第21話 嗚咽




 管根は動かない。後頭部から血を流したまま、撃たれた瞬間にさえ呻き声ひとつ上げなかった。死んでいるのは明らかだ。

「な——何を!?」

 思わず叫んだ私に目もくれることなく、欠子先生はたったいま使用した銃をテキパキと操作し——恐らく安全装置セーフティーなんかを掛けていたのだろう——、内ポケットへと仕舞う。

「すまない。君に嘘を吐いていた」

 拳銃を仕舞い終えて、欠子先生はようやくこちらに目を向けた。人を一人殺した直後だというのに、その眼差しは明らかに生徒を重んじる教師のそれだった。

「前に君は訊いたな。なぜ人を殺すのかと。私はその時、『殺したいからだ』と答えた。大した理由は無いと。あれはまったくデタラメという訳ではないが、事実とは程遠い表現だった。

 私がどうにもならない衝動を持って生まれたのは事実だ。私は、人を殺さなければ生きていけない。だからこれまで何百人も殺してきた——ところがだ、この国は世界でも類を見ない法治国家なんだ。この国の良好な治安では、『人が死ぬ』という現象は非常に起こり難い。いくら私であっても、十年以上何百人という単位で殺人を行えば、普通なら捕まっている」

「普通なら——って?」

「私一人では限界がある。証拠の隠滅にしろ、警察の動向把握にしろ」

 私一人では——その言葉は真実を物語るに十分すぎた。

「後ろ盾が……あるって事ですか?」

 それも、半端な後ろ盾ではないはずだ。何百件もの殺人を隠蔽し、今日まで欠子洸牙ほどの殺人鬼を表の社会、、、、で生かし続けてきた、そんな力を持つ人間——。

「そうだ。名前は言えないが、私はある有力な個人と利害関係を一致させる事で、継続して"安全な殺人"を行ってきた」

「利害関係……って」

 そう聞いて私が想像したのは、殺し屋に暗殺を依頼する反社会組織という図だった。そういえば今回も、違法薬物絡みといういかにも暴力団ヤクザなんかが関わっていそうな事件だ。

 が、欠子先生は首を横に振った。

「いや、反社会勢力じゃない。第一、現実のヤクザは何百件もの殺人を隠蔽するほどの力は持ってはいない。それに仮にも教師がそんな連中と関係を持っていたらまずいだろう」

「……じゃあどんな」

「国家権力にさえ口を出せて、なおかつ私という人殺しとさえ利害の一致する存在。もう分かっているんじゃないのか。政治家、、、だよ」

 政治家。

 その言葉に——私は目眩を覚える。

「私が殺すのは、治安を、ひいては社会を脅かす制御できない存在だ。そういう連中を秘密裏に葬ることが、君たちにものを教える以外のもう一つの私の"仕事"だ」

「…………」

「ショックだろうな。君の亡き父親は政治家だった」

「……そうです。お父さんは政治家だった。仕事ばかりで家にはあまり帰らなかったけど、私は彼を尊敬してた。……大好きな人でした」

 だから私の中では、『政治家』という職業は聖域に等しい。彼らの汚職事件や不倫のニュースが流れるたびに、業腹で仕方がなかった。このご時世、政治家が『汚い仕事』というレッテルを貼られ、世間の評判がそう定着してしまっていることが、悲しくて仕方がなかった。

 だったら私がちゃんとした政治家になって、そんなイメージを変えてやろう——なんて、そんな風に自分を励ましてきた。そのために勉強して、何もかもを真面目に一生懸命やってきた。

 ……なのに。こんな風に、私の『今まで』は軽々と壊されていく。

「偉い人に頼まれて……この国のために、ゴミ掃除をしているってことですよね。つまり、あなたのやっている事は」

「そうだな……きちんと言葉にすると、直ちに社会から排除する必要のある凶悪人。あるいは、警察では処理できない複雑な『しがらみ』を抱えた悪人。例えば管根と、そして山森大輝も後者だった」

「————え?」

 唐突に唐突な名前を出されて、私は面食らう。山森大輝——一週間前に欠子先生に殺された、教育実習生の名前だ。忘れるはずもない。私はその事件の現場を目撃したことで、担任教師の本性を思い知ることになったのだから。

「彼は犯罪者だったんだよ。それも丁寧に狡猾に法の網を潜り抜ける、この世で最もたちの悪い罪人だ」

「犯罪者……って、一体何を……?」

「有り体に言うなら、違法薬物の売人だな」

 違法薬物。そう聞いて、私は「まさか」と呟く。

「そう、最近この界隈に多大な悪影響を与えている例のクスリだ。快楽性が普通では考えられないほどに高い代わりに、依存性も手が付けられなくなっている。おまけに身体制御のために使われる脳の機能を取り払う効能まであるらしい。管根を狂わせた薬物だ」

「そんな……」

「この薬物で直接儲けていたのは山森自身ではなく、ある反社会組織だ。山森の役割はいわゆる中継人。大元の販売所と使用者を繋ぐ、卸売り業者と言ったところか。

 だが問題なのは、山森がその暴力団にクスリの『売り方』を提言していたことだ。違法薬物を効率よく、目立たないように大量に売り捌く方法を考え、提案し……実際、それは上手く行っていた。警察では流通を止められなかったからな」

「……じゃあ」

「彼を殺さなければ、この先もっと沢山の人が被害に遭っていただろうな。クスリによって頭がおかしくなるだけじゃない。君の母親のように、二次的に傷つく者も増えていただろう」

 必要だったから殺した——確か欠子先生はそう言っていた。自らの衝動がために、殺人が必要だったのだと。その言葉は決して間違ってはいなかったけど、真実と言うには程遠かったわけだ。

 まさしく殺人は『必要』だったのだ。

 恐らくは、お母さんや私のような人間を増やさないために。

 あるいは——彼がもっと早くに山森先生を殺していれば、お母さんは死なずにさえ済んだのかも知れない。

 思わずそんな風に考えてしまって後悔する。そう思ってしまえば、私はそのままこうも考えてしまう。『もっと早く殺してくれていれば』、と。——もっと早くに人が死んでいれば、と。

 そんな言葉が浮かんでしまった時点で、認めたも同然だった。欠子先生の殺人は、間違って——、

「とは言え、だ」

 ——その結論、、、、が私の頭の中ではっきりと言葉になる直前で、まるでそれを分かって阻止するように、欠子先生は言った。

「だからと言って私は、私のやったことが正義だと言い張るつもりは毛頭ない、、、、、、、、、、、、、、、、。私自身が正当な役割を負った人間だと言うつもりもない。私はただの殺人鬼であり、生まれながらのゴミ屑、、、だ。本来権利人ですらない。……そんなゴミ屑に果たすべき役割さえ存在するこの社会がロクなものじゃないというのも、また認めざるを得ないがね」

「————」

 私は初めて、まともに欠子洸牙の『表情』を見た気がした。

 一週間前、社会科準備室で自らの本性を明かした時の彼の顔が仮面でしかなかったのだと、今更のように思い知る。ああして飄々と笑い、命なんてものを嘲る態度は、あまりに偽悪的な演技だったのだと。

 今、私の目の前にある伽藍堂の表情。感情が抜け落ちて、その中にただ一つ悲痛な何かを詰め込んだような、うつろ、、、な貌。

 その空虚の正体がやっと、何となくだけど分かった。

 彼は多分、諦めているのだ。

 自らの存在を諦めている。そして、自分にはこの社会に居場所はないと弁えている。なまじ高すぎる能力と知性を持っている彼だからこそ、それを誰よりも理解していたのだろう。人殺しでしかいられない者には、人の世界に生きる資格はないと。

 それでもなお、全てを諦観してさえも、自らに人としての生が無いものかと足掻いた結果が、きっと今の欠子洸牙なのだ。

 利害の一致する権力者と出会うことができたのは、きっと彼にとって人生最大の幸運だったのだろう。彼は教師という仮面を被っていると思っていたが、それはきっと、彼にとっては紛れもなく掛け替えの無い『本物』だったことだろう。そんな幾重もの奇跡によって、現在の欠子先生の生活が成立している。

 彼はきっと、誰よりも善人でいたかった。——けれど彼は、誰よりも人でなしだった。

 きっとそういうことなのだ、、、、、、、、、、、、

「あなたは……何がしたいんですか?」

 自然、私は問うていた。

 彼はきっと、自分の存在が許せないはずだ。自分という生まれながらの狂人が嫌いで嫌いで仕方がないはずだ。ともすれば、この世から抹消したいと願うほどには。

「君は本当に聡明だな。……ああ、私は君が考える通りの思想を持っている。自分の存在がどうにも許せないし、消えた方がマシだと思っているさ」

「……でも、あなたの行動はこの世界から消えることを良しとしていないでしょう?逮捕されるのを恐れてる。つまり、真っ当に裁かれることも拒否している。……一貫性がないです」

「そんなものは無い。一つの目的の前において、他の矛盾など些細なことだよ」

 欠子先生はそう言った。悪びれもせず——とはもう思えない。きっと彼は悪びれている。ただそれを表に出さないだけだ。

「私の目的は生きることだ。偶然にも手にした人としての当たり前を手放さずに、この世に生き続けることだ」

 ——それは本来ささやかな願望だった。けれど、欠子洸牙にとっては大それた願望だった。

 人殺しが真っ当に生きたい、などと言うのは、きっと大それている。

 ……こうして考えてみれば、自明すぎて笑えてくる。私はさっきまで、心からそれ、、になろうとしていたのに。

「——ああ、そうだ。それを踏まえればこれは、とてもまずい状況かもしれないな」

「え?」

「私は君を脅していただろう。余計なことをすれば殺す、と。母親の命と同時に。だが君はすでに母親を亡くし、君自身、生きていたって仕方ないと考え始めている。これでは君を脅せなくなってしまった」

「……そう言えば、そうでしたっけ」

 そんな風に言われてみても、私の中には『ああそうだっけ』という感覚しか湧いてこない。

 今更だけど、私の中からは欠子洸牙に対する憎悪と呼べるものはほとんど消え失せていた。残っているのは彼に対する、——恐らくは彼自身も持っているような——殺人者に対する生理的な嫌悪感だけ。

 通報する。なるほどこのタイミングで、この一連の事件の終息させるという意味では、その行動は現実味がある。母を失い、今まで信じてきた価値観を失い、そして——信頼し憎悪した教導者を自らの手で失う。私のような何も知らなかった人間の物語の結末としては、なかなか纏まっている、、、、、、、

 全てを終わらせる、という意味では。

 けれど——最後に残った僅かな嫌悪感だけを頼りに私をここまで導いてくれた教師を警察に突き出すというのは、流石にそれで良いものかと、良心が咎める。有り体に言って、心に迷いが生じる。人殺しが裁かれるよう行動するというのは間違いなく正しい行為ではあるけど、何というか、法律を超えたところにある倫理を踏みにじる感じがする。

「……どうして今更になって、そんなことを言うんですか?」

 だからそう訊いたのは、純粋な疑問もあるが、気が引けたから、、、、、、、と言うのが主たる理由だった。

「わたしはそんなこと、微塵も考えていなかったのに。あなたからそんなことを言い出さなければ、その『まずい状況』なんて無いも同然だったんですよ。先生は捕まるなんて御免だって……あれは嘘だったんですか?」

「確かに私は警察なんぞに捕まり、法律なんぞに裁かれるのは御免だった。何故って、奴らにそんな資格があるとは思えないからだ。少しでも真剣に法学や社会学を学べば、この国はおろか世界中の『規範』とされているモノには矛盾が満ちていると誰でも分かる。そんな矛盾だらけの連中に、矛盾の権化のような私を裁く権利などあるものか。

 だがね、君は違う。

 君は親の仇と相対したその上で、ああも心をすり減らしたその上で、最後には殺人を拒絶した。

 鷺山純恋。君は欠片の矛盾もない"善人"だ。君になら、裁かれてもいい——そんな考えが、私の中に生まれつつあるのかもしれない」

 善人——その単語を聞く感覚は、言葉がするりと脳に落とし込まれたようでも、しっとりと染み渡るようでもあった。

 その言葉は、人が自らそうあれ、、、、と願うものだ。そして、誰もが善悪の混濁した人生を送る中で捨て去るものだ。

 そう願い続けたのが欠子洸牙であり、誰より完全にそれを諦めたのが欠子洸牙だったはずだ。

 そう理解して、ふと納得する。

 管根を前に包丁を構えさせ、私に殺人を説いたのは——きっと彼にとって、最後の審判のようなものだったのだ。

 きっとあの時、私が管根を刺していても彼は失望などしなかっただろう。彼の善悪基準の中で、それは真っ当な人間が行う正当な殺人だ。私が殺人を犯しても、彼はただ当然に私をただの人と認め、それだけだったろう。

 考えた通りの普通の人間か、それとも期待よりなお上を行く善人か。

 ——善人というものが実在するのか。

 それが、彼が私に課した審判だった。私を通じてこの社会に見出した選択だったのだ。

「どうして泣いている?」

「……え?」

 不思議そうな顔で先生に言われて、私は面食らう。言葉通り、頬を液体が伝う感触があったからだ。それだけでない、嗚咽を漏らす時特有の、息苦しい感覚も追いつくようにして襲ってきた。

 ——涙?

「これ、は……えっと。あれ、何だろう……?」

「気が抜けたか?泣くのは良いが、落ち着いてやれよ。あまり無遠慮に泣きじゃくると過呼吸になる」

「いや……」

 気が抜けた、訳じゃないと思う。

 理屈ではないが、感覚的に分かった。これは今まで押し留めていた悲しみだとか子供らしい感情だとか、そういうのが溢れたものじゃない。

 ——ああ、そう。

 善人だと言われた。君は善い人間だと、そう言われた、から。

 だから私は泣いているのだ。その褒め言葉が嬉しくて、涙を流しているのだ。

 ……これは余談になってしまうけど、私は人から褒められるという状況を、あまり経験していない。

 優等生でいようと心がけて、事実そうして生きてきた。当たり前に、それが当たり前だと考えてきた。そんな私につられるように、周囲の人間も——お母さんでさえも、私が優等生であることを当たり前として扱って、褒め言葉を口に出したりはしなかった。

 何も悪いことはない。それで良かったと思う。何ら歪ではない、納得のできる生き方だったと思っている。

 けれど、その上で——『褒められる』というのは、こうも心の満たされるコトだったのだろうか。

 秀でた何かを明確に言葉にして、称賛としてぶつけられるというのは、こんなにも救われるような気持ちになるコトだったのだろうか。

 この場に全くそぐわない単語ではあるけど。

 私の双眸から流れ落ちるこの水は、『嬉し涙』とされるものだった。

「……ごめんなさい。私、私は……」

「良い。君は辛い目に遭いすぎた。明日から学校に来るという条件を忘れてもらっては困るが、それに障らない範囲なら、今ここで存分に泣いておけ」

 欠子先生は、そう言った。それだけだった。私の震える背中に手を添えることもなく、哀しみに満ちた声音で諭すだけだった。


 たったそれだけなのに、この身に残ったほんの少しの嫌悪感さえほとんど忘れてしまった私は——もしかすると、安い人間なのかもしれない。

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