第一章 墓参り

 最寄りの駅に着くと、僕は学校と反対方向の電車に乗った。今日は学校をサボることにした。それよりも行きたい場所がある。幸いなことに、サボっても僕をとがめるような友達や、先生、親はいなかった。


 下り方面とはいえ、平日にも関わらず電車は空いていた。僕は一番端の席に座り、文庫本を開いた。

 僕は普段から本を読むことが好きだ。と言っても、評論や自己啓発本の類いではなく、主に小説を読む。それも持ち運びのしやすい文庫本。出掛ける時はいつも持ち歩いている。

 今読んでいる本はというと、とある明治の文豪が書いた、恐らく日本で一番売れているであろう小説だ。

 しばらく小説に読みふけっていると、目的駅の発車ベルで現実世界に引き戻された。慌てて本をしまい、電車を降りた。危うく乗り過ごすところだった。


 今日は、暖かくてとても過ごしやすく、長閑のどかな日だ。どこかでうぐいすが鳴いているのが、聞こえてくる。

 その場所に来るのは、一年ぶり二度目だった。

 目的地は、小高い山の上だった。しばらく坂道を登っていくと、石段があった。石段の両側にはたくさんの桜の木が植えられていて、ちょうど満開に咲き誇っている。ここは、知る人ぞ知る隠れた桜の名所だ。

 これを上りきると、一面開けた場所に出た。そこは静かな場所で、たくさんの石が規則正しく並んでいる。僕は、ある石の前で立ち止まった。

 もう一年も経つのか…………。

 僕は荷物を置き、まず挨拶をして、それから手桶ておけ柄杓ひしゃくをとりに行き、水をんで戻ってきた。石に水を掛けると、キラキラと光を反射させながら流れていった。

 駅から来る途中に購入した花を、花ばさみで長さをそろえ、花立に挿した。一緒に購入した線香を少量取り出して火をつける。

 途端に辺りは馥郁ふくいくたる香りに包まれる。

 線香を網皿の上に置き、再び手を合わせる。

 ……あの鍵は一体なんなんだよ…………。

 そんなことを拝みながら聞いたが、木々のそよぐ音が聴こえるだけで、無論返事はない。

 ここは本当に静かな場所だなと思った。


 さて、やるか……。

 僕は持ってきたハードケースを開け、中からヴァイオリンを取り出した。肩当てをつけ、弓を張って松脂を塗った。軽く調弦した後、目をつむり、おもむろに弾き始めた。


 ベートーヴェン作曲 ヴァイオリンソナタ 第五番 作品24 ヘ長調より第一楽章 アレグロ

 通称『春』と呼ばれるこの曲は、ベートーヴェンが一八〇〇年から一八〇一年にかけて作曲した曲である。当時ベートーヴェンは、持病の難聴が悪化する中この曲を作曲したというから驚きだ。


 そしてこの曲は、去年、中学の卒業式で【彼】と共に弾いた曲だ。それが【彼】と合わせた最後の曲となった。本来はピアノとヴァイオリンの曲だが、ここではもちろんヴァイオリンのみだ。


 冒頭は、まさに『春』と呼ばれる所以ゆえんであろう、非常に明るく美しい第一主題をヴァイオリンが奏でる。流れるようなこの第一主題は、朗らかな春の陽気を思わせる。

 けれども、この曲をちゃんと弾いたことのある演奏家は、皆知っている。

 この誰もが聞いたことのある、大変有名な旋律を、太く、かといって、美しく弾くのがいかに難しいことか。

 大抵、この曲を少しかじっただけの人が演奏すると、音が細くなってしまう。それでは、例えどんなに美しく弾いてもベートーヴェンにはならない。ベートーヴェンの内に秘められた情熱を表現しつつ、滑らかに美しい音色を奏でる。この案配が難しい。


 その後、第一主題をピアノが引き継ぎ、ヴァイオリンは分散和音で伴奏する。


 ん? ピアノ?


 ふと、どこからかピアノの音が聴こえた。うっすら目を開くと、【彼】が共に弾いていた。あの時のように…………。

 さすがは【彼】だ。

 あの難しい第一主題を理想的な音色で弾いてくれる。お陰で僕は気持ちよく合わせられる。


 その後、ピアノが先行して第二主題へと入る。

 第二主題では一転、ハ長調に転調し、ヴァイオリンへと旋律が移ると、ピアノは和音連打で伴奏する。途中で出てくる、リンフォルツァンドからのピアノ、というスビトピアノは特に難所だ。

 その後、ヴァイオリン、ピアノと速いパッセージを演奏し、最初へ繰り返す。再び第一主題、第二主題と繰り返した後、展開部へと入る。


 展開部では、第二主題を展開させて、ピアノが旋律を弾く。そして、ヴァイオリンが三連符で後を継ぐと、ピアノと交互に三連符で更に展開していく。

 ここは春の嵐を連想させる激しい箇所だ。

 その後、十六分音符で短二度の音型をピアノ、ヴァイオリンが共に弾き、緊張が高まったところで、再現部がやってくる。


 再び安定した第一主題を今度はピアノから奏でる。そしてヴァイオリンへと移り、戻ってきたと思いきや、すぐに短調の雰囲気を醸し出す。

 しかし、ヘ長調で第二主題が戻ってくると、また明るくなる。


 やがて曲も終盤に差し掛かり、コデッタに突入すると、再び展開部の片鱗へんりんが見えてくる。ピアノとヴァイオリンが交互に三連符を弾いた後、ピアノの速いパッセージに途中でヴァイオリンが合流し、最後は明るく華やかに終わる。


 一年前の光景を回顧した。

 みんながスタンディングオベーションしている。

 舞台の上から見えるみんなの笑顔

 満足そうな【彼】の横顔

 あふれる達成感

 そして、講堂に響く万雷の拍手

 まるで今起こっているかのように、ひとつひとつ鮮明に思い出される。

 段々と、拍手が一つに収斂しゅうれんしていくのを感じた。


 いや、違う……?


 一際目立った拍手が聴こえてきて、瞑っていた目を開いた。

 果たして、拍手のような音が実際に鳴っていた。

 振り返ると、手をたたきながらこちらに向かってくる、一人の少女がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る