芽吹き

 朝陽に少しでも触れたら気が狂うと思って、ずっと夜の深くで息を潜めていたかった。

 今が気が触れているのか、朝になって気が触れた方が正気なのか、どっちがどっちだか分かりやしないし、いずれにせよその未知がひどくおそろしかったのだ。知らない己が存在する事実、それを主にして今のよく知る己が寄生物体に成り下がる未来、どちらも信じがたく、認めがたい。

 だから窓が無く、狭く、目的が明確である閉じた部屋が好きだった。そこへ連れていってくれる人間のことも好きだった。金を払っているからこそ得られる価値は存在する。部屋は勿論、Aはそれを分かっていたからこそ、約束した紙幣の分の己の価値はきちんと相手に渡してきた。それが取引で、契約で、売買というものだ。等価交換の釣り合いが取れているのかは計りようがないが、不満を示されたことはないので少なくとも不足してはいないと信じている。過剰であるかは知らない。天秤が向こうに傾いていなければ特に不自由することは無いのだ。

 結婚している男が多かった。勿論独身もいた。子を持つ者もいた。写真を見せられることもあったが、Aにはそんなことは関係ない。夜の小部屋に連れていってくれるなら、朝を知らずに生きられる瞬間が得られればそれで良かった。大抵は三時間程度しか滞在できない部屋を時たま一晩丸々貸し切ってくれる男もいて、それだけでAはその男を好きになりそうな気がした。好きになれそうな気がした。この男なら永遠の夜を与えてくれるのではないかと期待してみたくなった。けれどすぐに違う、と思い当たって好きになるのをやめるのだ。好きになってしまったら、恋人だ愛だというものはよく分からないが、ともかくきっとラブホテルを利用しなくなるのだろう。少なくとも毎回は使わないのだろう。とりわけ相手が独身であれば尚更、Aを部屋に呼び寄せ、またAの部屋へ踏み込みそこで無償の『愛』の行為を求めるのだろう。そしてチェックアウトに急き立てられることもなく穏やかに(各々の体液の染み込んだシーツで!)Aの傍らで眠り、光にあふれる朝を迎える――。ぞっとする話である。実際、時折Aに執拗なまでに入れ込んだ男はそういう関係を望んだ。Aに夢を見て、幻想を叶えるよう迫った。Aはそんなものは御免だった。

 妙に生真面目な顔を作った男たちは、早く夜に沈みたいAのことをときに諌めさえしつつ「真剣交際」とやらを口にする。一体自分が何を食い散らかしているのか、これっぽっちも分かっていないその面を眺めているとAも興ざめしてしまって、けれどそこはAの望むラブホテルの一室なのだ。外の光から切り離されたせっかくの異空間へ、わざわざ外界の産物である懐中電灯を持ち込もうとする風情のない男たちを鼻で笑う。期間限定の無料体験版で遊び尽くし、気に入ったから有料版を「愛」なんてものを代価に差し出して寄越せと言うのだ。それがAにとって価値があるなどと、いやはや、どこの誰が教えたのだろうか。彼らの頭の中のAの幻想はどうやら喜んで受け取るらしい。Aはその己の形を纏った幻想を踏み潰したくて仕方ない。目に見えない情に期待する子供はとっくのとうに葬り去った。それが分かっていない時点で、男たちはAのことなんて一欠片も見てはいないのだ。

 そんなものから逃げたいから、Aは夜を体現する小部屋を求めているというのに。朝の光に触れてしまえば、Aは己を失ってしまうというのに。彼らはAを欲しながら、Aを焼き尽くす朝陽の元へ引き摺り出そうとする。白線を踏み越えようとした男たちは、最早Aには安寧を与えてはくれず、Aを殺そうとした男たちになった。

 或る男がいた。Aと男たちとの間には金銭を橋渡しにした契約が発生していて、提示される金額はラブホテル代とその中で行われる行為に対する代価分だった。それ以上のものをAは望んだことはない。しかしその男は毎回必ずアイスコーヒーを渡してきた。自動販売機の缶コーヒーではなく、特定のコンビニのマシンから挽かれるアイスコーヒーだった。必ずアイスコーヒーなのだ。季節天候を問わず、たとえ真冬の雪がちらつく夜であっても、ラブホテルから出た足でAを伴ってコンビニへ向かい、二人分のアイスコーヒーを注文した。Aがいらないと言っても絶対に二人分の金をレジに置いた。Aも三回目にはこれが男の好意ではなく、契約内の命令に値するのだと理解していた。アイスコーヒー一杯分、百六十八円と等価のものをAは提供しなければならない。その対価が男のアイスコーヒーを受け取ることだった。

 ミルクもガムシロップも入れない黒黒としたコーヒーの鼻に抜ける芳香は確かによいものだった。「リニューアル」の文字を何度見たか知れない店内ポップはしかし嘘は言っていないらしい。コーヒーに詳しくないAであっても、そのアイスコーヒーが美味であることはSNSを見なくても自分の味覚で十分に判断できたし、男にも世辞でなく「美味しかった」と言うことができた。

 彼の結露に濡れ冷えた指先が頬を滑った春の先頃、男との契約は終了した。コンビニ脇の暗い路地の中で幽鬼みたいに二人揃ってぼうっと突っ立ちながらアイスコーヒーを飲むのが、何十回と繰り返した男との夜の終え方だった。お互いが飲み終わるまで氷の詰まったプラスチックカップを握りしめて、自分が先に干した日には氷が溶けるにつれて薄茶色の水が底へ溜まってゆくのを背後から漏れる店内灯に透かしていた。その最後の夜、彼はやはりレジへ向かった。そしてアイスのカフェラテを二つ注文した。店のドアを潜って男はAにカップの片方を渡し、その濡れた指でAの頬を一度だけ撫でて、立ち去っていった。すぐに気化した男の指先の水はひやりとした烙印をAの頬に暫くの間残していた。

 Aは彼が己と少し似ているのではないかと思っていた。彼もきっと喰い潰されそうな直視すべきなにかに怯えていた。コンビニのアイスコーヒーなどといういつでもどこでも手に入るアンカーポイントは彼を救っていたのだろうか。彼はもう別に錨を下ろす場所を見つけたのだろうか。それとも出港の時が来てしまったのだろうか。Aはそれに伴われなかった。道連れにされなかった。それでいいはずだ。Aも連れていってほしいとは思わなかった。けれどどうしても、何度踏み潰しても蘇る期待という厄介なものが喧しく喚いていた。永遠の夜なんて誰も連れてきてくれやしないというのに、安寧の暗闇を求めて泣き喚く子供の声がする。心底から煩わしかった。

 Aが最後に押し付けられたカフェラテは甘いミルクの味がした。甘ったれた子供が喜びそうな味だった。

 Aはほんの少し、うっかり期待なんて欲望に膨らみ咲いて弾けてしまわぬよう慎重に、しかし予想という種を抱いていた。いつか新たな人間が現れて、Aの未来は彼の隣にある扉を開け放ってみたい。彼はAの望む永劫の夜闇を引き連れ、そして忌むべき燦燦と輝く旭陽を彼方へ消し去れるのではないかと思っていた。暴力の中でしか生きられない。生ぬるい昼下がりの芝生の上でのんびりと寝転ぶことができず、代わりに夜の深奥のファイトリングで金網を殴っている方が余程自身に安堵と余裕を齎すのだ。あわれなるけだもの。Aと同類の、もしくはそれ以上の。Aはとうの昔に己のけものを目覚めさせてしまっていたし、そのことも知っている。朝陽が大嫌いなけものだ。だからAは夜に生きたいと心身より祈らんばかりにして、夜の疑似を求めている。

 どうして俺の言うことがお前にはわからないの。伝わらないの。Aと相対した幾らかの人間はなにかを言う。Aはいよいよ覚悟を決めなければならないのだろうかと悲哀を覚える。Aもやはり弱いいきものであるからして、目を逸らし続けていたもの、諦める覚悟である。もうけだものは毒に冒されている。首輪など嵌められて、なんとも哀れなるかな。それでもやはり種は芽吹く時を待っているのだ。Aは結局花開かせてしまっていた期待を抱く自身に失望する。苛立ちを含んで吐き捨てた言葉は男には届かない。ほら見ろ。ああ、いつかの彼ならともに朝陽を憎んでくれると思いたかったのに。

「てめえの頭で考えろ」

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濫卵奇譚 幕間慶 @qF7tBz

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