32 夜行//
雅樹がようやく意識を取り戻した時、周囲は自分の手足すら見通せないほどの完全な闇に包まれていた。
彼は、痛む身体をのろのろとまさぐり、シートベルトのリリースボタンを探し当てる。だがいくら押してもロックが外れない。恐らく金具そのものが激しく変形して噛みこんでいるのだろう。
「くそう。なら……」
諦めてベルトを切ろうとしたが、今度は与圧服の肩にあるはずの多機能工具がホルスターごと行方不明だ。
逆さ吊りのまましばらく悩み、結局は与圧服の上下ロックを外すと、耐宇宙線・耐熱オーバーオールをまるごとズルリと脱ぎ捨てて地面に落下する。
「ぐっ!」
しばらくはその姿勢のまま動けずにいた。
意を決してようやく頭を起こすと、ヘルメットのバイザーに吹き溜まっていた砂がくずれてさらさらと闇に飛ばされていく。
その後長い時間をかけてどうにか身を起こし、手探りで全身の状態を確認する。
両足の痛みはもはや日常の一部、加えて痛まない場所はどこにもないほどに体はボロボロだった。セイルのロープを握っていた左腕は肩で脱臼しているらしく、持ち上げようとするだけで激痛が走る。右脇腹は息をするだけでズキズキ痛む。恐らく肋骨も折れている。
彼は時間をかけてインナースーツに致命的な亀裂のないことを確かめ、今度こそ本物のがらくたに成り果ててしまったランドヨットの下からのろのろと這い出すと、ヘルメットライトを点灯してこわごわ振り返った。
「うわっ」
思わず声が出た。
弱々しい光の輪に照らし出されたランドヨットは見るも無残な有様だった。
マストはすべてあらぬ方向にねじ曲がり、セイルの切れっ端はボロボロに破れて風になびいている。四つあるホイールのうち三つまでがどこかにちぎれ飛び、まるで巨人に叩き潰され、ぐしゃぐしゃに丸められたたジャングルジムのようなありさまだった。
彼は大きくため息をつくと、ランドヨットの折れたフレームからぶら下がっていた二メートルほどのパイプをむしり取り、それを杖代わりにしてゆっくりと立ち上がった。
空には星も月も見えず、もはや方角はまったく判らない。
大量の砂塵が風に舞い、ライトの光を浴びてきらきらと渦を巻くのが見えるばかり。視界はほとんどゼロに近い。
雅樹は魂が抜けそうなほど大きくため息をつくと、ヨットの残骸から予備のエアボンベを取り外し、その悲惨な状況にさらに顔をしかめた。
雅樹がエアロックから持ち出したのは五時間用のミニボンベが全部で五本。だが、そのうち一本はすでに使い果たし、残りのうち三本はどうやら事故の衝撃で亀裂でも生じたらしく、残圧計の数値はすでにゼロだった。
彼は首を振りながら不満の唸り声をあげ、かろうじて圧力の残る一本を抜き取ると、ストラップごと肩にかけて精一杯に背筋を伸ばした。背中がミシミシと音をたて、また新たな痛みが全身を稲妻のように突き抜ける。
「いー痛っ!」
ケガの痛みを抑えていた麻酔の効き目もそろそろ切れかけていた。悲しいわけでもないのに目が潤み、自分の吐く息がまるでヤカンの湯気のように熱い。
全身が震えるほどの高熱に犯されているのが自分でもはっきりと意識できる。
「……あとはあの子達に期待するしかない、か」
霞む目で腕の航宙時計をのぞき込み、自分が二時間近く気を失っていたのを知った。
「君の言う通りにけっこう頑張ってみたけど、さすがにチェックメイトだよ……メイシャン」
雅樹はそれだけつぶやくと、後は無言のまま風下の闇を睨み据えた。
もちろん、もはやどうなるものでもないことはよく判っている。だが、この場にみじめにうずくまったまま、無為に最後の時を過ごしたくはなかった。先に逝ったあの人に笑って再会するために、息絶えるその瞬間までジタバタしておきたかった。
「!」
一瞬、頭上を何か巨大な生物が通り抜けたような錯覚に襲われて顔を起こすが、いくら耳を澄ませても、聞こえるのは風に飛ばされた砂塵がヘルメットにあたるサラサラ、チリチリというかすかな音だけ。
彼は小さく首を振り、自嘲気味の笑みを浮かべるとつぶやいた。
「メイシャン……先生、もうすぐそっちに行くよ」
潮騒にも似たかすかなその音を意識のすみにとらえながら、彼は改めて大きく息を吸い、そして、まるでスープのようにどろりと濁った深い闇の中に、ゆっくりと一歩を踏み出した。
雅樹は、自分がまもなく
それでもなお、最後まで歩き続ける気概だけは捨てたくなかった。
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