短編「或る利用者の回顧」
朶稲 晴
【創作小話/或る利用者の回顧】
もう九月に入って、例年ならば寒い寒いとのたうち回る時期だというのに、今年は遅れてやってきた夏がまだ居座っていた。思えば今年の暑さは少しおかしい。たしか四月にも二十七度近くまで上がったこともあるし、そのくせ五月は寒かった。濃い緑の薫りを嗅ぎながら駅前の温度計を確認すると、二十六度もあった。九月の北海道にしては珍しい、珍しい暑さだった。
わたしは汗を拭って駅横の自販機に寄る。本当はただの水がよかったのだけれども好みのがなくて緑茶にした。釣の十円を財布に入れてから取り出し口に手を突っ込む。ひんやりとしたペットボトルが手に触れたので急いで取り出し、その場をあとにする。学生の頃、深夜ひとりで自販機に飲み物を買いに行ったことがある。なぜかは忘れたけど、とにかくひとりでだ。その時、取り出し口に一匹の蛙がいた。それも、先に「蛙がいる」とわかっていて取り出し口に手を入れたのならまぁ話がわかるが、わたしの場合、手を入れてから「蛙がいた」とわかったから、それはもう気味が悪かった。つまりどういうことかというと、飲み物をとろうと手を入れ、ペットボトルをつかむはずの手が蛙を握っていたのである。その時のわたしは、深夜であることも近所迷惑であることも頭から消え失せ、ただただ叫び声をあげていた……なんて事があってから、少し自販機が苦手だった。今回は何事もなく買えてよかった。
昼の音別駅には駅員がいる。近くに工場があって荷物の積み降ろしがあるので、廃駅にはならないだろうというのがわたしの予測だ。駅員がいるのは朝と昼だけで夕方からは無人にはなるのだが、完全な無人駅にはならないだろう。最近近くの駅が二駅、廃駅になった。札幌あたりはどうかは知らないが、北海道も過疎化が進んでいるのだろう。
「釧路まで往復。大人。」
「あいよ。今日も暑いね。釧路へはお仕事?」
「いいえ。友達に会いに。」
まいど、とぴかぴかの白シャツを着た駅員から切符を受けとる。列車が来るまであと十分。
音別駅は、さほど広くない。広くもないし、昼であるのに薄暗いことが多い。床はコンクリートが打ちっぱなしで、壁にはごちゃごちゃとポスターの類いが乱雑に貼られている。
そんな、田舎の駅を代表しましたと言わんばかりの音別駅で、わたしが一番記憶に残っているもの。
それは冬の駅内の記憶だった。
わたしは学生の頃からこの駅を利用している。春も、夏も、もちろん秋も利用していたが、やっぱり冬を、一番覚えている。北国だから冬が長く、ただ印象に残りやすいのかもしれない。それでも、冬の音別駅は、なにか特別な魅力があるように思えてならないのだ。
真ん中にストーブがあった。石油ストーブだ。本体から洩れる柔らかな橙色の火がちろちろと燃えていた。外は深々と雪が降っていて静。かすかにごぉおという石油が火を興す音が聞こえる。ストーブのある部屋の真ん中ほど暖かくて、壁や窓や出入口付近はひんやりしていた。少し焦げたようなにおいがただよっていて、その中で握り飯を食った記憶もある。人は田舎の駅にしてはいたなぁ。始発だったからだろうか。この町は釧路か帯広か、せめて白糠へ出ないとなにもできないから。足を求めた人が、冬の音別駅に集っていた。
ザッ、と。引き戸を開ける音がした。
「次の列車が参ります。」
改札が始まった。
こんな感傷に浸るのも、これから会うのが学生時代の友達だからだろうか。大人になってから会うのははじめてだが、お互い変わっていないといいな。
わたしは一抹の不安と期待とを覚えながら、音別駅を発った。
短編「或る利用者の回顧」 朶稲 晴 @Kahamame
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