第3話

 四月八日、春休みも終わり、大学が始まって二日目。

 今日も俺は楓と一緒に昼食をとっていた。大学も学部も学科までも同じなのだから自然とそうなることが多い。今日は二人だけだが、二人きりにこだわっているわけでもなく共通の友人や楓の友人が同席することもある。

 第一週という事もあって昼休みの食堂は大いに賑わっていた。全員が一回目の授業には出席するというのと、新入生たちはまだ学校の周りのお店に食べに行くという事もなくここ集まってくるためだ。


 混雑している中でなんとか席を確保して、俺と楓はテーブルを挟んで向き合っている。空いている席の都合ということもあるが、横並びで食べるのはお互いの顔が見えづらいから嫌だそうだ。でも、俺の横に他の女の子が座るくらいなら自分が座るというのが楓の基準らしい。

 そんな乙女チックな楓はその細い体型の割にはよく食べる方だと思う。今日は家からおにぎりを二つ持参したうえ、麻婆豆腐を食堂で購入している。

 太らないかは心配だが、彼女が幸せそうに食べる姿を見るのは俺の癒しでもある。


「楓、この後のフランス語って教室どこかわかる?」


 ふいに話しかけると、楓は少し驚いたような表情を見せる。

 そして、口の中の麻婆豆腐を飲み込み、水を一口飲んでから答える。


「LA棟の二一教室だよ。」

「ありがとう。二回生なってもLA棟の授業が多いのは意外だな。」


 LA棟は一般教養や共通科目の授業を中心に建物で、LAというのはLiberal Artsの頭文字から来ているらしい。履修の都合上、一回生の間はほとんどの授業をLA棟で受けていた。他学部の友人は今年度からは文系の学部棟がある本館地区での授業の方がほとんどだと言っていたが、俺や楓は半分ほどがLA棟だった。一回生の時に単位を落としたからというわけではなく、履修制限がかかっているため一般教養科目と語学がまだ残っているからである。


 それにしても、語学が楓と一緒だからと教室すら確認せずに来てしまっているのは、大学に慣れてきているからなのか楓に頼りきっているからなのか。どちらにせよ、気が緩んでいることは確かであろう。

 そんなことを考えながら楓を見ているとコップを取ろうとした楓と目が合う。照れたような表情を見せながら水を飲み、俺の目をまた見て口を開く。


「渚はもう教科書買ったの。」

「いや、まだ何も買ってない。初回から使うって書いてあったっけ。」

「シラバスに何も書いてなかったけど、藤本先生は去年も教科書中心だったから初回から使ってもおかしくないかなって。」


 よくそこまで頭の回るものだ。


「楓はもう教科書買ったの。」

「まだだよ。渚と買いに行こうかなって思ってる。」

「なら、食べ終わったら教科書を買いに行くか。」


 腕時計に目を落とす。時刻は十二時七分。楓が麻婆豆腐を食べ終わるまでにはあと十分はかかるだろうが、教科書を買いに行っても十分授業には間に合いそうだ。そう判断すると俺は残っていたカツ丼を食べることに専念した。



 俺の予想通り楓はちょうど十分後に麻婆豆腐を食べ終わり、片づけ、教科書販売を行っている講堂へと向かった。混んではいたが十分ほどで教科書を購入することができたのでその足でLA棟の二一教室へと向かう。食堂や講堂のある地区からLA棟は少し離れているため早めに移動するにこしたことはない。

 最初の授業くらいは良い位置取りで受けたいということもあるが、どこにいても新入生などで溢れていて落ち着かないから早めに教室に座ってしまいたいのだ。


 楓ととりとめもない話をしながら門をくぐると、LA棟のある教養地区では軽音楽系のサークルが中央広場で新歓ライブをしていた。普通はこういう場で演奏される曲はメジャーなバンドのコピーなのだろうが、聞こえてくる音楽はスラッシュメタル系の音楽で新入生受けはよくない様子だ。


 こういう音楽をやるのはKtDだろう。この大学の軽音系サークルは三つあり、それぞれが音楽のジャンルごとに大まかに分けられていて、KtDことKnocking the DoorsはHR/HM系の音楽を中心に演奏をしている。

 ギターのソロがかっこいいなくらいに思いながら見てみると、ドラムをたたいている男が知った顔だったのであとで何の曲かを聞こうと思いながら通り過ぎる。


「ねぇ、渚。やっぱり男の人ってさっきのメタルみたいな激しい曲をかっこいいって感じたりするの。」


 教室につき、前から二列目の席に座ったところで楓がそう尋ねてきた。


「男の人一般がどうかは知らないけど、俺はああいう曲は苦手かな。かっこいいとは思うけどさ、音が重くてやつは好まないし。」

「そうなんだ。まあ、渚がそういう音楽聴いてるところ見たことないけど、ギター弾く人って激しいの好きだと思ってた。」

「それはポップス好きな人がアイドル好きだってくらい勝手な思い込みだよ。いつも言うけど、俺が弾くのはアコースティックギターであってエレキギターじゃないからね。ギター興味ない人には違いがピンとこないかもしれないけどさ。」

「でも、渚、この前ギターをアンプに繋いでたじゃん。」

「アコギでもアンプに繋げるものはあるんだ。いろんな歌手が弾きながら歌ってる時はたいていそうなんだよ。」


 この話も何度かした気がする。

 楓が俺の趣味を理解しようとしてくれていることはわかるが、趣味の話はきっと知らない人には伝わらない部分が多いのだろう。楓がギターの違いがわからないのと同様に、楓が絵を描くときに使うペンの違いが俺にはわからない。そこはお互い様という事で割り切ったらいいのに、楓は俺の話を意地でも理解しようとしているようだった。毎回説明する身としては楓にギターを教えて弾いてもらった方が手っ取り早い気さえする。


 そんなタイミングでチャイムが鳴り、一分遅れて教授が入ってくる。応用クラスなので今年は他学部と合同だが、ここにいる全員が去年も習っていた教授なので大した説明も自己紹介もなく。出席を取り始めた。


「まあ、初回だから早めには終わるけど二年目だし少しは授業しようかなと思ってます。今年は応用なので、会話を中心に仏検取得もできるような授業をしたいと考えてます。」


 出席を取り終えると教授はプリントを配りながら授業についてそう説明した。


「今日はまずフランス語を思い出してもらいたいので皆さんで会話をしてもらいます。プリント足りない人いませんか。…大丈夫そうですね。プリントには質問がいくつか書いてあります。これを相手に聞いて、相手は解答の欄にある単語などを参考にしながら答えてください。これを四人組でやってもらいます。脅すわけではないですけど、去年私の授業でやった質問ばかりで、テストにも出したものばかりなので皆さんいけると思います。」


 そう言うと藤本先生は席ごとに近くの人間と四人組を指定していった。なぜ二人でなく四人なのかは、きっと藤本先生が「四」という数字が好きだからだろう。それともフランス語の関係だろうか。

 俺は隣の席の楓とは当然一緒の組に指定された。後の二人は一つ前の席の女の子たちで片方はどこか見覚えのある子だった。


「楓もこのクラスだったんだ。」


 見覚えのある方の女の子が楓に声をかける。


「前に座ってたの。髪降ろしてたから気づかなかった。」


 楓も彼女を知っているように話し返す。


「ほら、渚も前に一回会ってると思うけど、法学部の沙智。覚えてる?私と同じサークルの。」


 名前を言われても思い出せない。


「はい。皆さん四人組になれましたので、始めてください。」


 思い出そうとしていると藤本先生からそんな指示がされた。隣の人と話し始めていた皆一瞬静かになり、質問をぶつけあいだした。俺も楓の方に向き直り、彼女に質問をする。


「Comment tu t'appelles?」

「Je m'appelle Kaede.」


 去年の授業でやったような質問ばかりだった。それらを楓に繰り返しプリントを埋めていく。楓も俺に同じような質問をするということを繰り返す。そうして俺と楓の組み合わせが終わったところで、後の二人の方へ向きなおす。楓は先ほどの沙智ちゃんの方へ、俺はもう一人の女の子と向かい合うことになった。


「Comment tu t'appelles?」

「Je m'appelle Kaho. Comment tu t'appelles?」

「Je m'appelle Nagisa.」


 「かほ」と名乗った黒髪の少女のことを探りながら俺は会話をしていく。お互いのことを知らない相手とこういう会話をすることには気恥ずかしさを覚える。人見知りだからではない。自分が望まず、相手も望んでいるわけでなく、授業の都合だけで他人の情報を得てしまっていることに対するある種の背徳感から来るものである。

 だからと言って、それだけで授業を投げ出すようなことはない。ただ、ありがちな小さな背徳感の一つというだけである。だからこうやって考えながらも会話を続けられているのである。


「渚、考え事しすぎ。ちゃんと集中して話してあげなきゃ。」

「いや、ちゃんと会話はしてるって。」


 隣の楓から注意される。彼女たちは知り合いでもあるのだから、手探りの俺たちよりも早くは終わるであろう。彼女たちが手を抜いて知っている情報を埋めたからではなく、話しやすさの問題なのである。

 向こうを長く待たせるわけにもいかないのでペースを上げて質問を終わらせられるようにした。相手もそれを察してくれたようで少しペースを上げてくれた。


「花穂たち終わったね。」


 沙智と呼ばれていた女の子が俺の方へと向く。向くと言ってもお互いに対角上に座っているため、俺と沙智ちゃんの間に他の二人の声も飛んでくるような状態だ。

 少し話しづらい状態ではあるが周りもお同条件のようなので、できるだけ楓の方を気にしないようにして質問を始める。まずは、名前、そして出身、趣味というようにさっきまでと同じ順番で聞いていく。


「Aime-t-il Kaede?」

「えっ。あー、Oui.」


 プリントに記載されていない質問が飛んできて焦りながら照れながら答える。その様子を見て沙智ちゃんはにやにやとした表情を見せる。


 彼女を苦手な人のリストに追加した。

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