第6話 イヅモ 一

―暗いのぅ---。―

 カヅチの船の兵達は、一様に思った。冬のイヅモの空は、重い雲に閉ざされている。陰鬱な灰色がかった乳白色の空は異界を思わせる。カヅチ達の住む土地の冬とは全く違う。

 カヅチ達の住む土地の冬は、どこまでも青い空の下、乾いた風が吹き抜ける。雪ですら、滅多に降らない。

 だが、イヅモは風さえも重く湿って、暗鬱な気分を

いや増す---。

 そして、ここにも、山塊が果ても知らぬほど連なっている。どこかクマノと似た景色ではあるが、クマノの空と海は今少し青い。

―黄泉との境におるようだ---。―

 ザクザクと砂を踏んで、集落のあるあたりへと近づく。剣を帯び、盾を構える一団を遠目に見ただけで、おそらくはそれと分かるだろう。

 矢をつがえてくるか、物陰から切りかかってくるか---皆の顔には一様に緊張が走る。


 視線の先に幾ばくかの人影が見えた。剣を振り上げ、先走ろうとする若者を抑え、カヅチは、ずい---と一歩を踏み出し、大声で呼ばわった。

「我れらは、ヒルメ殿の使者として遣わされし者、このクニの主は何処ぞ?」

 すると、近づいてきた男が、静かに口を開いた。

「これは、遠来よりようこそ。」

 軽く頭を下げ、カヅチを見やる。至って穏やかで静かな物腰で---殺気は無い。が、じんわりと染み入ってくるような威圧感があった。

「我れがヤチ、このクニの長でござる。---もっとも、もぅ隠居のようなものですが---。」

 あくまでも慇懃な態度ではあるが、穏やかな笑みには、威厳が漂っている。

 生来は優男なのであろうが、幾多の苦難を越えてきた粘り強さが、長として王としての品格を作りあげていた。

―呑まれては、ならん。―

 カヅチは、腹の中で密かに呟き、警戒を強めた。

 幾度ものヒルメの使者が使命を果たせず、このクニに居着いてしまったのは、この男の包み込むような重圧感、威厳に呑まれたがゆえ---と、対面した今なら、解る。並みの者なら、この奥深い、されど恐ろしい笑みに抗いきれないだろう。

―だが、我れはフツの長じゃ。フツは何物にも呑まれぬ。―

 カヅチは、剣の柄をぐぃ---と握りしめ、抜き放って、男にその切っ先を突きつけた。

「ヒルメ殿は、このクニをヒルメ殿に差し出せと仰せじゃ。速やかに恭順の意を示されよ。」

「これは異なことを---。」

 男は揺るびもせず、カヅチをじっと見た。

「そなた、ヤマトの民ではあるまいに---。何故に使いなどなされておる?」

 一瞬、ぐ---と言葉に詰まった。傍らにはツヌがいる。ここで揺らぐわけにはいかない。

「我れはフツの長じゃ。我らが参ることになった所以は、ヤチ殿、そなたが一番よう知っておろう。」

 男の顔色が、変わった。

「成る程---。」

 男は小さく溜息をついて言った。

「コオの言うたとおりじゃな。雷は手懐けられぬ---か。」


 懐柔など決して受け付けぬ男、己れが信ずるものにしか従わぬ頑固者---それがイヅモの主、ヤチの一番、不得手な相手だ。

―だが、この男の信ずるはヒルメではあるまいに---。―

 一瞬、逡巡したが、あぁ---と心のうちで得心した。

―我らはもう逃れ得ぬ---ということか。―

 この男は、イヅモをヤマトの支配下に置くために来た。が、同時に、イヅモの『民』の盾になるために、自ら出向いてきたのだ。誰の---もちろんヒルメの攻めからの---である。

 抗えば、滅する。だが、速やかに恭順しさえすれば、『民』は殺さぬ。

―それが、この男の流儀だったな。―

 以前、クマノがヤマトに屈した時の先鋒もこの男だったと聞いた。

 捕縛した捕虜の民を不本意な事故で多く死なせてしまったことを深く悔やみ、百日もの間、喪に服していたという。

―律儀なことだ。―

 ヒルメの直属の兵ならそのようなことは、すまい。

焼き払い、殺し尽くして、その地を奪うのだ。ヤマトもそうして奪われた。かつて住まいしていた民達から---。

 ヤチは、もはや打つ手は無い。---それほどにヒルメの怒りを買ったのだと知った。

 ヤチの政の下、土地を開き耕し、また山より得た黒金-赤金によって、多くの富を得たイヅモ---その『富』をヒルメが見逃すハズもない。自分の子飼いを使者として立てたが故に、その裏切りは尚更、腹立たしく憎しみを募らせた。


―失策であったか---。―

 ヤチは重い息を吐いた。女は怖い。我が妻スセリでわかってはいたが、それでも妻には可愛い一途なところもあった。

 ヤチは顔を上げ、今一度、目の前の男の顔を見た。

―我が民の生命を、救ってくれるか。―

 かすかに、男の顔が頷いた。

―諾。―

 ヤチは、ゆっくりと目を閉じ、そして、今一度、男の顔を見て、静かに言った。

「ヒルメ殿が、是が非でもと仰せなら、もはや抗いはしますまい。このクニは差し上げましょう。しかしながら、我れは先にも申し上げたとおり、隠居のようなもの。クニの仕切りは息子達に任せておりますゆえ、息子達の同意無くしては、ヒルメ殿のクニと成すことは叶いますまい。」

「では、息子殿らに訊くとしよう。」

 カヅチ達は、ヤチの館に入り、数名の部下を残し、ヤチの息子達の元に向かった。

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