第19話 殺人の教導




「——なあ、鷺山純恋?」

 そう問われて、私はしらばっくれてはいられないと観念した。今まで身を隠していた給水タンクの影から出て、二人の人殺しの方へと足を進める。

 一人は良く知った顔。もう一人は写真でしか知らなかった顔。片や普段通りの冷徹な顔で預言者のように悠然と立ち、片やみっともなく倒れ伏して苦痛に悶えている。

 二人から一メートルほど離れたところで立ち止まると、私は欠子先生の目を真っ直ぐに見た。

「……いつから気付いてたんですか。私がいるって」

「最初から。私が来る少し前から居ただろう。覚えておけ、人間という生き物は意外なほど同種の臭いに敏感なんだ」

 ……欠子先生の言う通りだった。

 私がこのビルの屋上に到着したのは、彼がここに来るほんの数分前だ。

 リョウに聞いた例のクスリの"販売地"にしらみ潰しに足を運ぶという気の遠くなる作業を行なっていた私だが、結果としては数時間ほどでゴールに辿り着いたことになる。同じ作業を、恐らくは一日かそれ以上早くに始めていたであろう欠子先生に遅れを取らずに済んだのは、運が良かったとしか言えない。

「例の違法薬物から足跡を辿ったのは、君も同じらしいな。ちなみに訊くが、このビルは何件目だ?」

「……九件目です」

「そうか。私は二十一件目だ。こいつにクスリを売りつけた輩が、ご丁寧に『露店』の場所を三十以上にも散らしていたせいだな。おかげで足が棒だよ。良かったじゃないか、幸運は君に味方した。——で、どうする?」

「どうする、とは?」

「この殺人鬼をどうするんだ?」

 欠子先生はそう言って殺人鬼——管根の脇腹を蹴る。

「君は何故こいつを探していたんだ?報いを与えたいと言うなら私が見つけるだけで十分だったはずだ。私が殺すのではなくあくまで法の裁きに委ねたいと言うなら、そもそも私に相談などせずに警察に任せていれば良かった。日本の警察は優秀だ。薬物中毒に陥っている時点で、どの道、こいつはいずれ捕まっていた」

「…………」

「なあ?君は何故、君自身の手で、、、、、、こいつを見つけようとしていたんだ?」

 酷い誘導尋問だ、と思った。

 この人が私の心の内を解っていないはずがない。これは疑問をぶつけている質問ではなく、単なる確認なのだ。

 欠子先生は真っ直ぐこちらを見ている。冷たく鋭利な眼光は揺るぎなく、私の瞳を射抜いている。全てを知られていると感じてしまう、そのせいで何かを隠すことを諦めてしまう悪魔の眼光だ。

 ——この人は全部解ってる。

 ——そして、邪魔をするつもりだ。

 私はごくりと生唾を呑む。ずっとこの瞬間を待っていたのだ。今更、誰がそれを妨げたところで躊躇など出来ない。

 私は、上着の内側に隠し持っていた包丁を手にした。

「先生。邪魔をしないでください」

 私は言った。多分、声は震えていた。

「嫌だ、と言ったら?」

 先生は訊き返す。不思議なことに、その声に私を咎めるような様子は無かった。ただ哀しげな感情が篭っている——それくらいしか伝わってこない、淡白な問い。

 考えてみれば当然だ。私がこれからしようとしている事を叱責する資格だけは、彼にはあり得ないのだから。

「……嫌だと、言わないで下さい」

 言って、私は包丁を振りかぶる。柄をしっかりと握り、倒れ伏す殺人鬼のもとへ一直線に振り下ろす。

 あれほど震えていた声と違って、思い切り動かした腕は全く震えていなかった。

 鋭利に空気を切る確かな感触を伴って、私は管根の無防備な背中へと刃を落とし——切っ先がその身体に突き刺さる寸前で、私に合わせて屈み込んだ欠子先生に手首を掴み止められる。

「……やめて。離してください」

 この人に力の勝負で敵うはずがない。だからか、私の懇願する声は悲痛だった。

 もちろん、私の手を阻止する力は弱まらない。下へ下へと押し込む包丁に対して、欠子先生はそれ以上の力で私の手首を押し返す。

「ッ——離して!」

 ほとんど叫ぶような勢いで言って、私は反発するように腕を上へ動かした。

 欠子先生の力も同じ方向に加わっていたため、一瞬ではあるがには凄まじいまでの勢いが伴って、私の手は彼の拘束から離れる。自由になった腕を、私は反射的に、再び管根へと振り下ろした。振り下ろしながらも、無駄だろうな、と言う考えが私の頭の片隅をよぎる。これもきっと欠子先生に止められる——彼に遮られた上で、目的を果たせる訳がない。

 だが次の瞬間、信じられないことが起こった。

 生暖かい感触が指先から流れて、私が無意識に閉じてしまっていた目を開けると、振り下ろした包丁が深々と身体へと突き刺さっていた。管根の背中へではない。欠子先生の手のひらに、だ。

「な——何を!?」

 私の口から驚愕の声が漏れるのは仕方のないことだった。恐らく今、私の中の正常な感覚というものは麻痺しているが、それでも流石にこれは大怪我だと判断できる。包丁の刃は欠子先生の手を貫いていて、しかも向こう側に出ている刃渡りの方がこちら側よりも長くなっている。

 滴る血はこちらの手までを伝って、私の袖口を汚した。そのなんとも言えない嫌な感覚と、彼の手を突き刺してしまった罪悪感に力が緩んで、私は思わず包丁を手放してしまう。

 今更ながら、自分が作り出したはずの光景の凄惨さに一抹の生理的嫌悪を覚えて、私は僅かに後ろに退がる。私の手から離れても包丁は落ちない。貫通した欠子先生の手の肉に固定され、そのまま空中に留められている。

「……つまり、だ」

 ——が。そんな状況において、欠子先生は表情を微塵も歪めることなく、そう言った。言葉が苦痛に震えている様子さえなかった。

「お前の目的は最初から、自分の手でこの男を殺すことだった。そうだな?」

「今はそんなことより、先生の手が……!」

「そんなこと?」

 欠子先生はここでようやく表情に変化を見せた。と言ってもわざとらしく眉を上げただけ。教室で見せるのと同じ、シチュエーションの効率的な演出のために表情筋を動かしただけのものだ。

「『そんなこと』なのか、母親が死んだのは。殺したのは。たかが人殺し一人が血を流している程度で後回しに出来るのか?お前は」

「——っ、それは……」

「おい、泣きそうな声を出すな。これは叱責じゃない。むしろ私はお前を尊敬する。この状況においてなお真っ当な善性を優先できる、一人の他人を。……うん、やはりお前は良い人間だ」

 欠子先生は喋りながら、手のひらに深々と刺さった包丁の柄をもう片方の手で掴むと、一切の躊躇いを見せずに引き抜いた。その際の勢いで刃から少量の血が飛沫し、彼と私の顔にかかる。

 私は僅かに眉を顰めたが、欠子先生は表情を変えずに、そのまま血でべったりと汚れた包丁を投げ捨てた。

 からん、と音を立てて誰にも拾えない位置に転がる凶器。先生は穴が空いた方の手を下へ降ろす。私を多少なりとも混乱させていたグロテスクな光景は、ひとまず視界の外に引っ込んだ。

「もう一度訊こうか。お前はこの男を殺すために私に相談を持ちかけ、そしてこの男を殺すためにこの場に足を運んだ。違わないな」

「…………」

 沈黙は恐らく、肯定として受け入れられただろう。そしてその認識は正しい。

 私は初めから、そのつもりで欠子先生を訪ねた。はたから警察を頼ろうとしなかったのもそのためだ。自ら違法の限りを犯そうとしているのに、合法の権化たる国家権力に相談する馬鹿はいない。

 その通りだ、、、、、。私は自らの意志で殺人を犯すつもりだ。

 ——私はこくりと、首を縦に振った。

 欠子先生は、哀しげに私を見ている。哀しげに、だ。彼の本性を知ってこそ解る表情の機微だった。

「『私は先のこともちゃんと考えている』——私の家で、カレンにそう言っていたな。あれは嘘だったのか?」

「……どうしてそれを。カレンさんが教えたんですか?」

「君が寝泊りしていたあの家は日常的に私が拠点に使っている場所でもある。いざと言う時のために盗聴器くらいは仕掛けているさ。人生、何があるか分からないからな」

 あの屋敷に盗聴器が——つまり、昨日までの私の行動は全て筒抜けだったのか。私が何も掴めずにいたことも、それをカレンさんに相談していたことも。

「カレンに話していたあれは、嘘偽りか?」

「……いいえ。嘘なんか吐いてません。私はきちんと、先のことを考えました。あなたに言われた通りに、この先もずっと人生は続いていくってことを」

 嘘じゃない。私は考えた。どうせ眠れない夜なのだからと、夜通し使って考えた。

 でも、結論は変わらなかった。

 この男は殺さなければいけない。この先の私が歩む人生全てと比較してさえも、その義務は私を蝕むことをやめなかった。

 人の死は呪いだ。遺された者に取り憑く呪縛なのだ。その死を理解出来なければ出来ないほど、呪いは強くなる。なぜ遺されたのか、なぜ失ったのか、遺された自分は何をするべきなのか——その義務を考えることに縛られてしまう。

 その思考に自らで答え出さない限りは、呪いは解けない。行動によって答えを出さなければいけない。でなけれは私は、たとえこの先の人生を平穏に過ごしたところで、死んでいるのと同じだろう。

「何と比較しても、私は、この男を殺します。そう決めました。何を引き換えにしても……そうすべきだという考えが、どうしようもなく頭から消えないから」

「それが君を私と同じにする、、、、、、、答えだとしても?」

 欠子先生がこちらを見る。

 かつて嫌悪したはずの瞳がこちらを見る。かつて憎悪したはずの顔が、言いようのない貌となって私を見る。人殺しが、人殺しになろうとしている私を見ている。

 それでも私は、もうその眼差しを否定できない。

 私は人が人を殺す気持ちを知ってしまった。人殺しでさえ人なのだと、私は理解してしまった。

「……なんで、止めるんですか」

 それがどうしようもなく嫌で、私はそう漏らす。

「あなたに、そんな権利があるんですか。何百人も自分のために殺してきた人でなし、、、、のあなたに、私が人でなし、、、、に堕ちるのを止める資格があるんですか……!?」

「無いだろうな。……それに、ここでこの男を殺したとして、お前は人から畜生には堕ちない」

 その答えは予測していた内容とは少し違っていて、私は言葉に詰まる。

「お前はこの男を殺して当然だ。お前がこの男を殺害しても、もはや正当なんだ。誰がどう見てもお前はそういうところまで追い詰められているし、追い詰めたのはこの男だ。どこにも不当性がない」

 欠子先生は言いながら、おもむろに上着のポケットから一本のサバイバルナイフを取り出した。

「正直言って——私は、お前をこの場に来させるつもりは無かった。お前の目に決して届かないところでこの件を始末して、なあなあ、、、、にするつもりでいた。お前がこの男を殺すことは、この世の誰にも否定できないからだ。

 本当なら、お前はここに来れるはずは無かったんだよ。そうなるように無理な条件をつけた。だが、にも関わらず今お前はここにいる」

「それは……運が良かっただけです」

「だったらお前は余程の幸運に助けられた。その幸運と、それがもたらした結果には敬意を払うべきだと、私は考える」

 先生はナイフを管根の背中に立てる。突き刺すのではなく、切っ先がその肌に触れる直前の位置で。

「これを持て。しっかりと」

 真っ直ぐに目を見てそう言われる。どうすれば良いのか分からずに私が固まっていると、彼は私の右手をナイフを持っていない方の——つまりは血塗れの手で掴み、ナイフの柄に添えるように移動させた。

 欠子先生の手から流れる夥しい血が、私の手とナイフを伝い、管根の背中に流れる。

「良いか。力は真下に込めろ。このナイフは特注品で、切れ味は随一だ。一切の抵抗なく肉に滑り込んでくれる」

「何を……?」

「刃の角度と位置をズラすなよ。この角度、このベクトルで刺せば、肋骨の合間を抜けて綺麗に心臓に達する」

「ま、待ってください。いったい何をやってるんですか……?」

「やり方がなっていない、と言ってるんだ。殺人のやり方が」

 ふと私は欠子先生の口調が、普段の生徒への説教に近いトーンに変化していることに気付く。

「感情に任せて包丁を振り下ろすな。それはただの衝動だ、私と変わらない。殺す必要があるからではなく、殺したいから殺す。正当な殺人には、衝動ではなく人の理性に基づく殺意が必要だ」

「殺意——?」

「なぜ殺すのかを考えろ。なぜ殺したいのかを考えろ。人を殺してなお正当でありたいなら、殺人という極罪を真正面から背負わなければならない」

 そこまで言われて私は、自分が今、殺人を奨励されている、、、、、、、、、、という事実に気付く。いや、正確ではない。私は今——殺人によって、教え導かれようとしているのだ。

 欠子洸牙は人殺しだ。そして、欠子洸牙は教師だ。

 ならばこの瞬間、欠子洸牙は紛れもなく欠子洸牙だった。

「私を……止めないんですか?さっきは止めたのに」

「君が理性に基づいてこの男を殺すなら、それを止める権利は誰にも存在しない。君が殺したいなら、私はそれを止められない。

 いいか。しっかりとナイフを持って押し込むんだ。刺す場所を見据えて殺せ。自分が殺す命のことだけを考えろ」

 私の殺人を止める権利は誰にも存在しない。それが理性に基づく殺人ならば。

 衝動ではなく、理性で。

 ——その言葉を頭の中で反芻しながら、自然、私は手元のナイフをしっかりと握りしめていた。

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