星と話す夜
増田朋美
星と話す夜
星と話す夜
今日も不思議なことに、パリの天気は快晴だった。いつもなら冬真っ盛りで、どんよりして薄暗い空が当たり前なのに、どうしてこんなに晴れているのかわからないと、人々は不思議がっていた。
「水穂、ご飯よ。」
トラーが、おかゆ入りのお皿を持って、客用寝室にやってきた。水穂も今日は調子がよかったのか、目を覚まして布団の上に起きた。
「気分はどう?」
「あ、ああ、すみません。わざわざ持って来て下さって。」
トラーの質問に、水穂はちょっと申し訳なさそうに言った。
「すみませんなんか要らないわよ。今日の気分を聞いているんだから。起きていられるんだから調子がよさそうね。ついでと言ってはなんだけど、しっかり食べて頂戴ね。」
トラーは、サイドテーブルに、器をおいて、おさじでおかゆをかき回し、おかゆをおさじで掬った。そして、水穂の口元まで持ってきた。
「はい、どうぞ。吐き出さないで食べてね。」
そういわれて、水穂はおさじを口に入れた。その時は、変に咳き込むことはなく、そばがゆを飲み込んだ。
「あら、嬉しい。食べてくれてよかった。じゃあ、食べられたら食べて、元気を付けましょう。」
日本では、食べられたら以降のセリフは出るかもしれないが、その前にある嬉しいという言葉は、出ないだろうなと思われた。そういう所が日本と西洋の大きな違いである。
「ほら、それじゃあ、もう一口。」
そういわれて、トラーから受けとったおさじの中身を、水穂は飲み込んだ。でも、その顔は、何か哀しそうで、辛そうだった。
「どうも元気がないわねえ。そばがゆ、おいしくないの?」
そういわれて、水穂は答えを出すべきなのか迷っているような仕草をした。
「そういうわけではないのですが、、、。」
「それなら、食べたくないの?」
トラーがそう聞くと、水穂はちょっと首を縦に振った。
「だめよ。杉ちゃんが作ってくれたんだから。食べたくないって、そんなこと言ったら、失礼じゃない。それにあたしだって哀しいわよ。」
もう一度、おさじを渡して食べさせようと試みたが、三度目には水穂は受け取ろうとしなかった。
「何で、食べたくないの?」
うつむいたまま黙っている。
「じゃあ、何か別の事で悩んでいることでもあるのかしら?」
水穂は一つ頷いた。
「じゃあ、その悩んでいることを今ここで出しちゃってよ。そうしないと、食べられないっていうのならそうしちゃいなさいよ。出ないと新しい物は入らないわよ。」
「日本に帰りたい。」
水穂はたった一言、それだけ言ったのだが、トラーの口調はちょっときつい口調になって、
「だめ。日本は、地震のせいで、停電がすごいんだって。テレビのニュースでやってたわ。」
というのだった。実をいうと、日本も色んな所があって、大地震が起きて停電しているのは、北海道というだけであり、ほかの地域はなにもないという所を、トラーに説明したかった水穂だが、返事の代わりに咳が出てしまった。全く、タイミングの悪いときにどうしてこうなるんだろう。
「ほらほら、そんなんじゃよけいに帰ってもらうわけにはいかないわ。もうちょっと、体力がついてから、日本に帰ってよ。」
親切に背中を叩いたりしてくれるトラーに、水穂は返答ができないのであった。
「停電がすごいんだから、電車も飛行機もみんな止まってるわ。病院だって、ちゃんと治療できないんじゃないかしら。そんなところに、あなたを返すわけにはいかないの。」
そういいながらトラーはそばがゆをかき回した。改めて咳き込んでいる水穂に、おかゆを食べるように促すが、水穂は応えられなかった。
「それじゃあ、いつまでも食べれないじゃないの。帰りたかったら、もっと体力を付けて動けるようになってね。」
不意に玄関のインターフォンが鳴った。
「おーい、今日は君の病院にいく日じゃないのかい?」
玄関先でチボーがそういっている。水穂はまだ咳き込んだままだったが、トラーのほうへちょっと目配せをした。
「だめ、放っておけないわ。止まるまでずっといるから。」
遂に咳き込んでいる水穂の口の中からぼたぼたと朱いものが漏れてきたので、トラーは急いでそれを拭きとった。と同時に入るよという声がして、人が廊下を歩いてくる音がする。西洋ではあまりプライベートがどうのという意識は薄いらしく、平気で上がり込んでくることも多いのであった。
「おい、早くしないと遅れるよ。何をやっているの?」
ガチャンと客用寝室のドアが開いて、チボーが顔を出した。そして、部屋の中でなにが起きているかをすぐに知って、
「おいおい、これではいけないだろ。血が出たらすぐに、薬を飲ませて眠らせてやらなくちゃ。」
と、チボーは、枕元にある吸い飲み代わりのティーポットをとって、水穂に中身を飲ませた。これでやっと咳き込むのは治まって、水穂は停電したように静かになった。
「ああよかったよ。薬が効いてくれて。こうしなければ本人も君も楽にならないだろう?」
チボーがそういうと、トラーはちょっとため息をついて、
「ねえ、水穂、いつになったらご飯を食べてくれるかな?」
と、心配そうに言った。
「なんだ、また食べなかったのか。」
チボーが驚いてそういうと、
「そうなのよ。日本に帰りたいとか年寄りみたいな事言い出して、あたし返事に困っちゃったわ。」
トラーは困った顔をした。
「だけどねえ、日本はいますごいことになっているそうじゃないか。停電もすごいし、反政府デモがあちらこちらでおきていて、すごいことになっているみたいだよ。そんな危ない所へ絶対に戻すわけにはいかないよ。君のお兄さんだってそういうだろう?」
「そうだけど、あたしたちの目を盗んで帰ろうとしたらどうしよう。」
トラーはちょっと弱気になったのか、そんなことを言い出した。
「馬鹿だなあ。そんなことしないよ。ただでさえ動けないんだから、するはずもないでしょうが。とにかく、君も早く病院にいかなくちゃ、君だって、まだ医療関係が必要なんだから。」
チボーはトラーを心配してそういったのだが、トラーは完全に自分のことなど忘れているようで、水穂さんの方ばかり見ている。それは、自分の事ばかりではなく、他人のほうに意識がむいているということで、精神状態が変わり始めたというよい兆しなのだが、そうなると、もう自分のほうへはむいてくれないのかなと、チボーは哀しくなった。トラーが精神疾患から回復していくことはとてもいいことなのだが、それは、ちょっと哀しいなと思われることなのであった。
「今日は病院には行きたくないわ。水穂のそばに居たいから。」
そう、病院に行きたくないという言葉こそ、精神関係には最も回復している何よりの証拠になる言葉なのである。
「あたしは、今日一日ここにいるつもりだから、チボーはもう帰ってくれて結構よ。」
そういわれて、自分は彼女に捨てられてしまったのかと、チボーは残念な気持ちになった。
「それよりさ、今日はお兄ちゃんも仕事だから、杉ちゃんと買物に行って、通訳してやってよ。」
そんなことまで言われてしまう羽目になったか。暫くは杉ちゃんといたほうがいいなんていうのか、とチボーは思ってしまった。自分はもう用なしか。なんだかそれも哀しいな、、、。
でも、今はとりあえずそうするしかないので、チボーはわかったよと言って部屋を出て行った。この上なく哀しい気持ちに成りながら。
次の日。水穂は咳き込まずに布団の上に座った。いわれた通りにおかゆも食べて、紅茶ものんだ。
「今日は咳き込まないのね。良かったわ。昨日みたいなことをされたら、あたし、どうしようかと思っちゃった。」
トラーはよろこんでお匙をお皿の中へ戻した。
「ご飯食べたら、ちょっと歩いてみない?お天気もいいし、公園でものんびりと。」
トラーはゆっくりと水穂の方を見る。それはやっぱり自身の色気で勝負しているという事だろうか。そんなこと、本人はしていないのかもしれないが、やっぱりそうみえてしまうのだった。
「ねえ、行きましょうよ。公園は広いし、少し歩けば食べようという気になるんじゃないの?」
トラーに急かされて水穂は布団から起き、しぶしぶ着物を着替えて袴をはいた。トラーはその間、何も邪魔しなかった。
「じゃ、行きましょうか!」
そんなことをいいながら、トラーは水穂の手を引っ張って家を出て、公園に向かって歩いて行った。公園は、自由広場も、テニスコートも雪で真っ白だった。
暫く公園のなかを歩いていると、雲行きが段々怪しくなってきて、黒雲が空を覆い、冷たい風が吹いてきた。
「寒い。」
水穂はそういうが、トラーは平気な顔をして歩き続ける。せめて二重廻しでも着用してくるべきであったと後悔した水穂だが、そんなことを考える暇もなく、トラーについていくだけで精一杯だった。やがて、ちらり、ほらり、と雪が降ってきた。トラーは平気だが、水穂には凍えるような寒さだった。冷たい風が吹いてきて、二人の顔に雪を打ち付けた。
トラーが暫く歩いていると、ふいに後ろからどさんという音が聞こえてきた。何だと思って振り向いたら、水穂さんが咳き込みながら、雪の上に倒れていたのであった。
「水穂大丈夫?歩ける?」
彼女は、雪の上に倒れていた水穂を抱え起こしたが、口元から赤い血液を漏らしたまま、目を半開きにして何もこたえなかった。
「しっかりして水穂!」
もう一回声をかけても返事はない。直ぐにトラーは水穂を抱き上げて、雪の中を何回も転びそうになりながら、家へすっ飛んでいった。家の鍵を落っことして居なかったのが、本当に幸いであったと思う。
直ぐにヒーターをつけるのも忘れて、水穂を客用寝室の布団に寝かせてやった。帯を緩めてやりたかったが、解き方がわからずそのままにするしかなかった。トラーはクローゼットを開けて、かけ布団をもう一枚取り出し、水穂にかけてやった。
しばらくしたら目を覚ますかなと思ったが、水穂はいくら待っても目を覚まさなかった。夕方になって声をかけても何の反応もしない。トラーは少しばかり怖くなり、居間の電話台の方へ走って、急いで電話をかける。
「もしもし、ちょっと来て、お願い。」
「どうしたんだよ。」
チボーが間延びした声でそういっているのが、トラーにはじれったかった。
「水穂の様子が何だかおかしいのよ。」
「どうしたんだよ。様子がおかしいって。」
「ずっとねむったまま、おきないのよ。ねえ、どうしよう!」
チボーは、また馬鹿なことをしたなとか、そういうことを平気で言えるタイプの男ではなかった。それよりも、直ぐにそっちへ行くからと言って電話を切る。
数分後、チボーが客用寝室まで飛び込んできた。一人で来るのかと思われていたが、何と、ベーカー先生まで連れてきていた。
「なんでベーカー先生まで。」
「だっていずれにしろ、医者に診せなきゃいけないだろうからと思って、連れてきたんだよ!」
その間に、ベーカー先生は、患者である水穂さんの観察をどんどん始めてしまう。声をかけてみたり、体を叩いてみたりして、昏睡状態であることを確認した。チボーはその間に、スマートフォンで、マーク連絡を取り、急いでもどってきてくれと頼んだ。ベーカー先生は深刻な顔をしていた。そのうちに、マークも杉ちゃんももどってきてくれたが、二人とも顛末を知って、
「も、もうだめだろうか。」
「う、うん。」
などと話していた。すると、ベーカー先生が杉ちゃんたちのほうを見て何か言った。マークが直ぐに、
「あ、あのね、これはもう病院に入れたほうがいいと。もう、危ない状態なので、そのほうがいい。すぐに手配しますから、電話をさせてくれる?」
と通訳した。その通訳も変な文面になっていた。
「ま、待ってくれ、そういう事なら、このままにしてやってくれないかな。」
スマートフォンを取ったベーカー先生に、杉三は静かに言った。
「あいつ、いやだと思うんだよ。そういうやり方でおしまいにしちゃうよはよ。それよりも、最期の最期まで、あいつらしくさせてやりたい。知らない人たちの前で一人寂しく逝かせるよりも、信頼できる僕たちの前で逝かせてやりたいんです。すみません、そうさせてやってもらえないだろうか?」
杉三が頭を下げると、日本語のわかるマークたちは、そうだよなと思って黙りこくった。しかし、それを理解できないベーカー先生は、三人の顔を見まわして、何を言っているんだという顔をし、改めて電話をかけようとした。すると、トラーが思わず、
「やめて!」
と、それを止めた。でも彼女にはその先の文書を言うことは出来なかった。代わりにチボーが、杉三の言葉を通訳した。ベーカー先生はよくわからないなという顔をする。
「あ、あのですね。日本人は確かに馬鹿ですが、相手のことを思ってやる気持ちだけはあるんですよ。自分の事はどうでもいいから、最期までそばに居てやりたいっていう気持ちだけは強いんです。何でも専門家に任せてしまう西洋人とはそこが違うのさ。こういう時、日本の病院では、そばに居てやることを許してくれる。そうさせてくれないだろうか。お願いします!」
チボーが通訳すると、ベーカー先生はまた何か言った。マークが、
「日本人は、そういうことが言えるなんて、すごく気の強い人が多いのですか?誰だって、最期の瞬間は、自分がつらくて、見たくないのでは?」
と、通訳した。
「いや、気が強いんじゃありません。ただの馬鹿なだけだい。偉くもないし、すごい地位が高いひとでなくても、自分のつらさなんかどっかに捨てちまって、他人に寄り添ってやりたいとか、そばにいてやりたいとか、そういう気持ちだけは、一杯あります!」
杉三がそういうと、チボーの通訳をとおしてそれを理解したベーカー先生はまた何かいった。
「わかりました。日本人の方のいう通りにしましょう。でも、何かあったら、直ぐに病院に連れていきますよ。なぜならですね、ここでは瀕死の方を放置しておくということは、殺人にあたって逮捕されてしまうんですから!」
チボーがベーカー先生の言葉を通訳すると、水穂がまた咳き込みだした。ベーカー先生が直ぐに指示を出すと、マークが、その通りにタオルを取りに風呂場へ行った。
「杉ちゃんと水穂さんと、二人だけにしてやろう。」
チボーはトラーにそっという。トラーはいやだと言ったが、チボーはその通りにしたほうがいいと言った。杉ちゃんのいうことが正しければ、僕らは邪魔をしてはいけないと言い聞かせた。彼はトラーの手を引っ張って、部屋の外へ出してやり、居間へ連れて行った。
「ああいう時は、できるだけ邪魔してはいけないと思うんだ。水穂さんと一番仲良しだったのは、杉ちゃんだからね。それに、一番悲しいのも、水穂さんのそばにいた杉ちゃんだから。」
「あたしだって、おんなじよ!」
トラーは、その先がどうしてもいえないようだった。チボーは、トラーが水穂のことを本当に好きなんだなと悟った。たぶんきっと、僕の事は忘れて、一生水穂さんのことを思って彼女は生きていくんだろうなと考えると、チボーは耐えるに忍びなかったが、それをぐっと隠して、こう発言する。
「もし、これから本当に、未亡人のつもりで生きていくんだったら。」
「そんな、そんなこと。」
トラーはまだ落ち着いて居ないようだったが、チボーは一生懸命考えて、
「もし、水穂さんが星になってしまったら、そういう事なら、星を眺めていけばいいんだ。ちょうど見てごらん。星がきれいに出ているじゃないか。」
そういって窓のそとを指さした。
「そうだよ。毎晩毎晩星を眺めればいいんだ。これからは水穂さんと話す夜ではなくて、星と話す夜にすればいい。それはきっと、水穂さんにも届く。」
「そうね。」
もっと食いついてくるかなと思ったが、彼女はそれだけしか反応しなかった。トラーがもう少し、自分のことを見てくれればいいのになと、チボーは思ったけれど、今の彼女にはそれは無理そうだった。でも、彼女の肩にそっと手をやると、振りほどかずに居てくれたから、そこは良かった。
「僕たちは、静かに見送ってあげよう。」
「はい。」
二人は、いつまでも窓の外の星を眺めていた。星はチカチカ瞬いたり、さらっとながれたり、そんなことを繰り返していた。
やがて、星空は静かに消えていき、太陽が顔をだし始めた。太陽は、静かに雪でおおわれた地面を照らし、雪はきれいに反射していた。
客用寝室では、杉三に左手をしっかり握られていた水穂さんの目が少し動く。
「お、おい、おい!今目が動いたぞ!」
杉三がでかい声でそういうと、ベーカー先生も声をかける。マークが急いで、
「水穂さんわかりますか?」
と、通訳した。気を失っていた水穂さんがぱっちりと目を開けたのである。
「この馬鹿野郎。もどってきてくれたのか!おい、何か言ったらどうなんだよ。」
と、杉三が言うと、
「杉ちゃんごめん、夢見てた。」
と、水穂は一言呟いた。反対の手で脈を取っていた、ベーカー先生が、安心したように溜息をつく。
「大丈夫です。持ち直したようです。」
という意味の事を発言して、にこやかに笑った。すると通訳もないのに杉三が、
「ど、どうもありがとうございました!」
とでかい声で言った。ベーカー先生も理解してくれたようであったが、直ぐにまた何か言った。
「いやね、杉ちゃん、意識が回復したばかりの人に対して、馬鹿野郎というのはやめたほういいじゃないかと言っている。」
急いでマークが通訳すると、
「いや、日本人の馬鹿野郎は、親しみを込めていう言葉だ。馬鹿野郎は愛情表現でもあるんです。」
と、杉三はからからと笑った。マークは、後の二人に伝えてくると部屋を出た。杉三は水穂に、
「長い夢を見てたな。」
と言った。水穂は照れ笑いをして、
「ごめんね。」
といった。
星と話す夜 増田朋美 @masubuchi4996
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