第20話 正当

 そうして自らの行為を自覚した瞬間、頭の中を思い出が駆け巡る。

 優しかった母。私を第一に生きてくれた母。彼女の笑顔を鮮明に思い浮かべる。思い浮かべようとすれば簡単に思い浮かぶあたり、私を縛る彼女の遺影は相当根強いらしい。

 でもそんなのは当たり前だ。彼女は私のたった一人の家族だったんだから。

 それを奪った人間に、いったい何をすべきか。

 大切な家族を惨殺した人間に、どんな最期が相応しいのか。

「……っ!」

 手が震える。お母さんの仇を討つのだという実感が、その震えを通して脳に染み渡る。

 正当な殺人。そう、この行為は正当だ。それだけのことを私はこの男にされたのだから。

 何も間違いじゃない。何も間違ったことはしていない。欠子洸牙でさえ、それを肯定しているじゃないか。

 そうだ、私は、正しい——、

「———欠子先生。一つ……教えてください」

 ——そう納得した、はずだったのに。

 気付けば私は、手ではなく口を動かしていた。

「先生は、本当に人を殺したいんですか?」

「ああ。私は人を殺さなければ生きていけない」

「でも先生は、悪人であるようには思えません」

 たった今自分の口から出た言葉に、自分で驚く。

 悪人であるようには思えない——そうだ。この数日の間、喉の奥に小骨のようにつかえていた違和感の正体。いざ言語化してしまえば、あまりに簡単すぎる『事実』だった。

 私は今、彼を悪人と思っていない。人殺しには違いないけど、少なくとも、今は『怪物』だなんて風には思っていなかった。

 彼の自室で聞いた、嘘とは思えない教師らしい言葉。そしてこの場所で管根を相手に吐き出していた言葉の節々から、欠子先生の本音のようなものを感じた。本当は彼は、殺人なんかしたくない……という考えは短絡的すぎるけど、私が思っているより彼の心はずっと複雑なんじゃないか、と。

 例えば——人殺しとしての自分自身を、欠子洸牙は決して良しとはしていないんじゃないか、とか。

「教えてください。あなたは——悪人ですか?人殺しとしての自分を、嫌ってるんですか?」

「それに私が答えたところでなんの意味がある?」

「意味は……」

「無いよ。意味など、無い。そもそも善悪の区別に意味は無いんだ。いいか、この世には善人も悪人もいない。あるのはただの人だ。この世界には様々な性質の精神を持ったホモサピエンスが存在して、そこに勝手に善だの悪だのと名前をつける人間がいるだけだ」

 この世界に意味は無い。あるのは人間の認識だけだ——欠子先生は、淡々と続ける。

「例えば、花は美しいな。あんな植物の一側面に過ぎない、一月も持たずに枯れるヒラヒラ、、、、が、一つの商業として成立するほどにもてはやされている。だが元来、あのカラフルな花弁は何のために存在する?」

「それは……虫を、誘き寄せるため」

「そう、我々が気味悪がり忌避する、あの虫どものために設えたものだ。だが我々はあれを美しいものと定義する。花そのものに意味があるのではなく、我々が花に対して何を見出すか、、、、、、に意味があるんだ。

 私も同じだ。私が善人か悪人か、その区別に意味は無い。君がどう思うかだ。君が私という存在に何を見出すかだ」

「————、……じゃあ。先生は、先生に何を見出したんですか」

「異常者。そうとしか言えまい。私にとってこの衝動は性欲と同じだ。人を殺さなければ精神を正常に保てない。——この私に『正常な精神』というのは矛盾に満ちているがな。

 私は殺人を、私のために必要なものとして定義した。たとえそれがどんな概念であれ。だから、君が殺人に対して何を見出すのかは君の勝手だ」

 その言葉は残酷に、深々と私の脳裏に染み入った。あまりに客観に徹していて、私の背中を押すでも引き止めるでもない言葉。

 多分、この人は見抜いている。私が何故この土壇場で、欠子先生に殺人の是非を問うたのか。

 私はあと一歩の『後押し』が欲しかった。私が管根を殺すことが正しいのだと信じるに足る、もう一つくらいの言葉が欲しかった。殺人を正当と信じる根拠、判断材料が。

 けれど、——本当は分かっている、これ以上は歪曲だ。

 根拠にできる事実は、とっくに出揃っている。これ以上何か欠子先生に言わせたなら、例えば『お前は殺すべきだ』などという言葉を引き出したなら、それは贔屓に他ならない。事実のみを基に考え抜き、判断する——そんな正当さとは程遠い、不公平な捻じ曲げになってしまう。

 正しさは、何の思想にも毒されていない『事実』からしか生まれない。

 誰かの主観を参考にしたら、その時点で私の中での正当は成立しない。

 私の勝手。私が決めるしか無いのだ。私がどんな考えの下でこの男を殺すのか。私がどうやって、殺人という行為を正当と納得するのか。

 ……彼は、恐らく知っている。

 殺人は正当化しなければいけない。そうでなくては耐えられないのだ。人は自らの行為を正当と自分で信じられなければ、おいそれと大それた行動には出られない。

 私は、この殺人を正しいと信じなければいけない。

 私は、自らが人を殺してなお善人であると信じなければならない。

 ——それは、きっと、簡単なこと。

 だって私はお母さんを殺された。誰から見ても復讐に足る理由を持っている。

 欠子先生でさえそれを認めているのだ。この行為が、間違っているはずが無い。

 だから——私がすることは。

 この両手で握ったナイフの柄に、ほんの少し力を込めるだけ。


 私にそれは、ついぞ不可能だった。


「それが、君の答えか」

 投げ捨てたナイフを横目に私は、今更のようにガチガチと震え出した自分の身体を制御しようとするように、握り締めた両の手を膝に押しつけていた。緊張が解かれたのか、身体中からは吹き出すようにして冷たい汗が出ている。

「どうしてナイフを捨てる。この男を殺したいんじゃなかったのか。そのために君はこんなところまで来たんだろう」

「…………殺せません」

「君のその行為は正当なのに?」

「正当じゃない。正しくなんかありません。……ああ、こんな分かりきったこと……どんな理由であれ、人殺しが正当化できる訳がない」

 当たり前だ。当たり前過ぎて、一々考えもしなかったことだ。正当な殺人なんてこの世のどこにも存在しない。

 どんなに正論で言い繕っても、覆せない倫理がある。人によってその基準は違うだろうけど、これ、、はきっと大多数の人間に共通するルールだ。自分の手で他人を傷つけ、命を抉り奪う行為に『正しさ』なんて側面があり得るはずがない。

 どんな理由であれ。

「どんな……理由で、あれ……この男は、殺しません。警察に突き出してください」

「……ああ」

 欠子先生は神妙な面持ちで立ち上がる。その声には、憎い仇を殺せなかった私を意気地なしと嘲るような様子はなく、ただ憐みと哀しみの入り混じった呟きだった。

「それは、出来ない」


 次の瞬間、乾いた破裂音が私の耳を貫く。

 完全防音の部屋で爆竹を鳴らしたような『小さな爆音』。前に映画でよく似た音を聞いたことがある。消音器サプレッサ付きの拳銃の、発砲音——そして仄かな硝煙の匂い。

 見ると、私の眼下、管根幸雄の頭部に指一つが通る大きさの穴が出来ていた。

 顔を上げると欠子先生は、銃口がしっかりと管根の頭へと向けられた拳銃を手にしていた。


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