第17話「お母さんの思い出 その3」
咲有里と宏一と出会ったのは、22年のスイーツ博の日だった。帰りのバスを待つ間、宏一が折り畳み傘を忘れて濡れていた咲有里を、自分の傘に入れてやったことが全ての始まりだ。最寄りのバス停に着いた時、咲有里はお礼をするために宏一の連絡先を聞いたのだ。
「……」
その日、咲有里は宏一のアパートを訪ねた。傘に入れてくれたお礼に、シフォンケーキを作った。日頃から料理を趣味としてたしなんでおり、お菓子作りもたまに楽しんでいる。大学の女友達にもよくご馳走している。いつもは、みんな「とても美味しい」と好評価をくれるのだが、今回の相手は男性だ。
「……」
父親や親戚、大学の教授としか交流はなく、昔から男性とあまり関わりの少なかった咲有里。大学以前の学生時代も女友達との生活がほとんどだったため、いわゆる男女の恋愛的な青春とは無縁の人生を歩んできたわけだ。不安が募る。
“喜んでくれるかな……”
もちろん、一人暮らしの男性の家を訪問するのもこれが初めて。咲有里は緊張で震えた指でインターフォンを鳴らす。
ピンポーン
目の前で鳴り響くインターフォンの音も、道端ですれ違った歩行者のヘッドフォンから聴き漏れた音楽のように聴こえる。初めて歳近な男性との交流。ただ「あの時はどうもありがとう」と言ってケーキを渡すだけ。それだけの行為なのに、相手が歳近な男性というだけで緊張してしまう。
キー
玄関のドアが開いた。咲有里は反射的にシフォンケーキの入ったバスケットを差し出した。
「あ、あの時はありがとうございました!」
「んん~」
「あの! これお礼で……え?」
咲有里は宏一の姿を見て、少し驚いた。髪がボサボサで、寝癖がついたままだった。服装も、さっきまで着ていた青いチェックのパジャマだ。
まさか、今起きたのか。印象的な丸い黒縁メガネはしっかりかけていた。しかし、眠気をズルズルと引きずっており、傘を差し出してくれた時とはまるで正反対に思えた。その姿を一言で言うならば「ずぼら」である。
「えっと……これ……」
「あぁ……ご苦労様でぇ~す……」
宏一は目を擦りながら、ポケットから印鑑を取り出す。そして何の躊躇もなく、バスケットに印鑑を押す。小さな赤い文字で、「青葉」と刻まれる。
「え……えぇ?」
咲有里は困惑する。宏一は一体何をしているのか。
「ん? あれぇ?」
宏一はカチカチとメガネを動かしながら、目の前のバスケットを凝視する。そのまま視線を咲有里へと移す。
「あの……」
「え……うわぁ! す、すみません! 僕ったらなんてことを!!!」
宏一は全速力で居間に戻り、ティッシュを持ってきてバスケットに押された印を擦り取る。
「あぁ、お恥ずかしい……こんなだらしない姿をお見せしてしまって」
ティッシュをくるみ、洗面台の側に置いてある小さなゴミ箱に捨てる宏一。
「えっと、あなたはあの時の……」
「はい、今日はお礼を言いに来ました」
咲有里は宏一に深い興味を持った。改めて、シフォンケーキの入ったバスケットを差し出した。
「あの時は助けていただいてありがとうございました。青葉さん♪」
咲有里は宏一の家に上がらせてもらった。せっかく来たのだから一緒に食べようと、宏一は咲有里を招き入れた。
「咲有里さん、でしたっけ?」
「はい」
「すみません、ちらかってて……」
「え? いえ、お構い無く……」
床は埃一つ落ちておらず、茶色い床が綺麗に光っている。本棚にはびっしりと本が並べられ、一冊もズレが見つからない。作業机の上にはデスクライトと6冊程の厚いファイル。これもまた丁寧に並べられている。
気になるところと言えば、さっきまで寝ていたであろうベッドの上の毛布がめくられたまま置いてあるだけ。どこがちらかっているのかが全く理解できない咲有里。
「どうぞ、座ってください」
クローゼットから座布団を取り出し、部屋の中央に置かれたテーブルの横に敷く宏一。
「ありがとうございます……」
咲有里はゆっくりと上に座る。正座する足が緊張で震える。人生初と言ってもよい、歳近な男性と一つの部屋での二人っきりの時間だ。
「さっきはすみません……。今日は学校はお休みで、さっきまでずっと寝てました……。たから今起きたばかりで。今日は前に注文していた荷物が届く日なんです」
「はぁ……」
だから印鑑を持ってきたのか。咲有里は納得した。
「てっきりそれかと勘違いして……寝ぼけてたので気がつきませんでした。本当にすみませんでした……」
「ふふっ♪ そうなんですか。大丈夫ですよ」
何度も謝る宏一に、咲有里は微笑んだ。見ていて何だか面白かった。まるでコメディ映画のドタバタする主人公のようだ。一緒にいて面白いと思うのが不思議だった。
「えへへ……あっ、そろそろかな?」
宏一はキッチンに向かった。どうやらお湯を沸かしていたようだ。
「ケーキと言えば紅茶ですよね。あ、コーヒーの方がいいですか? それとも緑茶? あ、ジュースもありますよ!」
「そんな! そこまで用意していただかなくても。では、こ、紅茶で……」
「はい」
飲み物を用意し過ぎていた宏一。まさか自分が来た時のために色々準備していたのか。やっぱり優しい人だ。咲有里は思った。
「よし。では、いただきます!」
「いただきます」
二人で手を合わせる。宏一は大きくシフォンケーキを切って頬張る。
「ん~! 美味しい! 美味しいです!」
「よかった……たくさん食べてくださいね♪」
宏一に気に入ってもらい、咲有里は心が温かくなった。作った甲斐があったものだ。しかし、このシフォンケーキを食べ終わったら、宏一との繋がりは終わる。
あくまでこれは傘に入れてもらったことのお礼。食べ終われば恩返しは終わり、二人が会う理由もなくなる。それがどこか寂しく感じる咲有里だった。
「ふぅ……食べた食べた。すごく美味しかったですよ」
「ありがとうございます♪」
「ちょっとトイレ行ってきますね」
「あ、はい。行ってらっしゃい……」
宏一はトイレの個室に入る。今、何気なく発した「行ってらしゃい」という言葉。まるで夫の出勤を見送る妻のようだ。宏一が「行ってきます、咲有里」と言い、咲有里が「行ってらしゃい、あなた」と返す。もし自分とあの人が結婚したら……。その後の生活を頭の中で想像してみる。
「……///」
自分が恥ずかしいことを想像していることに遅れて気がついた。
“私ったら何てことを……あの人の妻だなんて……”
宏一にはもっとお似合いの相手がいる。まだ顔を合わせたばかりの自分が彼の妻になったらという妄想など、失礼極まりない。それに、まだ恋人にすらなっていないではないか。
ピンポーン
突然玄関のインターフォンが鳴った。
「青葉さーん、お届け物でーす」
ドアの奥から男の人の声。宏一がさっき言っていた注文した荷物のことだ。咲有里はトイレにこもっている宏一の代わりに玄関に向かった。片手に印鑑を握り、ドアを開けた。
ガチャッ
「今日は大学ないんでs……え……女の人!?」
「あ、あの……ご苦労様です……」
「あ、はい……ありがとうございます……」
咲有里はぎこちない腕で段ボールに印鑑を押し、宅配業者は苦笑いで答える。
ジャー ガチャッ
宏一がトイレから出てきた。
「あ、今日もありがとうございます~」
「いえいえ~」
どうやら宏一は宅配業者とは知り合いのようだった。二人の間に挟まれ、微妙な空気に包まれる咲有里。
「それにしても青葉さん……」
宅配業者はドアを閉める前に、隙間から顔を覗かせて呟く。
「彼女いたんですね。めっちゃ美人じゃないですか。お幸せに……」
パタン
「……え?」
咲有里はきょとんとする。自分が……宏一の彼女に見違えられた。端から見れば、自分達は男女のカップルに見えるそうだ。
「……///」
「……///」
二人揃って赤面する。
「すみません。ここに来たらまずかったでしょうか……彼女さんに間違えられて……」
「あ、いえ! そんなこと全然ないです! むしろ……その……」
宏一は右手を頭の後ろに持っていき、赤面しながら呟く。
「こ、恋人同士に見られて……ちょっと嬉しかったです……///」
「え?」
「はっ! すみません! 僕ったら、またとんだ失礼を……なんて変なことを考えてるんだ! 本当にすみません!!!」
宏一は頭を抱えて喚く。咲有里も顔を真っ赤にしながら答える。
「いいえ……その……」
「?」
「私も……その……嬉しかったです…///」
今思い返しても実に面白い。咲有里は思った。宏一と同じ空間にいるだけで、自然と心が温かくなるのを感じる。
それから二人は頻繁に会うことを約束した。宏一は優しいだけではなく、明るさを持っていた。その明るさを持って、咲有里をたくさん楽しませた。宏一と出会ったことで映画を見に行ったり、水族館に行ったり、旅行に行ったり、数々の思い出ができた。
そして翌年のスイーツ博も、二人で一緒に行った。数々のスイーツを楽しんだその日の帰り際、宏一は咲有里に告白した。
咲有里は、これ以上目の前でありのままの自分をさらけ出すことができる男性は宏一しかいないと悟り、快く告白を受け入れた。キスもハグも、どれだけ恥ずかしいことでも、相手が宏一ならば嬉しい。そう思った時、自分も宏一のことが好きだということに気がついた。
約一年の交際を経て、二人は晴れて恋人となった。
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