サイトウくん

@nare

サイトウくん


 もうこれっぽっちも小説なんて書けないんじゃないか、と思う時がある。時々。いや、最近はかなり頻繁に。

 才能を過信できる年齢ではなくなったし、出版のキャリアを積み重ねてきたわけでもなく、特定の専門知識を持っているわけでもない。

 執筆に打ち込めている時は別だけど、書くものが見定められない時はひどく絶望する。暗闇が濃くなり、空気が重く感じて、息ができなくなってしまう。

 そんな時、サイトウくんの言葉を僕は思い出す。

「ナレさん。人生ってのは願ってさえいれば、その時にどうにかなっちゃうものなんですよ」

 バカみたいな言葉だ。でも、この言葉が今でも僕を支えていたりするのだ。


   ☆


「ぼくのことはサイトウではなく、きんぐと呼んでください」

 サイトウくんのアパートに遊びに行った時、彼は出し抜けにそう言った。脈絡がないし、名字とも名前とも関係がなかった。

「いや、意味がわからないんだけど」

 きっと合理的な説明が続くものと思っていら、それで終わりだった。伝えたいことはもう伝えたとばかりに、彼は別の話題に移っていた。

 サイトウくんとは僕が大学三年生の時、居酒屋のバイト先で出会った。僕が数ヶ月先輩で、彼は後輩だった。年はたぶん僕が二つくらい上だっただろう。

 仕事は皿洗いだった。ホールから返却されてきたグラスや皿を洗って厨房に戻す。大きな汚れは手で落とし、細かいものは大型の食洗機にまとめて投入する。単純で誰にでもできる仕事だけれど、店が混雑してくると器が足りなくなって厨房からせっつかれる。要するにスピードが問われる仕事だった。

 そんな中、サイトウくんはとても仕事が遅かった。初日は慣れていないから仕方がないけれど、日を重ねても彼のスピードは上がらなかった。仕事に限らず言動そのものがゆったりしていて、話すのも、歩くのも、とにかくすべてが緩慢だった。遅いというより急ごうという気概がない。彼と一緒にシフトに入るかどうかで業務量に大きな開きが出るようになった。

 当然、同僚たちの当たりは強くなった。僕は内側に溜め込むタイプだったので、最低限のコミュニケーションで済ませるようにした。

 認識が変わったのは先輩の送別会でのことだった。

 古株の先輩が退職することになり、皿洗いチームで飲み会を行うことになった。サイトウくんにも声をかけることになったけれど、まあ、形の上での話だ。どうせ来ないだろうと僕は高をくくっていた。

 ところが彼はやってきた。付き合いで仕方がなく、という感じではなく、笑顔で待ち合わせ場所に現れた。ピンクのシャツを着ていて、意外と私服がお洒落だった。

 風当たりが強いのにどうして来るんだろう、と僕は不思議に思った。面倒だな、とも。

 僕は彼から一番離れた席を取った。

 皿洗いチームはお互い年が近かったけれど、仕事以外での共通の話題は乏しかった。だからもっぱらサイトウくんをいじる流れになった。僕はそこに加わりたくなかったので隣の同僚とほぼ一対一で話をしていた。

 急に場が賑やかになった。サイトウくんを囲んだ同僚たちが彼を大いにもてはやしている。冷やかしているとか、嘲笑っているのではない。サイトウくんは嬉しそうに笑っている。

 話に加わっていなかった僕は「何の話?」と横に訊ねた。すると意外な答えが返ってきた。

「サイトウくん、彼女いるんだってよ」

「はあッ!?」

 思わず腹から声が出た。今思うと失礼極まりない反応だったけれど、その時は絶対にそんな相手はいないだろうと思い込んでいたのだ。別にそれは僕だけではなく、皿洗いチーム全員の共通認識だった。だからこそ場が異常に盛り上がっていたのだ。

 そこからはもう送別会ではなく、サイトウくんを主賓にした歓迎会だった。芸能人では誰に似ているのかとか、どうやって知り合ったのかとか、ヒーローインタビューのように質問が繰り出された。彼が明かした情報によると、相手は専門学校の同級生とのことだった。どこまで関係が進んでいるのかという問いには「エヘヘ」と笑って答えなかったが、それが既に答えになっていた。さらに驚かされたのは今の彼女は三人目ということだった。世界が覆ったかのような衝撃だった。サイトウくんはモテるのだ。

 ちなみにその時点で皿洗いチームは他に彼女がいる人間はいなかった。モデルみたいな顔のイケメンがいたけれど(数年後、上京した彼は実際にモデルになった)、そんな彼でさえ今はフリーで彼女募集中だった。サイトウくんだけが勝利者だった。まさに皿洗いチームの王様だった。

「まさかサイトウくんに彼女がいたなんて……」

 僕は脱力してバカみたいに同じつぶやきを繰り返した。皿洗いチームの中で僕が一番動揺していた。できるだけ関わらないようにしながらも、心の中では僕が最も彼を見下していたのかもしれない。

 サイトウくんはそんな僕に対して決して偉ぶりはしなかった。ただ嬉しそうに照れ笑いしているだけだった。まるで僕が心底祝福してあげているかのように。

「逆にさ、この中で一番彼女いなさそうだと思うのは誰?」

 誰かがサイトウくんに質問した。

「……えっと」

 サイトウくんの返答は遅い。もしかしたら誰の名前を上げても角が立つから適当に誤魔化すのかな、と思った。たぶん僕ならそうしていただろう。

 ところが彼は意外にも迷いなく相手を指差して言ったのだ。

「ナレさん」

「テメエ!」

 普段出さない声が出た。ワハハ、と笑いが起きた。確かに僕は社交性が低かった。慣れた相手としか基本的に話さない。今の言葉で言うところの陰キャだった。モテなさそうと思われても仕方がない。まあ、実際にモテなかったわけだけど。

 屈辱だった。敗北感もひどかった。でも不思議なもので、この「ナレさん」「テメエ!」のやり取りで感情を大いに交換したみたいになった。その後、彼とは急転直下の勢いで仲良くなった。漫画やシミュレーションゲームでよくあるアレだ。最初に嫌っていた相手ほど仲が良くなるのは早い。


   ☆


 サイトウくんのアパートには彼が専門学校を卒業するまで四、五回くらい遊びに行ったと記憶している。彼のアパートは八幡宮神社の近くで、僕のアパートからは地下鉄を含めても片道45分ほどかかった。往復したら90分だ。最初は日帰りしていたけれど、だんだん帰るのが面倒になって、後半はよく泊まっていくようになった。

 一対一で遊んでみるとサイトウくんはとてもいい奴だった。遊びに行く度に嬉しそうに歓迎してくれるのだ。仕事ではないから急ぐ必要もないので、彼のゆっくりな動作に苛立つこともなかった。

 サイトウくんは真顔で冗談を口にすることもあった。ある時、急に真面目な顔で自身の秘密を打ち明けてきたこともあった。

「ナレさん。実はぼくは女性の服を透かして見ることができるんですよ」

 そんなわけないだろう、とツッコミをするのは野暮ったかったので、僕は「それってどういう風に見えるの? 着てないように? それとも透けてるように? 内蔵まで見えてしまったりすることはない?」と聞いた。

 でも彼にとっては嘘をつくことにそこまでのリアリティーは求めていなかったようだ。単純に僕の質問を面倒臭いと思ったのかもしれない。「とにかく、見えるんですよ」と言い切るのみだった。今でもそんな嘘をついてどんな利益があったのか僕にはよくわからない。

 ある夜、僕は小説家になりたいという話をした。それは僕の高校二年生の時からの夢であり、アイデンティティーだった。バイト先でも大学でも数人にしかこの話はしたことがない。

 サイトウくんの部屋には漫画や雑誌は転がっていたけれど、活字はほぼ皆無だった。サイトウくんは音楽が好きらしく、ピアノとギターが数本あった。カラーボックスにバンドスコアが整然と収納されていた。

「すごいじゃないですか、ナレさん!」

 サイトウくんは満面の笑みで僕を祝福してくれた。

「きっとナレさんならなれますよ! 夢を持っているなんて素敵だなあ。憧れちゃいます!」

 そう言ってもらえて素直に嬉しい気持ちはあった。ただ、その時はかなり仲良くなっていたこともあり、もっと親身になって受け止めてもらいたかった。表面的な応援なら誰だってできる。

「いや、でも、小説家になるのってすごく大変なんだ。新人賞に応募して賞をもらわないといけないし、努力はもちろんだけど、持って生まれた文才もないといけないかもしれない」

「そうなんですか? でもナレさんは作品をいくつも書いてるわけですよね?」

 まあ、と僕は言葉を濁した。僕がそれまでに書き上げた作品は多いとは言えなかった。高校二年生の時にライトノベルの新人賞に長編を一つ応募し、大学に入ってからは一般文芸にいくつか。いずれも一次選考すら通ったことがなかった。一度だけ電話がかかってきたことがあったけれど、話をよく聞いてみたら自費出版の誘いだった。書くことは好きだったけれど、形にできるのはほんの一部だし、それが面白いかどうかはまた別の問題だった。

「そっかー。小説家になるのって大変なんですねえ」

 サイトウくんは僕の話を聞くと大きく頷いた。彼は人の意見を否定することがほとんどなかった。もしかしたらその共感力、包容力みたいなのが異性にモテる秘訣だったのかもしれないけれど、ただ話を合わせているだけなんじゃないか、とその時は思った。

「サイトウくんは何かなりたいものや夢はないの? 仕事とは別に」

 彼は保育士の専門学校に通っていた。男としては珍しいので、最初に聞いた時はそれが彼の明確な夢なのかと思っていた。でも彼はそれとこれとは違うと言った。

「夢。夢かあ。なんだろうなあ。そうだ。ぼくはね、映画監督になりたいんですよ」

 僕は思わず前のめりになった。僕はそこまで映画に詳しいわけではない。でも作品作りという点で映画と小説はかなり近いと思っていたので、よりいっそう親近感を抱いた。

「もっと詳しく!」

「いや、ぼんやりとなんですけどね」

「どういう作品を撮りたいの?」

 僕の大学には同じゼミで、映画部に所属している知人がいた。でも彼は自己主張が強く、接していてあまり好ましい相手ではなかった。だからサイトウくんから映画を撮りたいと聞いた時、ようやく自然体で話の合う相手に出会えたと思ったのだ。

 ところが矢継ぎ早にあれこれ訊ねても、彼の返事は曖昧だった。好きな映画を訊ねても、地球に激突する隕石を破壊するメジャーなタイトルだったし、好きな俳優も単に流行りの有名人を挙げているに等しかった。撮りたいテーマがあるわけでもないみたいだったし、撮影の機材は一切持っていなかった。

 次第に僕は、彼はただ憧れで言っていただけなのだと気がついた。言うなれば小学生がアンケート用紙に将来の夢を書いただけのこと。そこに現実的な可能性や、確固たる動機は書かれていない。書く欄もない。それを僕は根掘り葉掘り問いただそうとしていたのだ。空気が読めていなかった。

「……まあ、実際に映画監督になるためには映像系の専門学校に通って勉強して、その手の会社で下積みをして、チャンスが巡ってくるのを地道に待たないといけないらしいからね」

 僕は映画部の知人からの受け入りを口にした。別の進路を選んでいる時点でもう可能性はゼロに等しい。よく言うやつの反対だ。夢はかなえるものではなく見るものだ。それで話を切り上げるはずだった。

 ところがサイトウくんは曇りなき眼で言った。

「ナレさん。真面目に考えすぎなんじゃないですか?」

 あまりに能天気な口調に僕は驚いた。思わずとっさに反論した。

「いや、だから小説は競争が激しいし、努力も才能も必要なんだ。映画監督だってそうだ。いや、専門的なところで学ばなきゃいけない分、もっと大変かもしれない。ほぼ不可能だ」

 僕の方が現実的な話をしているつもりだった。なのに僕の話は彼にまったく通用しなかった。

 普段は人の話をほとんど否定しない彼が、この時だけは僕の意見を真っ向から突っぱねて言ったのだ。

「ナレさん。人生ってのは願ってさえいれば、その時にどうにかなっちゃうものなんですよ。なりたいものに、急になっちゃうものなんですよ!」

 バカなんじゃないかな、とその時は思ったし、今でもそう思っている。


   ☆


 それから一年後、サイトウくんは専門学校を卒業して地元の秋田に帰った。後に連絡を取ったところ、当時の彼女とは別れたけれど、大曲花火大会の日に新しい彼女と結ばれ、今は運送会社に勤めながら妻子を養っているのだそうだ。

 僕も地元の岩手に戻った。それから5、6年後に僕はライトノベルの賞をもらって小説家になった。知識と技術の研鑽の果てに苦労してデビューするものだと思っていたけれど、そのチャンスはほとんど伏線も前触れもなしにやってきて、いつの間にかなってしまったようなものだった。

 シリーズを三つ出し、間を挟んでからもう一冊を上梓した。でもその後は暗闇の中でまた足踏みをしている。

 大学生の頃はデビューさえすれば明るい道を自動エスカレーターに乗っかるように進んでいけるものと思っていた。でも現実はそこまで優しくも容易くもなかった。

 今も書き続けてはいるけれど、小説で得たものよりも失ったものの方が大きい。そのスケールを考えると息苦しくなってくる。肺に重い空気が溜まっていって、呼吸ができなくなりそうになる。

 そんな時、サイトウくんの言葉を思い出す。

「ナレさん。人生ってのは願ってさえいれば、その時にどうにかなっちゃうものなんですよ」

 あまりの言葉の軽さに「ハハッ!」と吹き出してしまい、僕はまた息が吸えるようになる。


                             おわり





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