第14話 ある視点、怪物





 欠子先生は場所を移そうと言ってきた。確かにこれからする話は鍵も掛けられない客間でするようなものじゃない。そんな訳で移動先は屋敷の二階にある先生の自室ということになった。

「ちょっと、それって倫理的にマズくないの?」

 なんて、常識的な意見を出すのはカレンさん。確かに教師が女子生徒と自室で二人きりというのは、世間的には大いにマズい。

「デリケートな話だ。彼女のプライバシーにも関わる。部外者のいるところでする話じゃない」

「偉そうに。コウちゃんが帰って来るまでの間、誰がスミレちゃんをもてなしてたと思ってるのよ」

 カレンさんの欠子先生への態度は、私へのそれと違ってかなりサバサバとしていた。もっともこれは険悪と言うより、何でも言い合える仲と思うべきだろう。事実、二人の表情はいかにも『いつも通り』という感じの、飾りないものだった。

「いい加減にしろ。だいたいアンタだって忙しい身のはずだろ。喋ってる暇があったら、さっさと仕事を進めたらどうだ」

「はいはい、分かったわよ。スミレちゃん、襲われたら大声出してね。お姉さん飛んで来るから」

「あ、はい。でも大丈夫だと思いますよ」

 と、私は素直な答えを返した。少なくともそういう意味、、、、、、なら、欠子先生に襲われるという心配は皆無に等しいだろう。

 心配なのは、もっと剣呑で危険な意味の"襲われる"だ。


 欠子先生の部屋は、一言で言うと簡素な書斎という感じだった。目立つような突飛な装飾もなく、家具や壁紙も部屋の雰囲気に合ったものに統一されている。

 部屋の端にある本棚の中身は、意外なことに活字より漫画の方が多い。普通の文芸書との比率は目算で四対六くらいだろうか。

 欠子先生は私に椅子に座るよう促した。黙って従うと、先生自身は壁にもたれ掛かる。

「……あの姉の相手は疲れる」

 扉の鍵を閉めると、欠子先生はそんなことを言って溜息をついた。

「さっき『仕事柄、人間を見るのは得意』みたいなことを言われたんですけど……カレンさんは何を?」

「海外の映画やドラマなんかの、まあ脚本家だ。今はここに居ついているが、数年前まではアメリカを飛び回っていた」

「そんな人がどうして日本の、こんな町に?」

「私が教師を始めると言ったら、『じゃあ家を建てよう』と言い出した。あまつさえ一緒に暮らそうと。……何と言うか、断り切れなかった。学校なんて、いつ転勤になるかも分からないだろうに」

「……お金持ちなんですね」

「親が裕福だった上に、カレンの作る映画は売れるらしいからな。私は見たこと無いが。

 ……それと、彼女に余計なことは言うなよ」

 いくらな声を低くして、欠子先生はそう言った。

「余計なこと、って」

「彼女は私が人殺しだとは知らない。いいか、これだけは守れ。カレンに私の本性を、ほんの少し仄めかすだけでもだ。そうなったら君の相談とやらには二度と乗らない」

「……っ」

 欠子先生から教師の微笑も和やかさも消えた殺人鬼の眼差しを向けられて、思わず身が竦む。

 でも同時に私は、どこか安心感のようなものも覚えていた。

 少し考えて、その理由は分かった。もしもカレンさんが欠子先生を殺人者と知っていたら、私は今までと違った目で彼女を見ることになってしまうだろう。カレンさんが欠子先生を弟として真っ当に愛しているようだったから、私は、カレンさんが人殺しでも家族と認められるような人、、、、、、、、、、、、、、、、、であることを恐れたんだ。

「……分かりました。秘密は守ります」

「良し。

 それはそうと、この住所をどうやって調べた?」

「……電話帳です。珍しい苗字だから簡単に見つかりました。こんなに学校の近くに住んでのは驚きましたけど」

「このご時世に、随分とレトロな方法を使ったものだ」

 欠子先生はそう言って苦笑する。

 先生はそれから、やおらその目つきを鋭くした。途端に彼は、本題に入るんだと私にも分かるような人殺しの気迫を帯びる。

「——君の母親を殺したのは私じゃない。それは分かっているな」

「……ええ。あんな脅しをした後で、欠子先生にお母さんを殺す理由はない」

 答えると、欠子先生は満足げに頷く。

「良いだろう。それで何を手伝って欲しい。私の認識が正しければ、君は欠子洸牙を嫌悪していると思っていたんだが」

「あなたは嫌いです。人を傷つけて、殺すのが止められないなんて、憎いと言っていいくらい。……でも今は、それ以上に憎い存在が出来てしまった。あなた以上に許せない人間が。

 ——私のお願いなんてどうせお見通しなんでしょうし、はっきり言います。お母さんを殺した犯人を探し出して下さい」

「探し出す、ね」

 そう呟くと、欠子先生は俯いて息を吐いた。

「警察だって捜査はしているだろう。それを待てば良いじゃないか」

「時間がかかりすぎます。それに警察は、私を助けてくれても手伝ってはくれない。私は私自身で犯人を見つけたいんです」

「だったらもう少し彼らの保護下で大人しくしているべきだったんじゃないか。捜査に参加できなくとも、被害者家族なんだから、情報はいち早く伝えられるだろう。君ならそういう話を漏らしてくれる"仲良し"の一人や二人、作るのは容易いはずだ。自分で動くのはもう少し情報が出揃ってからでも遅くないだろうに」

 ……確かにその手段も考えはした。けど結局、おそらく警察では駄目だと言う結論に私は達した。

 『仲のいい警察官』は実際にいたのだ。私に痛く同情したのか、色々と世話を焼いてくれる婦警さんが。

 彼女はこちらから尋ねずとも、捜査状況を話してくれたりもした。しかし話を聞く限り、状況は芳しくないらしかった。

「金品が盗られた形跡がないので強盗の可能性は低いらしいんです。でもそうなると、動機が全く不明になる。凶器も見つからないし、何より殺害方法が異常すぎる。……素人目にも、正攻法じゃ難しいと分かります」

「殺害方法か。噂には聞いている。被害者は胴体を開かれていた、、、、、、、と。……君は見たのか」

「…………」

 見た。はっきりと。けれどその光景は、思い出すだけで狂いそうな景色だ。

 ……でも、話さなければいけない。重要な情報だ。いくら欠子先生でも最低限必要とするくらいには。

「目の前の現実を疑いました。あれが人の身体だと、今でも信じられないくらい。

 ……仰向けに横たわったお母さんの、お腹から胸の辺りまでが、まるで内側から爆発でも起きたみたいにぱっくり開いているんです。骨まで丸見えで……本当に魚の開きみたいで。あんなの、いったい誰がどうやったら……っ」

「分かった。もう良い」

 思わず口から嗚咽のような息が漏れたところで、欠子先生はそう言って私の言葉を遮った。

「異常な殺人だと言うことはよく理解できた。警察では時間がかかると言うのも分かる。だが、だからと言ってわざわざ私を頼る理由にはなっていない」

「……邪道は正道よりも効率という言葉と仲が良い。そんなの私にも分かります。人殺しのあなただからこそ、法から逸脱することに慣れた先生だからこそ、取れる手段があるんじゃないですか」

「だとしても、分かっているのか。それは悪をもって悪を制すということだ。君はそういう考え方は嫌うと思っていたんだが」

「以前ならそうだったと思います。でも今は……それが間違っているとは思えません。それに、悪を成して巨悪を倒すなら、結局この世から悪は減ります」

「巨悪、か。君の母親を殺した男が私より『悪』だとは思えないがね。そいつが連続猟奇殺人犯罪だとしても、せいぜい経験人数は二桁に行くか行かないかだろう」

「私にとっては、この世のあらゆる犯罪者より悪人です!」

 気付けば私は叫んでいた。

 知らず知らずのうちに肩が震えている。出し尽くしたと思っていた涙が、また溢れそうになる。顔だけでなく、身体全体が溶岩に纏われたように熱くなる。

 お母さんは死んだ。きっと苦痛の限りを尽くして、殺された。私にとってはもう唯一の家族だった。

「お母さんが死んだ前と後で、何もかもが違うんです。今まで正しいと思ってたことがあやふやに見える。今まで間違っていると思っていたことが、大して悪いと思えない。きっと一人の人を憎みすぎたせい。今は欠子先生さえ……」

「憎くない。いや、嫌悪が薄れてしまったか。あれだけ私を嫌悪した君が、たった数日で随分と変わったものだ」

「……そう。変わったんです。変えさせられた。私はもう綺麗ではいられない。そんなの心底から嫌だけど、きっと私は——犯人を憎悪してる」

 一人の人間を憎悪する。どんな理由があれ、それは悪いことだと思っていた。どんな理由があれ、人を傷つけたいと思うようなことはあってはならないと。

 それがどれだけ独りよがりな妄想だったのか、今になってはっきりする。

 私はただ、人を憎むことさえせずにいられるほど幸せだっただけなのだと。

「私はもう人を憎まずにはいられない。穢れた悪人です。だから……あなたに助けてもらっても、何とも思わない」

「違うな。君は善人だ。紛れもなく」

 投げかけられた予想もしない言葉に、私は思わず顔を上げる。その語調はあくまで厳しく、しかし優しげな落ち着きを孕んだものだった。

「君は、人を憎む自分自身を嫌悪している、、、、、、、、、、、、、、、。大切な家族を殺した相手だというのに、そんなクズ野郎を憎むことさえ悪としている。それは君から潔癖さが消えていない証拠だ」

「……それは、きっと甘さです」

「違う、恥じることのない善性、、だ。いいか、偽悪的になるな。自らを"どんなことでもやる"と律し、行動から道徳の枷を排除するのは確かに効率がいい手段だ。しかしそれをやると後で立ち直れなくなる」

 欠子先生はあくまで落ち着いた口調で、しかしどこか必死さを感じさせる真摯さをもって言葉を紡ぐ。……その姿は馬鹿らしいほど、『生徒を案ずる教師』だった。

「大切な目的を前に、よくその目的を達成したら自分は死ぬんだと勘違いしている馬鹿がいる。しかし現実は違う。その先にも君は続くんだ」

「そんなこと……!」

 言い返そうとして、私は辛うじて踏みとどまる。——いま彼は、何も間違ったことは言っていない。

 反射的に否定してしまいそうになるのは、きっと私がこの人を人殺しと認識しているからだ。許せない悪と思っているから。……それは欠子先生の言った通り、私から良識が消えていない証拠なのだろうか。

「……そんなことは、考えていませんでした」

「だったらそれを考えさせるのが私の仕事だ。

 良いか、犯人は探してやる。警察が見つける十倍は早く探し出してやる。だが君は黙って待っていろ。私が探し、君は喜ぶ。これから起こるのはそれだけだ」

「……待ってください」

 話が望まない方向に流れるのを察して、私は口を挟む。

「このまま指を咥えてじっとしてろって言うんですか。私は私で犯人を見つけたいんです。あなたにして欲しいのは、その手助けで……」

「私を使うと言うなら、それが手っ取り早い。それに言っただろう?"健全な子供"がする事じゃない」

「私でなきゃ駄目なんです!」

 そう声を張り上げると、欠子先生はその目を細めて押し黙る。その表情には何と言うか、……『ああやっぱりな』、という感じの見透かしたような不気味さがあった。

「——それは、君の母親が大事だったからか」

 少し間を置いて、欠子先生はそう訊いてきた。質問の意図は分からないままに、ともかく私は頷く。

「そうです。お母さんが大事だったから。大事なお母さんを奪われたから。だから私がやらなきゃいけないんです」

「……そうか。羨ましいな」

 欠子先生は、吐き捨てるようにそんなことを口にする。その声には今までと違った、何か彼の本音のようなものが含まれている気がした。

「私の親についてはカレンから聞いたか」

「……はい。ご両親とも亡くなっていると」

「『勝手に聞いて申し訳ない』みたいな顔をしないでいい。彼らが死んだところで私には何の悲しみもなかった。君のところと違って、私の家では親子仲が悪かったからね。

 信じられるか?両親は、私が生まれた時より既に私が人殺しと知っていたんだ」

「……え?」

 そう口にする欠子先生は、まるで悪戯を告白する子供のように意地の悪い笑みを浮かべていた。

「……まさか、そんなこと」

「事実だよ。私の内に確かにある異常な衝動を、彼らは直感で解っていた。親子の繋がりとはまったく凄いものだ。だから彼らは私を子供として扱わなかった。殴られるような事こそ無かったが、愛情を与えられたことはない。断言する。朝晩の挨拶さえ交わしたことが無い。

 君はどう思う?私の親は善人だったと思うか?

 我が子が悪人と知って愛を与えなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、、良識ある善人か、悪人とは言え我が子に愛を与えなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、、良識のない悪人か」

「……それは——」

 善人か、悪人か。それはたった二択でありながら、これまで解いたどんな試験の問題より難問だった。

 悪人を憎む。これは人として当然だ。その意味で欠子先生の両親は、真っ当な人間だったと言える。

 しかし我が子を愛さない。これは紛れもなく悪だ。その意味で欠子先生の両親は悪人となってしまう。

 二つの矛盾する要素を同時に孕んだ存在。どちらかが嘘という訳ではない。——この存在を、どう定義すればいい?

「私は両親を悪だと定義した。だから彼らが死んでも何の感情もなかった。しかし真実は違うのだろう。

 ——いや。余計なことだったな。自分の家だからか、話さなくていいことを話しすぎた」

 自らの無駄な行動を省みるように、欠子先生は自分の額を軽く小突いた。

「話しを戻そう。自分の手で犯人を見つけたい。それが君の望みだ。しかし困ったことに、私はその展開をあまり望まない。教師としても、教育に悪いと言わざるを得ないからな。互いの意見が完全に対立してしまった」

「……どうすれば良いんですか、先生」

「互いに妥協するしかない。こうしよう。私は私で、君は君で犯人を捜す。別々に競争ということになる」

「そんなの、私が勝てる訳ないじゃないですか」

 仮にも社会人として信頼を勝ち得ている欠子先生とただの高校生である私では、情報力に差がありすぎる。文句も当然だった。

「だからハンデをやる」

 欠子先生はそう言って、ワイシャツの胸ポケットから一枚の写真を取り出し、私に差し出してきた。

 受け取ると、そこに写っていたのは特徴のない顔をした男だった。肩まで伸びた髪に黒縁の眼鏡。何かに怯えるような弱々しい目をしている。

 写真の裏を見ると、そこにはマジックペンで『管根幸雄』と書かれていた。

「裏に書いてあるのがそいつの名前だ。読み方はクダネユキオ。二十六になっても定職に就かず、親の脛と資産を齧って生きている。いわゆる社会のクズだ」

「……えっと、この人が何なんですか?」

「君の母親を殺した犯人だ」

 あまりに素っ気なく言われて、私は何秒かの間、何を言われたのか理解できなかった。

「犯人、って……」

前もって調べておいた、、、、、、、、、、。まずそいつで間違いない。君が来るかもしれないとは思っていたからな」

 先生の言葉を聞きながら、自分の中に言いようのない感情が湧き出るのを感じていた。同時に腹の奥で何かが唸るような感覚と、脳味噌が沸騰するような感覚が私を襲う。

 少し考えて私は、それがこうも簡単に犯人に辿り着いていた欠子先生への戦慄と、犯人の実像を掴んだことによって再燃した激情だと理解した。

「……この、男が……!」

 私はしばらくの間、涙を堪えるのに精一杯だった。少しして、そんな興奮が落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、欠子先生が口を開く。

「その写真を君にやる。それが原本でコピーは存在しない。人探しの時に写真があるのと無いのでは効率が違うのは理解できるだろう。いいか、そいつはこの町にいる。この近辺で頻繁に目撃証言が取れたからな。まずは人の多い繁華街やら商店街やらで聞き込みをしてみるといい。

 それと、もう一つ条件がある。君は日の出ている時間帯以外は家の外に出るな。この時期ならそうだな、午前六時から午後五時くらいまでがタイムリミットだ」

「……それって、何のためですか」

「担任としての安全管理だ。管根がどうして君の母親を殺したのかはまだ分からないが、一家ぐるみで恨みを買っている可能性もまだゼロではない。それと、結果を焦ってヤクザを訪ねたりするなよ。あくまで日の当たる場所で探せ」

「……分かりました」

 欠子先生は何一つ間違ったことを言っていない。不満でも、こればかりは承諾するしかなかった。

「そう不機嫌そうな顔をするな。第一、私は学校で授業をしながらの行動になる。時間的には君の方が明らかに有利なんだから」

「分かってます」

「なら良い。

 ……ああそれと、君、今日からどこで寝泊りする気なんだ?」

「どこで、って……」

「家には帰れないだろう。かと言って、飛び出しておいて今さら警察も頼れない」

 そう言われて、私は自分がなかなかの窮地に立たされていることに気付いた。

 確かに家には戻れない。人が暮らせる状況じゃないし、警察の人がいるかも知れない。かと言って、あんな辛辣な言い方をした後で警察に戻るのも無理だ。そもそも彼らの保護下に戻ったのでは、犯人探しなど出来くなるだろう。

 友達の家に、と言うのも無理がある。普通に考えて迷惑にしかならないし、カナエの家なら何度か泊まったことはあるが、それにしても余計な心配をかけることになる。

「……野宿、とか」

「何もないんだな。だったらここに泊まると良い」

「はい?」

 私がそんな風に訊き返した時には、欠子先生はリュックに何やら荷物を纏めたり外行き用のコートを用意したりと、明らかに外出する準備を始めていた。

「この家は広い。姉は金も有り余ってる。少しの間、住人が一人増えたところで何の問題もない。ああ安心して良い。倫理的社会的な問題を回避するために、私はしばらく外泊するから」

「外泊って……」

「ビジネスホテルなら駅前にいくつかある。それに、ここから先は私はいくつか非合法な手段を取ることになる。自宅よりホテルの方が都合がいい」

 それは確かに私からすれば大助かりの話だけど、やっぱりマズいんじゃないか、という気持ちが先行する。教師本人が消えるとは言っても、生徒が教師の家に泊まるというのは明らかに問題だ。

 こんな相談をしに来た時点で欠子先生の負担を慮る必要はない気がするが、それにしてもカレンさんに迷惑を掛ける。

「あの、それはいくら何でも……」

「カレンには私が話を通す。それと一応言っておくが、『欠子先生の家に泊まった』などとは絶対に誰にも言うんじゃないぞ。大問題になる」

「やっぱりマズいんじゃないですか。それなら私、別の手段を探しますよ」

「人殺しに人殺しを探させるのに、今さらマズいも何も無いだろう」

 そう言われて、私は何も反論できなくなる。

「人生に幸不幸の波があるなら、君はいま地獄の釜の底にいるんだ。人の厚意くらい抵抗なく受け取ってもバチは当たらない」

「……分かりました。じゃあ、遠慮なくお世話になります」

「世話をするのは姉だ。礼は彼女に言ってくれ。君が泊まると言うことは私が伝えるから、そうだな、十分くらい経ったら一階したに降りて来なよ」

 そう言い残して、欠子先生は荷物を纏めた鞄を手に部屋を出て行った。

 と思ったら、すぐに部屋のドアが開いて、欠子先生が顔を出した。

「忘れるところだった。最後の条件だ。無事に犯人を見つけたら、その次の日から君は学校に来い」

「……ええと、どうしてそれが条件なんですか?」

 今までの話とは随分と毛色が違う『条件』に、私は首を傾げる。

「どうしても何も、何日休んでると思ってるんだ。もう一週間になるだろう」

 先生の口から出たのはあまりに一般論で、私は思わず苦笑する。単なる不登校の問題児になった気分だ。

「私、お母さんが亡くなったばかりなんですよ。学校なんて何日休んでも不自然じゃないでしょう」

「だとしても一週間以上は流石に長すぎる。勉学は学生の義務だ」

「……学校って、そんなに大事ですか?」

 普段とあまりに状況が違うせいだろう。一週間前の私なら考えもしなかったことが、自然と口に出てしまう。

 優等生の鷺山純恋なら、『学校なんてどうでもいいじゃないか』なんて言うクラスメイトがいたら、やかましく説教を垂れていただろうに。

 欠子先生は、——まるでそんな『私』を演じるように、

「大事だ。真百合にも同じようなことを言ったが、学校というのは社会に認められるための通過儀礼だ。どんなに才覚があっても、全国民の九割以上が当たり前に通ってくる場所さえ通っていない人間を、社会は人として認めない。……君はそう言う人間を真っ当に軽蔑する、、、、、、、、タイプだと思っていたが。

 君は私と違って健全なのだから、出来る限りは健全に人生を生きろ」

 最後の言葉は、彼の口から紡がれた他の言葉よりもいっそう本音らしく、、、、、聞こえた。

「とにかく、良いな。事件が解決したなら学校に来い」

「…………」

「返事は?」

「……あ、はい」

 そんな、私のやや遅れての返事を聞いて、欠子先生は満足そうに頷いて部屋を出て行った。

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