第10話 悪魔の会合
三
都内の某高級料理店。その中にある個室で、欠子洸牙はテーブルを挟んで
がっしりとした体格をした佐柳は、白髪交じりの長髪をオールバックにしている。欠子よりさらに三十年以上の時を感じさせるその顔には、数本の深い皺が刻まれている。一見して荒々しささえ感じさせる屈強な貫録が、彼にはあった。
「――で、結局のところ、その女子生徒とやらはどうなる?」
グラスに並々注がれたワインを飲み干すと、佐柳はそう話を切り出す。
「どうもしませんよ。ただ普通に今まで通り、健全に学生生活を送ってもらうまでです」
「普通にとは行かんだろう。自分の担任が人殺しだと知っちまったんだぜ。第一、そのお嬢さん、本当に信用できるんだろうな。優秀って言っても子供だろう。家族にでもポロっと話しちまうかもしれんぞ」
佐柳の声は気の弱い者――例えば山森などが聞けば、それだけで委縮してしまいそうなほど圧のあるものだった。しかし欠子は慣れた様子で首を横に振る。
「心配いりませんよ、厳重に脅しておきましたから。子供というのは否定しませんが、あれで喋るほど彼女は愚かじゃない」
「そうは言うがなぁ……」
佐柳は納得がいかないようで、眉を顰めて首を捻っていた。
「やっぱり殺しておいた方が良かったんじゃねえのか。その現場を見られた時点で」
「私に罪もない少女を殺せ、言うんですか、佐柳さんは。酷いことを言う」
「はっ。冗談抜かせ、お前が今までに何百人殺したと思ってんだ。
……なあ真面目に答えろ。そのお嬢さんが万が一にでも口を滑らしたら、相当面倒なことになる。お前だって分かってるはずだろ。今からでも殺した方が安全なんじゃねえのか」
「彼女は殺すべきではありません。社会にとっての損害となる」
欠子はそう言って、ウイスキーの入ったグラスを仰ぐ。
「さっきも言ったように非常に優秀な生徒です。社会や政治に対する関心も強い。将来、必ずこの国の社会で重要な役割を果たすようになる」
「ほう。そこまで言うか」
「何より彼女は、私の殺害現場を発見した。それだけでも、その非凡さは疑いようがない。……私はね、神に誓って
「お前がくだらないミスをしたんじゃなく、そのお嬢さんの尾行術が優れていただけだと?例えそうだとしても、そんなスキル、今どき探偵にでもならなければ役に立たないだろう」
「それは違いますよ。
無論、彼女に尾行の経験などあろうはずもない。あの時も、初めは普通に歩いていたでしょう。しかし薄暗い路地裏を歩く途中、本能のようなもので、何かを感じた。その不穏な何かが、彼女に気配を消させた。――無意識のうちに気配を消すことが出来た。どうすれば自分が周囲の世界と同化できるのか知っているんです」
「……どうもな、尾行が上手いから優秀だ、って言われてもピンとこないが」
「だったら空気を読む能力に秀でている、とでも言い換えましょうか。そういう人間はかなりの確率で大成する」
佐柳はふん、と鼻を鳴らす。
「お前だってそんな人間の一人だ。その厄介な衝動さえなければ、総理大臣にだってなれただろうに」
「――――」
押し黙った欠子は、少なくとも生徒の前では一度も作ったことのない表情をしていた。それを見て佐柳は、やれやれと言う風に息を吐く。
「余計なことを言っちまったか。忘れてくれ。
しかし随分と買っているんだな、そのお嬢さんを。そうまで殺したくないか」
「……これでも教師です。俗な表現をすれば、彼女は『自慢の生徒』といったところでしょうか」
「そんなに自慢なら、名前くらい教えてくれてもいいんじゃねえのか?俺だってそれくらいは把握しておきたいもんだ」
「お断りします。話がややこしいことになるし、あなたの場合、独断で口封じに動きかねない」
にべもなく要求を突っぱねられ、佐柳はバツの悪そうな顔で溜息をつく。そうして少しの間考え込むような仕草をした彼は、やがて真剣な面持ちで口を開いた。
「――なあ、お前の殺人は絶対に世に出ちゃならない。それは分かっているな?」
「ええ。心得ています」
「……分かった。お前が安全と判断したなら、とりあえずは信じよう。その目撃者はお前に任せる」
迷いなく頷いた欠子の答えを受けて、ようやく佐柳は納得したような表情を見せる。
「しかしそうなると、むしろ心配なのはその娘の精神じゃないか。脅しをかけたのはいいが、子供ながらにお前の本性を知ってしまっているわけだろう。罪悪感やらに押し潰される可能性もある。……いっそその娘の心の中から殺人への拒絶が消えるよう、お前が仕向けてやればどうだ。懐柔とか洗脳とか得意だろう。子供相手ならやりやすいだろうし、その娘がお前の本性に肯定的になれば、通報の危険も少なくなる」
舌の根も乾かぬうちに……。今度は欠子が溜息をつく番だった。
「……それも選択肢としては考えましたが、やはり良い手段とは言えません。稀有なほど健全な人間です。社会の闇に染めるような真似はしたくない。
この社会にはどうしようもなく暗い部分がある。大切なのはバランスです。私のような生まれついての異常者がそれを担うのはいい。ですが彼女のような健全な人間までもが暗がりを知っては、この社会は成り立たなくなってしまう」
「そいつはまた、過保護なことだな」
「それに、万が一彼女の口から私のことが漏れても、それがそのまま危険には繋がらないでしょう。実際、証拠は残していないし、所轄の警察相手ならいくらでも圧力をかけられる」
「だとしても、ちっぽけな不安要素さえ残していたくないんだよ」
そう吐き捨てた佐柳は、どこか拗ねるような顔をしていた。豪胆な性格をしていながら、要所では賢しい子供のように慎重になる。そういう性質だからこそ、この男は今の地位を手にできたのだろうと欠子は思う。
と、スマートフォンへの着信を知らせるバイブ音が鳴り響いたのはその時だった。
欠子はポケットからスマートフォンを取り出して、画面を確認する。
「……”本業”の同僚からです。失礼」
そう言って欠子は席を立ち、部屋の端に移動して通話を始める。
佐柳は一人、空になったグラスにワインを注ぎ、それを飲みながら、欠子に目をやった。
本業――すなわち教師。欠子洸牙という男はその内にどうしようもない異常性を抱えながら、社会人としてはこれ以上ないほど真っ当だ。
もともとあらゆる才能に秀でた男だった。教師という職業に当てはめても、彼ほど相応しい人間はいないはずだ。多くの人間を導く聖職なのだから、数多の才能を持つ彼は、勤め先の学校ではさぞ信頼されていることだろう。多くの生徒に慕われている美丈夫の姿がありありと想像できる。
とはいえビジネスパートナーたる佐柳としては、”表向き”の仕事に打ち込むのもほどほどにしてほしい、というのが本音だった。表に傾倒すればするほど、裏にとっての弱みは増える。
「――何ですって!?」
欠子の驚愕した声が聞こえたのはその時だった。
珍しいな、と佐柳は思う。その有能さを裏付けるように、欠子は滅多に感情を表に出さない。その顔は大抵の場合、冷酷な鉄面皮か、もしくは優し気な微笑を張り付けているかだ。
「何があった?」
欠子が通話を終えて席に戻るのを待って、佐柳は訊いた。とはいえ具体的な答えが返ってこないことは分かっている。この男は普段から、”表向き”に”本性”の側の人間を立ち入らせない。
「……例の少女を健全なままに、というのは無理になりました」
ほらな、と佐柳は胸中で肩を竦めた。漠然としていて、何のことだか分からない。
「申し訳ありませんが、私はこれで失礼します。少々忙しくなりそうだ」
そう言うと、欠子は手早く手荷物を纏め始める。まだ注文すらしていないというのに、本気で帰るつもりらしい。せっかちなやつだ、と佐柳が溜息をつく頃には、欠子は上着まで着終わっていた。
では、と個室を出ようとする欠子を、佐柳はすんでのところで呼び止める。
「何です」
「本来の要件を忘れてるだろうが。次はこいつだ。本業に精が出るのはいいが、こっちはこっちでのっぴきならない。次に何かやらかす前に終わらせてくれ」
そう言って、佐柳は一枚の小さな封筒を欠子に手渡した。
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