キス

僕らはカフェを後にした。雨のじめりとした空気を晴れた空が浄化している。水溜まりを覗くと不意に出た太陽に目潰しをくらう、残像が僕の視界を遮って、世界にモザイクをかける。

「私ね、素敵な場所を見つけたんだ」

カフェとはまた別の喧騒の中僅かに聞こえたその声を拾う。

「ほう、行きたいな。ねえ、どこにあるの?」

僕は咲菜とならどこでもよかった。

「来ればわかるよ」

咲菜はそう言ってまた笑うと、僕の掌をとって歩き始めた。放置自転車の群れをぬけ、ボロボロに錆びれた看板を横目に歩く。どこへ行くのだろうかと考えを巡らせる。因みにカフェに僕を誘ったのは咲菜だ。だから、最近できたお店とか、オシャレな服屋さんとかそういう、キラキラした活気に充ちた空間へと連れてってくれるだろうと僕は、勝手に思い込んでいた。道はだんだんと凹凸が目立つようになり、その隙間から雑草が顔を出している。陽は傾き始めていたがさほど疲労を感じることはなかった。

僕らはだんだんと緑の目立つ森の中へと入っていった。

さっきまでの雨がまだ葉っぱの上に身を留めていて、僕の肩とか咲菜の髪とかを濡らしていた。それでも幸いなことに、目的地まではずっと歩道が延びているようで靴が泥にとられることはなかった。

僕らは体を少しずつ濡らしながら森の中を歩いていくと、開けたところに出た。そこには屋根付きの古いベンチと少し離れたところにスプリング遊具がふたつ、忘れられたようにたっていた。その遊具がまるで僕らのメタファーのようにも感じた。

「ねぇ、そこに座って」

僕は無言で頷く。屋根のおかげで濡れていないベンチに腰掛ける。不思議とベンチに懐かしさを感じる。そう言えば、いつぶりだろうかベンチにこうして座るのは。ふと、顔を上げるとえも言われぬ景色が広がっていた。

そこは確かに、僕の住んでいる街の風景だった。けれど、それら全てが暗黒色に染まりきっていて、街を切り絵のように形だけ切り取っている。夕焼けが昼間はあんなにも純白に光っていたいわし雲を茜色に染めていて、空を突き刺すように電柱の形をした影が何本も伸びていてそれはさながら戦争にいかんとする兵士が剣を振りかざしているようにも見えた。

「すごいね。こう…なんと言えばいいか」

僕は言い淀む。言葉にならないし言葉にするべきかもわからない。とりあえず咲菜にお礼は伝えたかった。

「連れてきてくれてありが…」

目の前の景色が一瞬だけ遮られたかと思うと、唇に当たる何かを感じた。


それは咲菜の唇だった。


柔らかなそれはいつまでも静かに僕の唇の上に重なっていた。突然の出来事に僕は呆気にとられていたけれど、それでも到底それを拒む気には慣れなかった。咲菜の細い腕が僕の体を包んでいく、僕も同じように咲菜の体を抱きかかえていく。僕らはやっぱりお互いの欠如したものを埋めあっていた。それはとても神聖な出来事だった。

どれくらい経っただろう、僕には数時間にも思えるくらいだったけどまだ夕日は沈んでなかったからきっと数分の間だった。咲菜は僕の口からそっと離れた。そして、なんの脈絡もなく、でも決して不自然でもなく、ごく普通にさらりとさっきまで僕の唇に密着していた口からこぼれた。

「ね、私の家近くなの。これからセックスしない?嫌なら無理にとは言わないけど、コンドームも買ってさ。ね、いいでしょ」

咲菜はまた笑って言っていた。目が3日月みたいに細くなっていた。でも、何故だろうか、咲菜がふざけて言ってないということだけは──真面目に言っているということだけは痛いくらいに分かった。その声の中にはやはり孤独が混ざっていた。

僕はまた黙って頷いた。なんと言えばいいのか、分からなかった。夕日はもう沈みかけていた。

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