第13話 ある視点、哀れな家族





 頭がおかしくなりそうだ。……いや、自分でそう思っているだけで、きっととっくにおかしくなっているんだろう。

 よく、狂人には狂人たる自覚がない、なんて話を聞く。狂った人間というのは第一の前提として、他人を普通と認めないのだ。狂人にとっては普通というのはあくまで自分を指す言葉であって、だから、狂人は自分が狂っていると思わない。自覚のある狂人というのは、あくまで少し人と違った部分を持つだけの常識人なのだ。

 考え方を変えれば、人間というのはそこまで自分とかけ離れていないと、同じ人間を精神構造のみで『人間でない』とは判断しないのだろう。


『助けて』

 聞こえないはずの声が聞こえる。

『痛い』

 聞いていないはずの声が思い出される。

 もう何度も同じ夢を見ていた。お母さんが殺される夢。その場面の夢。私が見ていないはずの光景が、私の頭の中に上映される。

 誰かが彼女に馬乗りになる。顔を殴って、あるいは手足を折って、その動きを封じる。それからそいつは、ゆっくりとお母さんを”開き”にする。ある時は道具を使って、ある時は素手で、お母さんの胴体を無理やり開いていく。その場面を延々と、何度も繰り返して見せられる。そんな夢が、これまた何度も繰り返す。

 ――どうしてこんな夢を見るのか分からなった。

 夢を見る時、特に現実に即した夢の内容は、その人の目的や願望に関連することが多いと思う。それこそ言葉通りの『将来の夢』が実現されていたり、あるいは好きな人の夢を見たり、行きたい場所に立っていたり。願望も夢も人の脳が作るものなんだから、関係がないはずがない。

 だとすれば、私はお母さんが殺されたという事実を前に、何を願っているのだろう。今さら私の中に何が残っているんだろう。

 ――後悔?

 それは違うとすぐに分かる。だって私には後悔することが存在しない。

 あの殺人は、どうしようもなく私と関係ないところで起こったものだ。私が学校に行っている間の出来事だったし、たとえ私があの時家にいたとしても、非力な女子高生では死体が一つ増えていただけだろう。私が過去にこうしていれば、というもしもの行動、、、、、、にお母さんを助けられる余地は存在しない。

 お母さんに生き返ってほしい、なんて夢見がちな願いも、たぶん原因ではない。そんな現実逃避なら夢でなくても数百回はやった。それだけやればいくら何でも飽きる。

 私の願望は過去や、あるいは空想の上には存在しない。それが向いているのはあくまで現実の未来だ。

 これから先に、お母さんが殺されたことと関連して、私に出来ることがある。それが夢の原因だ。私の脳味噌が、ちっぽけな深層心理が命じている。そうしろと、その思いを忘れるなと。

 言わずもがな、その願望は明白だ。私自身の手で犯人を見つける、、、、、、、、、、、、、、ということ。


 ――ああ、思考がクリアだった。

 私の頭は今や空っぽになったかのようだ。今や”その願望”だけが鷺山純恋を統率している。

 当然と言えば当然だ。お母さんの死体を見つけてからもう五日以上が過ぎている。

 最初は叫んだ。警察に通報するのも忘れて、声が出なくなるまで泣き叫び続けた。結局のところ通報したのは、私の悲鳴を聞きつけた隣人だった。……私の心はそれどころでなくて、細かいことは覚えていないけど。

 その後は、何も出来なかった。

 私からはもう自分の意志で行動する、という能力が剥がれ落ちていた。身体のリソース全てが悲しみに費やされていた。

 私は警察に保護された。彼らはあくまで同情的だった。私は話を聞くのもままならない状態だったし、何なら彼らの目の前でも何度も嘔吐したが、それでもなお優しい人たちのままだった。

 警察署につく頃には流石に涙も枯れ果てていたけど、それは身体が私の悲しみについてこれなかっただけの話だ。心の方はずっと泣き通しで、泣いているのだから、やっぱり会話もままならない。食事なんて当然喉を通るわけがなくて、辛うじて水だけを飲んで生きた。警察の人が学校からの連絡なんかも伝えてくれたけど、果たしてどれだけの情報がきちんと記憶に残っているだろうか。

 でも、その心の悲嘆も、何日も過ぎれば鳴りを潜める。そこからは先に述べた通りの夢の時間だった。ただ一つの悪夢を見続ける。そこには悲しみも絶望もなかったと思う。

 立ち直ったわけではない。私を支配しているのは未だ負の感情だ。だだ私の内にあった様々なマイナス、、、、が、ただ一つの目的に統合されただけ。言い方を変えるなら、落ち着いたのだ。

 その落ち着きを自覚してからは早かった。

 警察が用意してくれたホテルにはいられない。それに彼らの保護というのも、行動の邪魔になる。これからは幅広く行動する必要があった。

 まず彼らの保護下から抜け出した。あなたたちを信頼できない、なんて失礼な言い方もして、最終的にはほとんど逃げるような形だった。

 

 ただ一つの目的が私という人間を支配する。

 ただ一つの決意が私という人間を操っている。

 お母さんの仇を私が討つ、という意志が。

 ……その感覚はどこか快楽に似ていた。





 見慣れた道を歩く。

 学校から帰る道。いつも通りの帰路。ただし今は道が被っているだけで、家に帰るのではない。……そもそも今、私の家は帰れるような状態ではない。

 時刻は昼過ぎ。高校生なら昼ご飯を食べ終えて、午後の授業を受けている頃合いだ。学校の近くでも、この時間では知り合いに鉢合わせることはないと思う。――考えてみれば、学校を休むなんて初めてだな、なんて思った。

 そういえば、私は制服を着ていた。お母さんの死体を見つけた時に来ていたものだ。保護された後は着替えがなくて、警察の方で用意してもらった服を借りていたけど、流石にそれを持ち出すわけにはいかなかった。


 そうしているうちに、目的地に着く。

「――大きい」

 そんな感想が口から漏れる。

 目の前に建っているのは、およそ個人宅としてはかなりの大きさの住宅だった。洋風の趣がある二階建ての建物で、庭も大きい。私の家と比較しても勝るとも劣らない立派な屋敷だ。

 表札には、間違いなく『欠子』とある。

 ——そう。私が助力を求める相手として選んだのは、欠子洸牙その人だった。

 学校で恐らく最も人気のある人物で、なおかつ、私が今までに見知ってきた人たちの中で、恐らく最も有能な人間。私からすれば担任教師であり、……同時に、私が最も嫌悪した人間でもある。

 でも私の目的には、彼のような何でもできる、、、、、、、大人が必要だ。殺人者を頼ってでも、私はお母さんを殺した犯人を見つけ出す。――ここに来て、それが私の全てになっていると気付かされる。

 人殺しを見つけるために人殺しの手を借りるなんて、以前の私なら絶対に思いつかなっただろう。思いついたとしても手段として実行はしなかったはずだ。

 悲しみか、もしくは決意が私を変えた、ということだろうか。

「…………」

 益体のない思考を打ち切り、私はインターフォンを押した。

 とはいえこの時間に欠子先生は在宅していないだろう。母が殺された件で半ドンにでもなっていれば話は別だが、そうでなければ今は授業中だ。

 いなければいないで構わない。それならここで何時間でも待つつもりだった。

 ところが予想に反して、インターフォンからはすぐに応答があった。

『はい、どちらさま?』

 いかにも活発そうな、若い女性の声だ。私は同居人の可能性を完全に失念していたことに今さら気が付く。考えてみればこれだけ大きい家に一人暮らしというのも不自然な話だった。

「え、っと、鷺山純恋と言います。あの、私……」

 若い女性という完全に予想外の相手に、私は焦ってしまう。こういう時、なんて言えばいいのだろうか。……これも多分、普段の私なら戸惑うことなくこなせていたことだ。

「……欠子先生の生徒です。先生に相談したいことがあって。あ、ここって、欠子洸牙さんのお宅で間違いありませんか」

『ええ、合ってるわよ。サギヤマスミレちゃんね。成績優秀の委員長さん』

 言われて、私は疑問に首を傾げる。どうしてこの人はそんなことを知っているんだろう?

『入って来ちゃって構わないわよ。ロックは開けとくから』

「えっ、と……」

 そんな簡単な、と訊き返す前に、ぷつりと音を立ててインターフォンの通信は切れた。

 言われたことに従う他にどうしようもないので、私は門扉を潜り、庭を突っ切って玄関の前に進む。

「……お邪魔します」

 そう言って恐る恐る扉を開けると、目の前には艶のある黒髪を腰元まで伸ばした女性が待ち構えるようにして立っていた。

「ようこそ、って言うのも変かな。ともかくはじめまして、スミレちゃん。さ、入って入って」

 女性はそんな砕けた口調で手招きをしてくる。額に眼鏡を掛けていて、カジュアルなワンピースを着ていた。

 同性として脱帽ものの美女だ。少女のような笑顔を浮かべて、特に化粧気も感じられないのに、大人の色気というものが滲み出ている。プロポーションも抜群で、モデルと言われても信じるだろう。年齢は欠子先生より四、五歳くらい上だろうか。

「ええと、欠子先生のご家族……ですか?」

 恋人でも釣り合っているな、と思いながら尋ねる。

「そ、家族よ。欠子華憐かきねかれん。欠子洸牙先生のお姉さん。カレンさんで良いわ。実はコウちゃんがね、数日のうちに生徒が訪ねて来るかもしれないって言ってたの」

「……え?」

「まあとにかく上がっちゃって。見ての通り無駄に大きい家だから、のんびりしてね」

「は、はい。……失礼します」

「失礼します、って職員室じゃないんだから」

 カレンさんは明るく笑って、私を客間に通してくれた。西洋風の趣向が凝らされた十畳ほどの部屋。家具もそこらの量販店で目にかかる事のないような、高級感漂う物ばかりだった。

「座って。コーヒーと紅茶どっちが良い?」

「あ、ええと、お構いなく」

「コウちゃんの生徒さんにお茶も出さない訳にはいかないって」

「……ええと、じゃあコーヒーを」

「オッケー。冷たいのとあったかいの、どっちが良い?」

「じゃあ、ホットでお願いします」

 ちょっと待ってね、と言い残して、カレンさんは客間を出て行く。

 明るい人だ。思わず溜息が出るほど。

 容姿端麗なところや高身長は共通しているが、性格は欠子先生とは正反対のようだ。特に彼の『本性』における冷酷な一面など、カレンさんには微塵も感じられない。

 そもそもあの人には、勝手な偏見だが一人暮らしのイメージがあった。それが同居人がいて、しかも家族だと言うんだから、正直に言えば驚きだ。もっともここは欠子先生の生家と言うには新しすぎるので、"実家暮らし"という訳では無いのだろうが。

 と、そんなことを考えていると、ドアが開きカレンさんが部屋に這入ってきた。手にはアンティーク調の盆を乗せて、その上にはティーカップが二つ。

「お待たせ。ホットコーヒーね」

「ありがとうございます」

 美味しい。一口飲んでみて、そんな感想が漏れた。同時に、苦味と甘味が絶妙な塩梅で混ざり合った液体が、私の身体の隅々にまで行き渡るような感覚を覚える。

「そう?良かった。砂糖とミルクの加減は、コウちゃんが好きなのと同じにしてみたんだけど」

 そう言って、カレンさんは得意そうに笑った。

 コウちゃん——欠子先生の事だろう。彼も家では、家族の淹れたコーヒーを楽しみにしたりするんだろうか。それもまた、イメージとは真逆の光景だ。

 人間の想像は大抵の場合、現実と大いにすれ違う——そんな言葉を思い出した。

「あの、カレンさん。欠子先生って、この家だとどんな風なんですか?」

 ふとそんな事を訊いてしまう。

「どうって、たぶん学校と変わらないんじゃ無いかな?生意気で、冷静ぶってて、皮肉屋。コウちゃんは職場の話とかほとんどしないけど、表裏を作るような性格じゃ無いし、学校でもそんな風じゃない?そっちこそ、先生としてどうなの?あいつ」

「学校では、ええと、人気です。他の先生から信頼もされてるし、生徒からは好かれてます。万能超人とか呼ばれてたり……」

「どこに行こうとそうなのよ、コウちゃんは。昔っから何だって出来るくせに、妙に世間体とか気にするのよね。だから自分からヒエラルキーの上に行こうとするし、行こうと思えば簡単に行ける能力があるから、あの子の立ち位置はいつもピラミッドの一番上。外面を気にするなら、白髪くらい染めなさいって話だけど」

 憎まれ口を叩いても、カレンさんの口振りからは欠子先生への愛情が感じられた。家族への当たり前の愛。……つい数日前、私が失ったものだ。

 ——この人は、欠子先生が人殺しだと知っているんだろうか?

「顔色、悪いね」

 俯く私に、カレンさんはやや落ち着いた声音で言う。考えていた事が顔に出てしまったかな、と私は慌てて顔を上げる。

「そう見えますか?」

「うん。女の子にこんなこと言うのも悪いけど、ここにきた時からずっと、死人みたいな顔してる」

「……ずっと?」

「ずっとよ。取り繕ってるみたいだけど、私も職業柄、人間を見るのは得意だし。……昔のコウちゃんもそんな顔してたっけ」

 独りごちるようにカレンさんはそんなことを呟く。

「昔の、欠子先生?」

「そ、子供の頃のね。ウチは親が放任主義で、私は私で留学とかしてたから、あの子も寂しい思いをしてたんだと思う。両親が死ぬ前と後で、顔がちっとも変わらないんだもん」

「……欠子先生って、ご両親を亡くされてたんですか?」

 聞いてしまってから私は後悔する。欠子先生の親と言うことは、目の前のカレンさんの親でもあるのに。

「そうよ。確かコウちゃんが五つとかの時だったっけ。強盗に押し入られて、どっちもナイフで刺されて。私はその時は外国にいたんだけど」

 カレンさんは特に気分を害した様子もなく、素振りもなくあっけらかんと答えた。それでも不用意な質問をした罪悪感は、確実に私の胸を埋める。

「……すみません」

「ああ、謝らないで。別に、もう二十年近く前のことなんだから」

「でも……」

「それに、あの時の私たちより、あなたの方がずっと辛そうだもの。

 ……何があったかは聞かないけど、ここでは遠慮とか我慢とかは止めてよ。自分の家だと思って寛いじゃってね。辛い目に合ってるはずの子が、それを我慢して当たり前に礼儀正しく行動してるのって、見てて辛くなるの」

 そう言ってカレンさんはそっと、あまりに自然な動作で私の頭を撫でてくる。その感覚に私は何故か、失ったばかりのお母さんではなく、遠い日のお父さんを思い出した。

「——あ」

 と、その時カレンさんが何かに気付いたように声を漏らした。

「帰って来た。あなたの先生。今日は随分早いわね」

 言ってカレンさんは窓の外を指差す。この部屋はちょうど私の歩いて来た道路の方向に面していた。見ると、見覚えのある長髪の男が真っ直ぐこの建物へ向かって道路を歩いていた。——殺人鬼の御帰還。

「行って」

「……え?」

「玄関で出迎えてやって。驚かせてやんなさい」

 カレンさんは悪戯っぽく笑って、ぽん、と私の肩を叩く。私は促されるまま席を立って部屋を出るしかなかった。

 落ち着かない気分で、私は玄関に立つ。

 そうしていると、一分もしないうちに扉が開いて、見覚えのある顔が姿を現した。

「ふ。大当たりだ」

 先生は開口一番、そんな事を呟いた。

「……不躾ですみません」

 ともかく、そんな当たり障りのない挨拶をする。欠子先生はさして驚いた様子もなく、見慣れた微笑をその顔に浮かべているだけだった。

 ……その余裕に、何だか腹が立った。

「相談があって来ました」

「だろうね。そろそろ来る頃合いだと思っていた」

 その言葉を聞いて、私は頭の中で首を傾げる。そう言えばカレンさんも、欠子先生が私の来訪を予測していたような事を言っていた。

「我が家にようこそ、と帰ってきた私が言うのもおかしいか。まあいい。楽にしなよ。どうも話が長くなりそうだし」

 先生はそう言って、教師の模範のような和やかな顔を作った。

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