滅ぼすとも言われる存在。こんな辺境の闘技場に姿を現すなど、場違いにも程がある。

ドラゴンは天頂を向き、自身の威容を顕示するかのような咆哮を放った。


――RRRRRRRRRRAAAAAAAAAWWWWWWWWWWWWWッ!!


びりびりと大気が震撼する。

唸っただけだというのに、それそのものが攻撃だと感じられる。

全身が総毛立ち、完全に圧倒されてしまっている。


誰も動くことが出来ない。誰もが本能で理解しているのだ。物音を立てた瞬間に、眼前の巨躯の猛威に晒されるのだと。

だがその支配的な空気の中、動くものが一人だけあった。


闘技場でドラゴンと対峙する、宮廷騎士・オーヴァンだ。


「――悪い冗談、ではなさそうだ」


騎士が剣を構えながら、怪異を見上げる。


「じゃじゃ馬の類どころか、まさか龍とはな」


彼が構えに一歩を使うと同時、その足音に呼応するようにドラゴンは鎌首をもたげた。

オーヴァンを視界に入れると、威嚇するように再び咆哮を上げる。


――RRRRRRRRRRAAAAAAAAAWWWWWWWWWWWWWッ!!


オーヴァンは音の渦を真正面から受け止めながら、しかし臆さない。

宮廷騎士としての威厳と意地で両脚を支えながら、周囲の観衆へと言い放つ。


「これよりドラゴンを討伐する。貴兄らの安全を保障しながらの戦闘は困難だ、迅速にこの場から離れよ! 闘技場の外の者へも通達し、出来る限り遠くへ! これよりこの街は焦土と化すぞ!」


ドラゴンが牙を剥くのと、オーヴァンが魔法陣を掲げるのとは同時だった。


「痛苦をもって炎舞を成せ、ドリーミュ!」


逆巻く炎が形成される。

真っ直ぐに射出された炎が、ドラゴンの胸部へと激突した。頑健な鱗とぶつかり合う衝撃音が響き渡り――それが、合図となった。


「うわあああああああッ!」

「逃げろ逃げろ逃げろおおおおおお!」

「何で! 何でドラゴンがいきなり!」

「タビタ様が、変身した……?」

「んなこと言ってる場合かすぐに逃げるんだよ!」

「こ、」

「殺されるッ!」


緊張の糸が一気に解放され、観衆は一斉に騒ぎ始めた。

ドラゴンに背を向け、他者を押しのけ、我先にと闘技場出口へと殺到する。


皆、恐怖にひきつっている。

圧倒的な死の質量を前に、忘我している。

あるのはただ、生への渇望。まともな思考は働かない。


パニックを起こした群衆を尻目に、未だに一歩も動けないでいる影が二つ。

オルトとエルマだ。

両者とも愕然と瞠目したまま、ドラゴンから目を離せずにいる。


「い、いったい、何が……」


狼狽するエルマの疑問に、オルトは何とか答えを返した。

咽喉はからからに渇いていて、声はかすれていたが。


「どうもこうも……あれは、タビタだ」


信じ難いが、宮廷騎士と戦いを繰り広げている怪異の正体は、タビタに他ならない。

魔導書の魔法に導かれるようにして、彼女の身体は見る見るうちに変異していった。

身体は膨張し、歯は尖り、全身を鱗に覆われ、背に翼を戴き、ドラゴンとなった。


その様子は観客の誰もが目にしていたが、事実として認められないでいる。


「では、あの魔導書は変身魔法だったと……?」

「違う」


オルトは言下に否定した。


「あれは、そんな魔法じゃない……本来の能力を発揮するための魔法だった」

「ではなぜ!」


エルマは弾かれたようにオルトを振り返る。

涙の浮かんだ目を悔しそうに細めながら、悲痛に訴える。


「ではなぜ、お嬢様はあのような姿に……ッ!」


オルトの持つ答えは一つだ。

それこそ俄かには受け入れがたいが、この状況が一つの事実を証左している。


すなわち――


「エックホーフ家に引き取られた孤児は、竜人だったんだ」



<続>

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