第7話
「ただいま。」
そう言って帰って来た椛ちゃんを出迎える。
「おかえり。お邪魔してるよ。」
「知ってますよ。昨日、私が出かける前からいたじゃないですか。」
普段通りに会話を交わす。
これが会話を交わし過ぎると、後で浮気だと楓に言われてしまうので気を付けないといけない。
「お姉ちゃんはいないんですか。」
「いや、楓は今トイレに入ってるよ。」
嘘は言っていない。
ただ、トイレで楓は用を足しているわけではなく、先ほどの処理に近いことをしているのだと思う。椛ちゃんの帰宅がメールから思っていたよりも早かったためシャワーを浴びることができなかったためだ。
「いつもより早かったね。」
「そうですかね。もしかして、お姉ちゃんとイチャイチャし足りなかったりします?それはごめんなさい。お姉ちゃんがこの後バイトらしくて、いつもより早く出てきちゃいました。」
どこかおどけたようなことを言う。
椛ちゃんが動く度、楓とは異なり短く切りそろえられた髪が揺れる。
「いや、そんなことはないよ。久しぶりに楓とゆっくりと過ごす時間も取れたから十分だよ。楓は少し不満かもしれないけど、椛ちゃんにこれ以上迷惑かけるわけにもいかないからね。後で楓から文句言われたらごめんね。」
「いつものことですからもう聞き流してますよ。」
「さすが椛ちゃん、楓の扱いになれているね。」
「お兄さんほどではありませんよ。私、お姉ちゃんの機嫌を損ねない方法とかはわかりますけど、喜ばせ方までは知りませんもん。」
履いていた靴を脱ぎ揃え、洗面所へと向かう。
「楓の喜ばせ方か。」
確かに知っているかもしれない。
どういう言動を期待されているか、何をして欲しいのかが今は手に取るようにわかる。それは楓がわかりやすいということもあるが、彼女と一緒にいるうちに身についたものだろう。
でも、俺からしたらあの気分屋な楓の機嫌を損ねない方法の方が大切な気がするだが、聞いたら椛ちゃんは教えてくれるだろうか。
「あれ、もしかして椛帰って来たの?」
「メールしたじゃん。もしかしてお兄さんに返信任せて確認してないとか。」
トイレから出てきた楓はあたかも気づかなかったかのように椛ちゃんに話しかけているようだ。洗面所の方から話声が聞こえてくる。
「そんなわけないじゃん。メールは確認したけど、こんなに早く帰ってくるとは思ってなかっただけ。」
「なんで少し怒ってるのさ。お兄さんとイチャイチャし足りなくて不満なの?」
「そうに決まってるじゃない。いつもより早く帰って来たから中途半端になったんだから。そりゃ怒りたくもなるよ。」
さっそく文句を垂れているようだ。
楓と椛ちゃんは仲が良いのはわかっているから聞き流せるかもしれないが、惚気を毎回聞かされる妹というのは大変そうだ。
そんな姉妹の会話がしばらくあってから、楓が戻ってくる。
「ごめんね。椛が変なこと聞いたでしょ。」
「気にしなくていいよ。椛ちゃんも本気で怒ってるわけじゃないんだし。」
「椛にも彼氏ができたら私たちの気持ちがよくわかると思うんだけどね。」
俺の方に寄って来た楓は徐々に近づいてくる。
先ほど少し乱してしまった肩より下まで伸びた黒髪もいつの間にか整えられていた。
「椛ちゃんはまだ高三だしさ、彼氏いなくてもおかしくはないと思うよ。それに学校が学校だから男の人と出会う機会も少ないだろうし。」
「確かにそうだね。友達で女子校出身の子も高校の頃は全く出会いがなかったって言ってたし、やっぱり難しいんだろうね。」
高校生で彼氏がいない人がどれくらいの割合かは知らないが、椛ちゃんの容姿と性格を考えると一人や二人いてもおかしくはないような気がする。
だが、椛ちゃんの通っている学校は特に勉強の方に力を入れているため、他校との交流も極めて少ないらしい。学園祭も入場に規制をかけているため、家族や元からの知り合いか受験生しか入れないのでここでの出会いも期待できないだろう。
「私たちはそういう環境じゃなくてよかったね。そのおかげで、こうして渚に出会う事ができたわけだし。」
話しながら俺の真横にやってきて抱きつく。そして口づける。
今の彼女の表情は見なくてもわかる。きっとニヤニヤしているに決まっている。いつもそうなのだ。見なくてもわかる表情をしっかりと見ることは俺の幸せだ。その笑顔が癒しで、喜びなのだ。
「渚。」
「なに?」
急に真面目なトーンで呼びかけられる。
「浮気しないでね。」
心当たりはないがドキッとする。
「どうしたの急に?」
「どうしたわけでもないけど、覚えてないけど悲しい夢を見たから不安になってきてね。私から渚が離れていってしまうんじゃないかって、誰かに盗られてしまうんじゃないのかって。渚がそんな浮気するなんて思ってないけどさ、私に飽きてたまにはそうなってしまうんじゃないかって考えてしまったら止まらなくなって、渚が起きるまで不安だったんだ。」
話すにつれて楓の声は小さくなっていく。さっきまで笑顔だった楓の表情が泣きそうになる。俺を抱きしめる強さもきつくなる。
「大丈夫だよ。俺は楓のことが好きだし、他の人と浮気しようとか考えたこともないよ。楓に満足しているよ。安心して、大丈夫だから。」
本音だ。
それなのにそれなのにこういうことを言うと軽く、どこか取り繕っているような嘘くささがでるのは何故だろうか。日常的に言わない言葉だから浮いて聞こえるのだろうか。
楓が泣かないように声をかけたつもりだったのに彼女の目に涙がたまってきてこぼれ始める。それをぬぐう事もせず、ただ俺にしがみついている。そのせいで俺の肩付近が次第に濡れてくるが気にしてはいられない。
「ありがとう。渚がそういうことしないってわかっているんだけど、そう言ってもらえるだけで安心できるんだ。そういう弱さが情けないなって思ってはいるんだけど今日だけお願い、甘えさせて。朝から我慢してたんだけどさ、急に悲しくなってきてさ。恥ずかしい話だけど、椛と渚が仲良く話してたのに嫉妬して悲しくなってさ。さっき話してたこともあったから悲しくなっちゃって。」
「落ち着いて。大丈夫だから。泣きたい時は泣いたらいいと思うよ。俺の言葉で安心ができるならいくらでも口にするよ。俺は楓一筋だから大丈夫。楓だけが俺の彼女だよ。浮気しないよ。」
俺を抱きしめる力がさらに強くなり痛くすら感じる。
片手を彼女の背中に回し、もう片方で彼女の頭を撫でる。
「ごめんね。情緒不安定な彼女でごめんね。こんな私でも渚が受け入れてくれて嬉しいよ。そうじゃないと生きていけない気がする。」
「好きだから受け入れてるんだよ。楓のこと好きだから。」
「ごめんね。ありがとう。」
楓がこうなるのは初めてではない。一度や二度目でもない。高校の頃はそういうことがなかったのだが、大学に入ってから度々こういうことが起きてきた。特に最近では急に、楓にとっては急ではないのかもしれないが、不安になって泣き出してしまう事が増えてきている。
サークルやバイトなどで疲れているのかもしれないし、俺が軽率な行動をとって不安にさせてしまっているのかもしれないが、楓は自分を悪く言う。ここまでくると癖のようになっているようで、自分を卑下しながら謝り、俺はそれを慰める。月に一回くらい、特にお互いが泊まった時の帰り際にそうなることが多い。急にほっとして寂しくなるのが引き金なのかもしれない。
今回はましな方なのか楓はもう泣き止みつつある。酷い時には涙が出尽くしても俺にしがみついてずっと話さないこともあるので収まったかどうかの判断はまだできない。
無言で鼻をすする音と遠くのシャワーの音だけが聞こえる時間が来る。
この時間は嫌いじゃない。楓のために何かできている時間だから。じっとしていても楓の役に立てているんだ。
嫌いではないが今日は早く終わらせないといけない。椛ちゃんに姉のこんな姿を見せるわけにはいかないからだ。まだ春先なのでシャワーを浴びているのも短時間であろう。なので、場所を変えるか楓を落ち着かせるかを急がなければならない。
どちらとも舵を取れずに膠着した状態が続く。
「よし、踏ん切りがついた。」
楓がそう一言口にして俺から離れる。離れる寸前、最後にと力を込めて抱きしめられた気がした。
自分の手で残った涙をぬぐって、俺に笑いかける。その顔はいつも通りの楓だ。女の子の気持ちの切り替えは早いとは言うが彼女は特にそうだ。切り替えが早いというと良いように聞こえるかもしれないけど、本人の言うように不安定さでもある。
「もう大丈夫なの。?
「大丈夫だよ。ありがとう。私もそんなに悲しんでいてばかりいられないからね。それも勝手な自分の妄想で不安になるなんてばからしいじゃん。」
「安心して、俺は浮気なんかしないよ。」
ここまで繰り返すと弁明をしているように見えてくる。もちろんそんなことはないし、今後もなかなかそういう事はないだろう。俺も人間だ、絶対とは言えない。
「信じてるよ。」
そう言って再度俺に口づけをする。
「そろそろ椛もシャワーから出てくるだろうし、私の部屋にでも行かない?」
「いや、今日はもう帰るよ。というか本当は椛ちゃんが帰ってくる前に家を出る予定だったし。」
腕時計を見る動作をするがそんなものは付けておらず、そのままスマートフォンを取り出して時間を確認する。
「そうだったね。なら、私が駅まで送ろうか。」
玄関で見送ることの多い楓にしては珍しい申し出をしてくる。
「いや、いつも通り玄関までで大丈夫だよ。ご両親も少ししたら帰ってくるだろうから楓は家にいた方が良いんじゃないかな。」
「それもそうか。なんかごめんね。今日は特に私の我儘とか気分で振り回してしまってたし、椛には良いところで邪魔されちゃったし。」
「椛ちゃんについては仕方がないんじゃないかな。元々その時間くらいには帰って来る予定だったんだし。」
そんなこと楓だってわかっているし、本気で椛ちゃんに怒っているわけではない。
「ありがとう。」
これ以上長居するのも迷惑だろうと思ったのでそうとだけ告げて、楓に手を振り、扉を開け、彼女の家を後にした。
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