第18話 悪徳の栄え



 夢を見ていた。存在しない国に行く夢を。

 その国には欠子洸牙というただ一人の人間しかいない。その国の国民は、欠子洸牙というただ一人の人間で構成されている。欠子洸牙が一千万人くらい集まって、国の形を成している。

 その国は独裁国家だ。ただ一人の欠子洸牙が、他の欠子洸牙を支配している。

 王の欠子洸牙は人を殺すのが好きだった。

 しかし一方で、ほとんどの国民は殺人などしたくなかった。しかし王の命令には逆らえない。どれだけ嫌と言っても、王が思い立てば兵役が課されて、その手足は殺人に使われる。

 兵役の頻度は一月に一度。どうやら前の殺人から一ヶ月ほど経つと、王の機嫌が悪くなって取り返しがつかなくなるらしい。だから王の側近や家来は、王の機嫌が悪くなる前に国民に命令を下して、人を殺させる。

 夢を見る欠子洸牙は考える。——この国は悪だろうか、それとも哀れな被害者だろうか。

 ほとんどの、九十九パーセントの国民は殺人を強いられている。悪いのは王だ。彼が殺人を欲するから、全ての欠子洸牙が人殺しになってしまう。

 しかしここで問題なのは、すべての元凶である王もまた紛れもない『欠子洸牙』である、ということだ。


「さあ。この国はどう定義される?」

 ——欠子は、自問する。

 そんな夢をもう何年も見続けていた。






 浅川あさがわビルは地上七階の雑居ビルだ。否、正確には打ち捨てられた廃ビルだった。

 この建物にはほんの二年前まで様々な店舗が入っていたが、自治体の方針で町の再開発のために閉鎖されてからは、時たまやってくる役所の人間しか立ち入らない。もう少しすれば解体される予定の、まさしく町の孤島と呼ぶべき場所だった。

 どんな町にも同じような"孤島"は存在している。過疎化の進んだ田舎にはもちろん、都会にも人が滅多に入らない場所は必ず存在する。そう言った場所は慢性的な犯罪の温床になりやすい。

 例えば、違法薬物の売買。

 そして殺人。


「——ここだったか。随分と探したが、面倒をかけてくれたものだ」

 欠子洸牙は浅川ビルの屋上に立っていた。

 もう日も沈み切り、月が空の直上にまで昇った時間帯。屋上はざっと十メートル四方ほどの面積で、外側は転落防止用の鉄柵に囲われている。

 欠子の視線の先には一人の男が立っていた。

 乱れ切った長髪に、正気が宿っているか怪しい目つき。眼鏡を掛けていないものの、その脆弱そうな顔は間違いなく写真の男と同一人物だ。——猟奇殺人犯と目される男、管根幸雄がそこに立っていた。

「管根幸雄。こちらを向け、ゆっくりと」

 屋上から町を見下ろす姿勢で欠子に背を向けていた管根は、名前を呼ばれて初めて他者の存在に気付いたらしく、ゆっくりと振り向いた。恐らく欠子の言葉に従ったわけではない。ただ自らの縄張りに侵入した者の気配に反応した、動物に近い行為だ。

「——、誰です、あなた?」

 呂律はやや回っていないが、はっきりとした言葉で管根は尋ねてきた。

「ほう。会話は出来るか」

「答えて下さいよ。誰なんですか、あなた。僕を知ってるようですけど」

「……まあ良いか、名乗っても。私は欠子洸牙。この町の高校で教師をしている」

「教師?」

 管根は首を傾げた。疑問を表現するジェスチャーにしては、大袈裟すぎるほどの角度で。

「教師が何の用です。僕は未成年じゃありませんよ。指導される謂れは無いと思いますけど」

「残念ながらそうはいかない。私も普通の教師では無くてね。ここには不良を探しに立ち入った訳じゃないんだ。もっと凶悪で生かし難い、この世のクズを探しに来た」

「——へえ」

 管根は目を細めて微笑んだ。

「確かに普通じゃないな。あなた、殺す気満々、、、、、って感じがする。何者なんです?」

「私のことは良い。それより答えろ。一週間前、鷺山という家に侵入して住人を殺したのはお前で合っているか?」

「……ああ、なるほど。それを訊くってことは、殺人鬼を追ってるわけね。でもあなたは警察じゃないみたいだ。あれですか、正義の執行人って趣ですか。ゴッサムのコウモリ、みたいな」

「私のことは良いと言ってるだろ。さっさと答えろよ。……まあ私としては答えなくてもまったく構わないんだが」

 欠子はそう呟くと、そこで初めて管根の眼を真っ直ぐに見た。

「…………!?」

 刹那、管根の額から一筋の冷や汗が流れる。

 殺人鬼は、自らの瞳を射抜いたその視線に宿った感情に圧されていた。そこにある感情は微塵の複雑さも孕まない。それは断じて、善悪入り混じった正義感などではない。もっと単一で、これ以上なく分かりやすい強烈な感情。

 ——怒りだ。その身に突きつけられるのは義憤などではなく、一人の人間が一人の人間を憎悪する時に発生する、掛け値なしの憤怒だ。

「はっきり言って、お前の認否なんていうのはどうでも良いんだ。お前が認めようが認めまいが、殺人鬼だという裏は取れている。

 ——本当ならお前のようなゴミ、今すぐにぶち殺してやりたいんだがな。私は仮にも教師だ。悪人相手でも言い分も聞かず手を出したんじゃ、教育者の姿勢として少々よろしくない、、、、、、。ただの体裁さ。お前が答えないなら答えないで、私は義務を果たした。あとは粛々と殺すだけ。解るか?」

「…………へえ」

 管根はこの瞬間に理解した。目の前にいる人間が『まともでない』という事実を、正しくはっきりと。

「凄いな。こんな人間がいるんだ、世の中には。……そうですね、僕が殺人鬼で合ってますよ。鷺山さんっていうのか。あの女の人は」

 あっさりと管根は自らの殺人を認めた。それを聞いて欠子はひっそりと——それは外から一見しただけでは分からないほど微妙な表情の変化だったが、明確に眉を顰めた。

「調べた限り、お前と鷺山家には一切の接点は無かったはずだ。何故あの家を選んで住人を殺した?」

「何故。はは、あの家だった理由なんてありません。目に留まったから、くらいの理由ですよ?」

 管根は悪びれもせず快活に喋る。

「……分からないな。どうして殺人を犯した。見たところ何の必要性も無いじゃないか」

「必要性?違うな、僕は必要だったから殺したんだ。だってそうだろ?人を殺せば誰だって特別になれるんだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、。誰だって。だから殺すのは誰でも構わなかった」

「特別だと?」

「ああそうさ。

 特別ってのがどういうものか考えてもみろ、それは悪人のことだ。善人やら模範的だとか、みんなに肯定される言葉はどれも『凡庸』の類義語みたいなもんだろ。特別でいるにはみんなから否定されてなくちゃ。僕はね、特別な人間でいたいんだ。誰からも認められる特別でありたい!だから人を殺した。とびっきり残酷に。でも誰もが願ってることじゃないか?それは——」

 管根の言葉はそこまでだった。彼の口からそれ以上の言葉が出ることは、痛みによって阻止された。

「……ッ」

 痛みの根源は管根の右頬。削がれたそこから血が流れ、顎を伝って落ちる。

 彼の皮膚を切り裂いたのは、刃渡り十センチほどのサバイバルナイフだった。欠子の投擲したそれは目にも留まらぬ速さで管根の頬を薄皮一枚を裂いて通過し、いま彼の背後の鉄柵に突き立っている。

分からないな、、、、、、

 欠子は言った。あくまで物静かな言い様だ。だが、それを『吐くように』と表現するなら、その度合いは嘔吐と表現して遜色ないものだった。

「お前は何故人を殺した?お前は殺さなくても良かったのに。人など殺さずとも生きていけるんだろう?だったら善人のまま生きていれば良かったじゃないか」

「……っ!は、話を聞いていたのか?僕は特別でありたいんだ!そのためにみんなから否定されて……」

「否定?それは違う。お前には周囲から肯定されるのが難しすぎただけだ」

 仮にこの場に純恋がいたなら、またも混乱の淵に落とされていただろう。今の欠子洸牙の顔は、彼の二面性を十全に知った彼女ですら知り得ないものだった。その顔は教師のようであり、人殺しのようでもある。過ちを犯したどこかの子供を折檻する教師の顔。そして人殺しの顔。

「——いいや、本来は難解でさえ無かった。ただ普通に生きていれば良かったんだ、それでいくらかの肯定は得られたはずだった。捜索の過程で随分とお前の知り合いに会ったぞ。善良な一般人だった。特に母親は随分と行方不明の息子を心配していたな。お前の親とは思えない。

 何故かこの社会にはお前のようなゴミが出続ける。明らかな幸福に目を向けることもせずに自らを不幸と信じ込み、人からゴミに堕ちる輩が後を絶たない。その原因は多くの場合、糞にも劣る劣等感や嫉妬、あるいは『自分は特別になれる』という傲慢だ。……ああ、つくづく万死に値する。醜く穢らわしい底辺のゴミクズ、、、、だ。本当にお前は、生まれるべきじゃ無かったよ」

「……!」

 冷めた眼で淡々と欠子は言う。そこに感情はなかった。彼の身体の内には、ただ空虚な義務が渦巻くだけだった。

 ——"こいつに命はいらない"、と。


 次の瞬間、欠子は動く。

 人としておよそ限界に近い瞬発力を発揮して相手との間合いを詰める。管根が驚き、思わず仰け反るような動きをしたところで、彼の喉仏に肘打ちを入れる。

 吐くように咳き込む管根。尻餅をついたことで丁度いい高さに位置した顔面を、間髪入れず欠子は蹴り上げた。その顔から鼻血が吹き出し、欠けた前歯が欠子の足元に転がる。

「うっ!」

 苦悶の声を上げながらも、管根は立ち上がった。その頭に既に戦意は無いに等しい。怯えたような目をして、欠子から遠ざかるように足を動かす。

 欠子は黙ってそれを見ながら、鉄柵の方へと歩み寄り、先ほどそこに突き立った自分のナイフを取り戻す。刃の先端は、管根の頬を切り裂いた時に付着したであろう血で僅かに赤く汚れていた。コートの裾でそれを拭くと、投擲する。力は込めず、河川敷で草野球をしている子供達にボールを返すような調子で。

 空中で二、三回転したナイフは、そのままおぼつかない足取りで欠子から離れようとする管根のうなじの辺りに命中する。

 刃の切っ先から来る鋭い痛みに管根は思わず目を細める。致命的な痛みではない、しかし確かな激痛。例えるならミシンの針に指を巻き込んだ時の、『嫌な痛み』。

 もっとも投げられたナイフにはそのまま肉を突き破るほどの勢いはなく、首の皮を薄く切り裂いた後、彼の足元に転がった。

「何をしてる。どこに行くつもりだ。まだどこかに行けると思っているのか?」

 囁くように語りかけながら、欠子が近付いてくる。

 管根は戦慄した。彼を見下ろす欠子の目は、まさに見下ろした、、、、、目だった。人が人を見る時にはあり得ない目。自らの餌が腐っていると知った獣の目だ。あるいは、人が虫を見る時の目。

 どらにせよ、尊厳のある者に向けられる眼差しではない。

「——くそ。くそ!舐めるんじゃねえぞ、ええ!?」

 ふと管根の心の内に湧いた僅かで薄い虚栄心は、辛うじて彼を立ち上がらせた。

 殺人鬼は目を剥いて欠子に飛び掛かる。当然のようにその攻撃は回避されるが、管根はそのままの勢いで欠子に殴り掛かった。格闘術の概念など微塵もない、ただ素人が拳を振り回すだけの攻撃。

 ただその攻撃は、素人ではあっても普通ではなかった。

 薬物で錯乱した精神は基本的な身体運びにさえ影響を及ぼし、酔拳のような塩梅で彼の動作を予想不可能なものにしていた。その上、管根自身は感覚が半ば麻痺しているので、おぼつかない足取りに吐き気を覚えて立ち止まることはない。

 結果、二、三度空を切った後、拳は欠子の右肩に命中した。

 ごきん、と人体の骨格が乱れる音。管根は確かな攻撃の成果を実感し、その口角を大きく吊り上げる。

 ——彼の鳩尾に欠子の脚蹴りがめり込んだのは、次の瞬間のことだった。

「えっ……、うぐ!?」

 いかに感覚が麻痺していようと痛覚が完全に消えているわけではない。内蔵が直接圧迫される苦痛はさしもの薬物中毒者でさえ耐えかねるものだった。激しく咳き込みながら、思わず管根は倒れ込む。

「ふむ。やっぱり普通じゃないか。痩せ細りの大学生に出せる力の範疇を遥かに超えてる」

 平然とした顔で喋る欠子だが、その右肩の位置は、左に比べて大きく下へズレている。折れているとまではいかなくても、肩が外れているのは確かだ。

 ——が。次の瞬間欠子は、まるで埃を払うような気軽さで負傷部位に手を添えると、正しい方向に力を込め、脱臼した肩を元に戻して見せた。

 驚愕する管根をよそに、欠子はそのまま先ほど投擲したサバイバルナイフを拾い上げ、刃に付着した少量の血を自身の服で拭き取ると、上着のポケットに仕舞う。

「——副作用が主作用がは知らんが、それは薬物摂取の結果だろう。やはりまともな代物じゃない。聞こえるかな、殺人鬼。お前が使った薬物には恐らく、脳のリミッターを外す作用がある」

 欠子は続ける——曰く、人体の機能は脳によって制限されている。筋力で言えば普段人が使える力は本来の二割程度である、と。その制限リミッターが稀に外れた結果が、俗に『火事場の馬鹿力』と呼ばれる現象だ。危機的状況において限定的に脳のリミッターが外れ、人間は普段の何倍もの力を出せる。

 管根の身体的特徴から予測できる力と、実際に殴られた際に感じた力。あくまで感覚的にだが、欠子は数倍以上の差異を感じていた。

「遺体は確か、無理矢理に胸部が切り開かれていたな。あんなものをどうやって生み出したのか分からなかったが……そうか、素手、、だったのか。女性の身体に力任せに指先を突き立て、開きにして殺したわけだ」

 欠子は、腰を折って這いつくばった管根の手先を革靴の踵で踏み抜く。数本の細い骨が粉砕する音が、管根には痛みとして、欠子には靴からの感触として伝わる。

「——っ!」

 痛みの程度は声も上げられないほどだったらしく、管根は悶絶するように身をよじる。欠子は酷く慣れた動作で暴れる管根の無事な方の腕を引っ張り上げると、僅かな抵抗を物ともせず、明後日の方向へ折り曲げた。さらには両脚のアキレス腱に当たる部分を踏み抜く。

「ぎゃあああああッ!」

「うるさいな。仕方ないだろ、お前がクスリなんぞやってるのが悪いんだ。感覚が麻痺してるんじゃ、どれだけ痛めつけても動ける可能性は排除できない。万が一飛び降りられて、しかも奇跡的に生き延びてもされたらたまったものじゃ無い。根本的に歩けないようにするしか無いだろう」

 作業を終えて、欠子は立ち上がる。眼下には四肢がそれぞれあるべき形を失った管根の姿。見るも無様に這いつくばり、口からは唾液を撒き散らかしている。

「……さて、どうしようか。私という人間の性質上、お前は殺すしか無いと思うんだが。しかしどうだろう、それは教師として良く無いかもしれない」

 教師として良くない。もちろん、『人殺しは良くない』という意味ではない。その一線だけは無視しなければ、欠子は生きていけないのだ。だからこれは、管根を殺すことは大前提とした上での葛藤だった。

 欠子の言葉はもはや会話ではなかった。足元の殺人鬼にはヒトの言葉を掛ける意味も、価値もない。彼はいま誰にでもなく、虚空に、あるいは自分自身に向けて話している。

「なあ……どう思う?健気にもここまで辿り着いた教え子の願望を、にべもなく潰してしまうのは教師としてどうなのだろう?」

 ——否。それはあくまで会話だった。自分自身へではなく、ましてや管根であるはずもなく、ここにいるもう一人の人間へ向けての。

「——なあ、鷺山純恋?」

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