第13話「親というもの その2」



 もうここがどこだか検討もつかないけど、とりあえず川の近くにの堤防みたいなところにやって来た。雨が降った時に増水した川に近づくと危険だと聞くけど、今の私にはどうでもよかった。


「あっ……」


 河川敷の近くにある鉄道橋を見つけたからだ。その下に行けば雨宿りができる。私は草村の傾斜をゆっくりと下りる。滑らないように……慎重に……


 ズルッ


「わっ!」


 秒でフラグを回収してしまった。左足を濡れたで雑草滑らせ、そのまま傾斜を転がり落ちてしまった。


 ベチャッ

 下の地面も水で濡れていた。おもむろに地面に倒れたために、水と泥で着ていたシャツはあっという間に汚れた。私はすぐさま起き上がって鉄道橋の下へと移動する。ひとまずこれ以上雨に濡らされる心配がなくなってほっとする。もう手遅れなほどに汚れてはいるけど。




「はぁ……」


 コンクリートの壁に背中をつけ、地面に腰かける。そして、シャツの裾を引っ張ってねじる。


 ジュボボボボボ……

 シャツに染み込んだ泥水を絞り落とす。次に髪ゴムを外してポニーテールを手解き、髪も絞って水気を落とす。


 ジョロロロロロ……

 毛先から雨水が、ゆくるひねった蛇口のような勢いで流れ落ちる。髪をほどいたまま、私は再び壁にもたれかかって肩の力を抜く。しばらくはここを動けそうにない。

 右足を捻挫していることもあるけど、そうでなくてもここの地理が全くわからないのだ。未来の便利な道具もほとんど満君の家に置いてきた。


「……」


 気持ち悪い。まだシャツが濡れているのだ。あれだけ雨の下で派手に動き回ったことにより、シャツは全体を通して濡れていた。いっそのこと脱いでしまおうか。私はシャツの裾を上げた。


「ママ……雨強い。怖いよぉ……」

「大丈夫よ。早くおうちに帰りましょうね」


 人の声だ。


「はわわわわっ!」


 慌てて濡れたシャツを着戻す。やっぱり外で下着姿になるのは流石にまずい。完全な周りに誰もいないと思っていた。恥ずかしい……。それに、寒い。


 さっきの声を探すと、堤防の方に黄色いレインコートを着た小さな女の子が、傘をさす母親の足元に抱きついていた。母親は手を伸ばし、女の子はその手を握る。二人はみるみるうちに遠ざかっていった。女の子は母親の手を握ると笑顔になった。幸せそうな親子だ。


「……」


 かつての自分を思い出す。昔の自分もあんな風にピュアだったのだろう。ママと一緒にお出かけをした時、必ずママと手を繋いで隣を歩く。鼻歌なんか歌ったりしてね。

 小さい頃は本当によかった。今みたいに人生に絶望なんかしないんだもん。目に映るもの全てがいとおしくて、素敵で、面白かった。


 私は体育座りになる。一体いつからこうなってしまったのだろう。ママの言うことを聞かなくなったのは、性格ががさつになったのは、勉強が嫌いになったのは、いつからだろう。

 どこで道を踏み間違えたのだろう。あれだけ好きだったパパやママも、今はとんだ厄介者にしか感じられなくなってしまっている。


 一体いつから……


「うぅぅ……」


 私の口から嗚咽がこぼれる。どうやら泣き始めたようだ。どうしても怠け者の自分を変えることができないことと、帰る場所がわからないことが積み重なって耐えられなくなった。

 弱い。私は実に弱い。涙は雨に負けないくらいに激しく落ちていく。空も、私の未来を映し出すかのように真っ暗だ。私はしばらく好きなだけ泣きじゃくり、気がつけば深い眠りに落ちていた。








「ママ……ごめんなさい」


 女の人がバラバラになった花瓶の破片をビニール袋に入れ、口元を縛る。その横で、小さな男の子が泣きながら謝る。この女の人は、この子のお母さんなんだ。お母さんは男の子に歩み寄り、ぎゅっと抱き締める。そして優しい口調で言う。


「きちんと『ごめんなさい』を言えたのは立派よ。これからしっかり反省してね。反省するのはいいこと。間違いを犯したら反省、そして繰り返さないように努力する。そうやって人は成長していくの」

「ママ……」

「私も、さっきは怒鳴っちゃってごめんね……」

「大嫌いなんて嘘、僕……ママのこと、大好きだよ」


 男の子はお母さんに身を寄せる。私はその男の子の顔をよく見る。少し羽っ毛のある茶色い髪で、縁の黒いメガネをかけている。




「私も……大好きよ、満……」


 あれ? この男の子もしかして……満君?








「……!」


 思い切り目を開くと、そこには満君がいた。私は草の上で寝転んで眠っていたらしい。満君はその隣で私を見つめていた。その右隣には紺色の傘が置かれてある。雨はいつの間にか止んでいた。


「真紀」


 満君の優しく包み込むような呼び声。夢から覚めてもまだ心地よさが続くようだ。

私は首を持ち上げる。


「満……君?」

「こんなところで何してるの? 風邪引いちゃうよ?」


 言い返す言葉がない。私はそっぽを向いて答える。


「……家出」

「家出って……どういうこと?」

「決まってるでしょ! あの家から出ていくの!」

「あれ、僕の家なんだけど……」


 満君が苦笑いしながら呟く。すっかり自分が居候の身だということを忘れていた。


「とにかく家出するの! いいもん! どうせ私なんかがいなくなったって、誰も寂しがったりしないし……」

「僕は寂しいよ。真紀がいなくなるのは」


 スラッとカッコいいことを言う満君。少し頬が火照ってしまう。照れを振り払って起き上がろうとすると、シャツの濡れた感触が再び復活し、私の体を凍えさせる。

 寒がっている私に、満君はすかさずハンドタオルを差し出す。ありがとうと言って、私はそれを受け取る。濡れた体を拭く度に、満君の優しさを溶け込ませたような温もりが、私の淡くなった肌をしっとりと包み込む。冷えた体が一気に温かみを帯びていく。


「それにしても満君、なんで私がここにいるって……」


 気になっていたことを質問した。いくら満君がこの街に住んでいるからここの地理に詳しいとしても、こんな鉄道橋の下の草むらにいるとは考え付かないだろう。満君はなぜか軽く微笑みながら呟く。




「ここ、僕も昔来たことがあるんだ」

「そうなの?」

「お母さんに叱られて、つい家を飛び出した時にね」

「え?」


 満君のお母さん……咲有里さんが? 咲有里さんが満君を叱ったことがある? そんな、まさか……。あんな優しい女神様のような風格をした、あの咲有里さんが叱った?

 それだけじゃない。満君だって叱られるような人じゃないはず。勉強も家のお手伝いもしっかりする、そんな満君が叱られた? 信じられない……。


「驚いた? まぁ、真紀なら驚くか。一度だけね……僕、お母さんにこっぴどく叱られたことがあるんだ」

「そうなの?」

「うん。4歳か5歳の頃だったかな。家でふざけて走り回ってたことがあってね。しっかり前を見てなくて棚に思い切りぶつかって、その勢いで棚の上に置いてあった花瓶を落として割ってしまったことがあるんだ」


 家の中で走り回る……男の子だなぁと思った。やっぱりそういう年頃の男の子はみんな落ち着きがないのかな。いや、みんなそうって訳でもないか。でも満君がそういう子だったということはとても意外だ。


「その花瓶、あのピンクのチューリップを入れる用の花瓶だったらしくて、とても大切なものだったんだ」


 あぁ、咲有里さんが宏一さんと一緒に育ててきたという、あのピンクのチューリップか。それを入れる花瓶とは……えらく大切なものを壊してしまったわね。


「あの時は珍しくお母さんも怒鳴ってきたなぁ……。涙も流してたっけ。あの時のお母さんの怒ってるけど、どこか悲しそうな顔……鮮明に覚えているよ」


 私の想像力ではうまく思い浮かべられないけど、満君の話を聞く限り、相当すごい顔をしていたんだろう。そこまで怒るなんて、咲有里さんにとってその花瓶は本当に大切なものなんだなぁ……。


「あまりにひどく怒るものだから、僕もついカッとなって『ママなんて大嫌い!』って言って家を飛び出したんだ。そして、ここに来た」


 なるほど、丸っきり今の私と同じ道を歩んでいたということね。それにしても、私は4,5歳の満君と同レベルの人間ということなのかしら……。自分がますます惨めに思えてくる。彼との実力の差がはっきり感じられる。


「結局、あの後はお父さんがここまで探しに来てくれて、しぶしぶ家に帰ったんだ。それで泣きながら謝った。お母さんも言い過ぎたって言って許してくれたよ。そして、優しく抱き締めてくれた」


 それはよかった。感動の仲直りだ。すごいなぁ、満君は。私だったらそんなにすんなりと「ごめんなさい」を口にすることはできないと思う。すごく恥ずかしいもの。


「それから僕は何でも頑張るようになったんだ。勉強も、家のお手伝いも、料理も。二度と同じ間違いを繰り返さないようにね。たまに失敗もしちゃうけど、それからしっかり反省して、また努力を続けていったんだ……」

「満君……」

「って、何言ってるんだ僕は。これじゃあ自慢してるみたいだよ……」


 いやいや、堂々と自慢していいことだと思う。そうか、満君だって最初から完璧だった訳じゃなかったんだ。過去に大きな間違いを犯して、そこから自分を省みて日々努力を続けて成長して、今の優秀な姿が出来上がったんだ。人間らしさに満ち溢れていると思った。


「まぁ、お母さんの方もあれからすっごく豹変して、今では僕にすっごく甘々だけどね……」


 確かに、今の咲有里さんの満君に対するスキンシップが異常過ぎる。それでも昔から変わらないのは、満君のことをしっかり愛しているということだ。


「とまぁ、話は長くなったけど、もしかしたら真紀もここに来てるんじゃないかって、万が一に賭けて来てみたんだ。本当に来てて助かったよ」

「満君はどこにいても私を見つけてくれるのね」

「えへへ……///」


 満君は照れた。可愛い。




「さぁ、帰ろう。暗くなってきたし。もうすぐ夕食の時間だよ」


 満君は傘を持って立ち上がった。私に手を差し伸べる。


「え? 嫌よ、帰らないわ。言ったでしょ、家出するって」

「え? 本気なの?」

「本気よ!」


 私は満君の手を借りず、やけくそに立ち上がる。


「私はこれから、ひとりで生きていくんだかr……痛っ!」


 ズキッ

 立ち上がった瞬間、右足の痛みに再び襲われる。捻挫していたことをすっかり忘れていた。すぐにその場に崩れ落ちる。まだ治っていないみたいだ。むしろさっきより痛みが酷くなっているようにも感じる。


「大丈夫!? 足、怪我してるの?」


 満君が心配そうに見つめる。


「これくらい……平気だもん……平気……」




 気がつくと、私はまた涙を流していた。私ったら、どんだけ泣き虫なのよ。泣くのを止めろと自分に言い聞かせても、一向に止まらない。やっぱり私は満君と違って、いつまで経ってもダメな人間なのか。


「真紀」


 満君は私に背中を向けてしゃがんだ。左右に腕を開き、振り向いて呟く。


「一緒に帰ろ?」


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